「流し」として生きる。歌う漫画家・荒木ちえさんがコロナ禍で感じた “人付き合いの本質”

2022年11月24日

石畳を進むと、ほの明るい提灯に照らされた暖簾の先に、昔ながらの酒場が軒を連ねます。中から聞こえるのは、ぺんぺんぺんという三味線の音と、ハスキーな歌声。新宿・荒木町。昭和が色濃く残るこの町で、今や少なくなった流しとして活動しているのが、「歌う漫画家」荒木ちえさんです。

客からのリクエストに応えて歌い、時には歌いながら似顔絵も書く独自のスタイルが人気を呼び、今年活動10周年を迎えました。
しかし、その道は決して平たんなものではありませんでした。美空ひばりさんの名曲も手掛けた小椋 佳さんと偶然出会い、「紅白に出す」と言われるほど期待されてCDデビューしたものの、コロナ禍でコンサートは中止に。そして、自身にがんが発覚。人生のどん底を味わった彼女を救ったのは、流しで出会ったお客さんとの絆でした。

歌う漫画家・ちえさん。背景は自身で描いた自画像

コミュ障だった幼少期。「いじめられながら、いじめる子を観察」

愛知県で生まれた、ちえさん。小さなころから、絵を描くことがコミュニケーションの一部だったそうです。

「ランドセルにスケッチブックだけ入れて登校するような子どもでした。いわゆるコミュ障の、ちょっと困った子で(笑)。先生や友達が喋っている日本語は理解できるんだけど『この人、何言ってんだろう』みたいな。それで、言葉で伝わらないことを絵にして伝えたりしていました。母が漫画好きで、家に漫画の書庫があったんです。手塚治虫、水木しげる、高橋留美子とかがダーンッと全巻そろっていた。それで自然と、『漫画家になる以外考えたことがない』という子どもになりました」

父は大学教授、母は英語教師という教育熱心な家庭で育ったちえさん。親に「漫画家になりたい」という夢は否定されませんでしたが、「手塚治虫先生みたいに頭良くないとなれないよ」と言われたことを機に、漫画家になりたい一心で勉強したといいます。

「うまい教育方法ですよね(笑)。学校では友人とうまくコミュニケーションが取れなくて、まあ当然、いじめられたり、無視されたり。でも、そういうトラブルも『これは漫画に書けるかも』『ネタになるな』と思っていました。だから人からちょっと浮いているというか、いじめられながらいじめる子を観察するような、嫌な子どもでしたね(笑)」

どこか懐かしいタッチで描かれたちえさんのイラスト

漫画家としてデビューし上京。飲み屋でくすぶる日々を変えた運命の出会い

19歳の時に、ある出版社に送った漫画が新人賞を受賞。その後、「子連れ狼」で有名な漫画家の「小池一夫塾」に入塾し、毎週、名古屋から東京まで新幹線で通ったそうです。

新幹線代がいくらかかるのか、とか何も考えずに応募しちゃったんですよ。小池一夫塾では、プロとは何か、どんな読者層に向けて、何を書くべきかを叩き込まれました。毎週締め切りが来る鬼のような塾だったんです」

ノイローゼになりそうなほどの熱血指導を受けるうち、楽しかったはずの漫画を描くことが、急につまらなくなってしまったそう。名古屋の芸術短大に入り、自由に絵を描く楽しさを思い出すうち、知人の紹介で、地元の情報誌で漫画の連載を持つことになりました。
漫画家のつながりも広がり、2011年に多くの機会を求めて上京。しかし、そこで現実の壁が立ちふさがります。

「地方では運よく情報誌で連載が持てたけれど、全国誌や漫画雑誌に載るのは全然違うハードルだったんです。なので、上京はしたものの、アルバイトをしながら、ゴールデン街で飲んだくれていましたね(笑)。ゴールデン街では、カメラマンやデザイナー、雑誌記者とかいろんな職業の人に出会いました。その中に、元々大ファンだった漫画家の東陽片岡さんがいたんです」

昭和歌謡にも精通し、スナックを描いた漫画で有名な東陽さん。東陽さんが主催するイベントに足を運ぶうちに出会ったのが、荒木町を中心に活動をしていた流しの荒木新太郎さんでした。新太郎さんは、当時日本最高齢の流しと言われた大ベテランで、14歳から全国をギター1本で渡り歩いてきたそうです。

新太郎さんとちえさん。新太郎さんは全国にファンがいるベテラン流しで、新太郎さんに会いにわざわざ遠方から荒木町に来る人もいたとか。

「私は元々、昭和歌謡が好きで。スナックで、隣のおじさんが好きそうな歌を歌って、おごってもらうのが好きだったんです(笑)。東陽先生のイベントに新太郎師匠がゲストに来ていて、本物の流しのギターで歌えるというコーナーで『歌いたい人~』となった時に、真っ先に『はいっ』と手を上げたのが私でした」

「流しはミュージシャンじゃない」師匠から叩き込まれた流しの心

ある時、東陽先生から、こんな提案を持ち掛けられます。
「新太郎師匠に、弟子入りしたら? 流しの経験もいつか漫画のネタになるんじゃない?」。
新太郎さんも「恩のある東陽先生の頼みなら」と応じてくれ、弟子入りが決まります。しかし、流しは決して「堅気」ではない仕事。弟子入りに葛藤はなかったのでしょうか。

「周りに話したら『嫁に行けなくなるよ』って全力で止められましたよ。でも、ちょっとずれてる私としては『全然大丈夫でしょ』って感じで。昔の“任侠”みたいなことでしょ、と。師匠はただそういう時代を生きただけ。周囲は『1カ月持つかな』と賭けをしていたみたいですけど、私は淡々とと続けました」

新太郎さんがギターを弾き、ちえさんが歌うスタイルが定着。荒木町を中心に、二人で酒場を練り歩いた。

ちえさんいわく、新太郎さんは「人と人とのつながりに関して、鬼のように神経質な人」。仁義、序列、優先順位――。新太郎さんは積極的に何かを教えてくれるタイプではありませんでしたが、ちえさんは酒場でのルールや、お客さまの気持ちを読んで先回りすることを、その背中から学びました。

「師匠から口を酸っぱくして言われたのが『流しっていうのは、ミュージシャンじゃなく接客業』ということ。出会いがあるから、お金が生まれるし、次につながっていく。だから、師匠は、出会いをつなげてくれた人には必ずアフターフォローを入れるし、受けた恩をどう返せばいいのかを常に考えていました」

新太郎さんが人とのつながりを大切にするのには、自身の苦い経験が元になっています。昭和のころ、全国に数千人はいたといわれる流しは、酒場のスターでした。行く先々でちやほやされ、天狗になって失敗することもあった、と新太郎さんは生前よく語っていたそうです。

「60歳を過ぎて、丸くなったころに出会ったからよかったんですね。とんがったときに出会っていたらとんでもなかったと思います(笑)」

接客業バイトの経験も活きた「誰が接待されているかを5秒で見抜ぬく」

週に5日、夕方から深夜まで、師匠と2人で荒木町の飲み屋街を流しました。求めがあれば土日も出張し、多忙を極めました。ちえさんが弟子入りした最初の一カ月で書いた似顔絵は100人以上。しかし、接客業でのバイト経験や、漫画家を目指して磨いてきた観察眼や教養が生き、「自分に合っているな」と感じたそうです。

「当時はコースターの裏に、お客さんの似顔絵を描いていたんです。私は昭和歌謡マニアだからお客さんが『あの歌なんだっけ』となったときに、『あ、それは西田佐知子のあの歌です』とか答えて重宝されていました。で、お客さん同士で会話に困ったら、絵を描かせておけばいい、みたいな(笑)。きれいどころのお姉さんたちとは違うフィールドで重宝してもらえて、『水があっているな』と思ったんです。流しになってからも、グループで飲みに来ていている人の誰が1番偉い人で、誰が接待されているか、というのをぱっと5秒ぐらいで見抜いて、うまく立てたり。接客業ではそういう言葉じゃないコミュニケーションが必要なんですよね」

はじめは「すぐ辞めるだろう」と高をくくっていた新太郎さんが、ある時ポツリと「あんたがいなかったら、俺、もう仕事できないよ」と言ってくれた時は、胸が熱くなったとちえさんは明かします。

美空ひばりの名曲を手掛けた小椋佳さんと出会い、デビューするも……

ある時、営業で訪れた小料理屋で、運命の出会いが訪れます。「この人の似顔絵を描いて」と頼まれ、ある年配の男性客の絵を描くことに。リクエストされた美空ひばりの『愛燦燦』を歌いながら筆を進めると、なぜか周囲からクスクスという笑い声が。曲が2番に差し掛かったとき、あっ、と気付きました。似顔絵を描いているその男性は、自分が今歌っている曲「愛燦燦」を作詞・作曲した、小椋 佳さんだ、ということに――。

「『君、声が強くて、いいね。だけど、ひばりさんにも言ったんだけど、そこのビブラートはね……』なんてダメ出しをもらって(笑)。私、お金をもらいながら歌唱指導してもらえるなんて、ラッキーだなって思いました」

そんな時、2017年に新太郎さんが、がんのため75歳でこの世を去ります。ちえさんの献身的な支えもあり、新太郎さんはぎりぎりまで酒場に立ち続け、生涯現役を貫きました。師匠亡き後も一人前の流しとして活動すべく、ちえさんは、当時の記憶がないほど、がむしゃらにはたらいたといいます。

新太郎さんが亡くなって2年が経ち、ようやく仕事も落ち着いてきたころ、あるお客さまから電話がかかってきました。
「あの時のことを、覚えていますか?小椋さんが、あなたに会いたいと言っているんだけど」それは、かつて小椋さんと出会った小料理屋で同席した男性客でした。ある夜、荒木町のお店で、ちえさんは小椋さんと再会します。

小椋佳さんから曲を贈られたちえさん。小椋さんプロデュースのミニアルバム「泣かないよ」でCDデビューすることに。

「私はいつもの営業のつもりでお邪魔しました。師匠が生きている時は師匠が知らない歌は歌えなかったんですが、亡くなった後は、ジャズやシャンソン、ポップスも解禁していたんです。その時、歌ったのが『シェルブールの雨傘』というジャズの曲。たまたま小椋先生の好きな曲だったそうで、いたく気に入ってくださったようでした」


「僕はあなたに、曲を書きます」。ちえさんの歌を聴いて、小椋さんはこう宣言したそうです。その宣言通り、小椋さんはちえさんに「泣かないよ」という曲を書き下ろします。2019年7月、ちえさんはこの曲でCDデビュー。小椋さんの全国ツアーにもゲストとして呼ばれ、ステージで歌を披露しました。

「来年は紅白に出すから。2020年は荒木ちえの年にしたい」。小椋さんはそう語るほど、ちえさんに期待をかけていたそう。「紅白に出場して、荒木町から中継してもらえれば、お世話になった人たちに恩返しができる」――。ちえさんがそんな目標を抱き始めた矢先、コロナが猛威を振るい始めました。

「突然すべての幕がボンっと落ち降りちゃって……。緊急事態宣言で、お店も回れなくなるし、 歌のプロモーションも全然できないし、一緒に回らせていただいていた小椋先生のコンサートも軒並み中止になってしまいました」

大腸がんが発覚。「流しができなくなることが、死ぬよりつらかった」

不運はそれだけではありませんでした。2021年1月、ちえさんに直腸がんがわかります。思い返せば、師匠が亡くなった後から体調が優れなかったそう。腫瘍は5.5センチ。医者からは「ステージ3はほぼ確実、ストーマ(人工肛門)になるかもしれない」と説明を受けました。そうなれば、トイレも不自由になります。酒場を行ったり来たりする流しには、致命的な病気でした。

「ライフワークともいえる流しの仕事ができなくなるかもしれないとい言われたのが、一番つらかった。死ぬことよりね、つらかったんです」

治療費も悩みの種。コロナ禍で営業できず収入がないのに、治療費は湯水のように出ていきます。「とにかく毎日お金のことばかり考えていました」とちえさん。そんな時、心配して支えてくれたのは、荒木町で出会ったお客さんたちでした。

「お客さんが私のファンクラブを作ってくれて、会費で支えてくれたんです。あるお客さんは、似顔絵を何枚も注文してくれて、リモートで似顔絵絵師として収入を得ることができました。猫を飼っているので、入院中どうすればいいのかも不安だったんですけど、それもお客さんであり友人の一人が『うちで預かるから』と迎えに来てくれて。荒木町で出会ったいろんな人のつながりで、四方八方から助けてもらった感じでした」

荒木町で出会ったファンによる、ファンクラブのサイト「ちえfun倶楽部 ~おひねリストの会~ (peraichi.com)

2021年2月、ちえさんは無事に手術を終えました。心配されていた転移は奇跡的になく、ステージ2で済んだそう。療養期間を経て、2022年7月、東京都の蔓延防止法重点措置が解除された後から、少しずつ仕事を再開しました。ちえさんは「落ちるところまで落ちちゃったから、今生きていて楽しいな、みたいな」と、からりと笑います。

ちえさんは今年で流し10周年。師匠の後を継ぎ「荒木町の名物」として飲食店やお客さんから愛される存在に。

「ずっと飲みに出られなくて『久々に外で飲む』と言う人が、荒木町で私を呼んでくれたのはうれしかったですね。コロナ禍でも、ずっといいお客さんが支えてくれているお店ってありましたよね。ほかにもいろんな選択肢がある中で、私を選んで会いに来てくれたというのは、ありがたいですよね」

コロナ禍でちえさんが改めて感じたこと。それは、人付き合いの本質でした。

「それほど熱狂的なファンではないと思っていた人が、ある時突然お金を送ってきてくれたり。『人ってわかんないな』と思いました。何かのきっかけで離れてしまう人もいるけれど、私の知らないところで見守り続けてくれる人もいる。それは、現場で感じた熱量では、分からなかったことなんです」

流しの魅力――それは、人との出会い

現在は、週に2回荒木町で流すほか、月に一度、渋谷のライブハウスにも立っているそう。流しのリクエストは2曲1,000円から。「流し初体験」という人も多く訪れるそう。
「流しは、マンツーマンのライブ。お酒飲んでいたら来てくれる、あなただけのライブです」とちえさんは言います。50代は中森明菜や松田聖子のリクエストが多く、30、40代は、人によって自分の好きな音楽のジャンルが違うことが多く、ニッチなリクエストが来たりして難しいそう。

これまで描いてきた似顔絵の一部。これまで描いた総人数は「多すぎてわからないです(笑)」。

コロナ禍以降、似顔絵を色紙でなくiPadで描くようになりました。まだ変えて数年だそうですが、そこには数えきれないほどのお客さんの似顔絵データが残っています。改めてちえさんに流しの魅力を聞くと、「人との出会いです」ときっぱりと言います。

「後から考えると、運命のような出会いとか、10年来のお客さんも大勢います」

筆者は以前、師匠の新太郎さんにも、同じ質問をしたことがあります。亡くなる2週間前、病床の新太郎さんは、流しの魅力について「会う人だね」と語っていました。人情を大切にする、流しの炎は、確実にちえさんに引き継がれています。

「今は漫画家というより、流しに、自分のアイデンティティがあるんです。これから漫画を描くことも、歌手として歌うこともあるかもしれない。でも、それはあくまで流しのスピンオフ。私は一生、流しとして生きていきます」

(文:市岡ひかり 写真提供:荒木ちえさん)

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ライター市岡ひかり
通信社記者、月刊誌編集者、週刊「AERA」編集部などを経てフリーに。著名人のインタビューなどを手掛けるほか、働き方、子育てなどをテーマに執筆。掲載媒体はCHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなど。2児の母。
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