難病ALSと白血病で両親を亡くす。外資系CA辞め年収300万ダウンも、35歳で吉本芸人になった理由。

2025年5月13日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

YouTubeやInstagramなどのSNSの総フォロワーは63万人以上。外資系航空の客室乗務員から芸人になり、今ではイベントや企業案件などでも幅広く活躍するCRAZY COCOさん。華やかな現在の姿とは裏腹に、20代〜30代前半までは「自分に合う仕事が見つからない」と悩み、これまでに5度の転職を経て、吉本芸人になったと言います。
父親や親しい身内との死別、自身のコロナによる入院、そして母親の余命宣告──。人生の大きな転機をいくつも乗り越える中で、COCOさんは「今、本当にやりたいこと」にたどり着きました。

一度きりの人生、「はたらいて、笑おう。」を実現するためにはどうすれば良いのか?固定観念に縛られずに行動し続けるCOCOさんから、前に進むためのヒントを伺いました。

“天職”を求め転職ラッシュを駆け抜けた、激動の10年間

──まず、COCOさんのご経歴を教えてください。

大学では1年休学してオーストラリアに留学していたこともあり、23歳で新卒としてタオル商社に入社しました。留学経験もあるので「英語を使って仕事がしたい」と思っていたんです。でも、実際に配属されたのはなんと中国担当。取引先の方は日本語ペラペラで、チャットも電話もすべて日本語……。「思ってたんとちゃうやん?」という心境でしたね(笑)。

ただ、当時は「社会人ってこういうもんか」と思い込んでいたので、3年は同じ会社で勤務したほうが良いだろうと、心を無にしてはたらいていました。

──そこから、CAに転職されたのにはどんなきっかけが?

留学時代の友人と久しぶりに再会したのがきっかけです。彼女はドバイを拠点とした外資系航空でCAとしてはたらいていて、待ち合わせ場所に海外のクルーたちと一緒に現れました。楽しそうに仲間と会話をしている姿が、とにかくキラキラして見えたんですよ。

彼女と近況を報告し合っていると、「今のCOCOちゃん、全然楽しそうじゃないよ。もうすぐ中途採用の募集があるから、受けてみたら?」と言ってくれて。彼女がはたらく外資系航空の話を聞いて魅力的に感じましたし、そこではたらく煌びやかな友人の姿を目の当たりにしたこともあって、「私も、彼女と同じ外資系航空のCAになる!」とすぐに決断しました。

それから行動するまでも早かったです。翌日、50万円を下ろして仕事終わりにCAになるための専門学校に行き、「体験入学できますか?」と聞きに行きました。枠が空いていたのでその日のうちに体験入学して、入学金の支払いまで済ませたんです。そこから2カ月後に学校へ入学し、夜間クラスだったので仕事をしながらなんとか勉強を続けました。

──すごい行動力ですね!CAの入社試験は倍率が高そうですが、学校に入ってからはどんな対策をされたのですか?

徹底的に企業研究を行いました。外資系なので日本のサイトだけじゃなく海外サイトまでくまなくチェックしたり、試験に出ないような細かい知識もインプットしたり。入社したいと思っていた外資系航空にまつわる時事問題は、大体答えられたと思います。誰よりもその航空会社のことを知っている状態に仕上げていきました。

27歳の時、2回目のチャレンジで内定を掴み取り、そこからはドバイを拠点にCAとして世界中を飛び回る生活が始まります。「明日も仕事楽しみだな」と思いながら寝て、翌朝はワクワクして起きるような、充実した日々を過ごしていましたね。

──そんなワクワクするCAの仕事を離れ、また転職をされたのはなぜでしょうか。

31歳の時に母の体調が悪くなり、外資系航空を退職したんです。そこから怒涛の転職ラッシュが始まりました。

まず転職したのが、英語学習のコンサル会社。年収がCA時代より約300万円ダウンして東京で一人暮らしをするのも厳しく、半年で退職しました。次に転職したのが33歳の時で、美容商材の海外営業職でした。でも、コロナの影響で入社から半年で会社が倒産してしまって……。

その後はコロナ禍で就活もうまくいかず、職業訓練校に通いました。選んだのは、苦手だったパソコンスキルと向き合える、ExcelやPowerPointの使い方を一から学べるコースです。

そこでスキルを習得し、34歳で4度目の転職を経て入社したのが、外国人の就労支援を行う会社でした。多国籍な環境で英語を使う機会も多く、同期にも恵まれましたね。でも、入社から3カ月ほどでコロナに感染してしまい、2週間の入院が必要なほどの重症になってしまったんです。この時の経験が、私の人生の大きな転機になりました。

コロナ入院中の“死”への覚悟が導いた、吉本芸人への道のり

──入院生活がなぜ「人生の転機」なのですか?

芸人になるきっかけになったからです。病院のベッドで一人過ごしていると、自然といろいろなことに考えを巡らせるようになって。知り合いがコロナで亡くなっていたこともあって、「もしかしたら私もこのまま……」と、リアルに「死」を感じたんです。

このとき、自分に問いかけたのが「もし明日死ぬとして、今日もこの仕事をやるのか」ということ。答えは「NO」でした。

そこからの入院期間は、子どものころの記憶までさかのぼって自己分析をする時間に充てました。その過程で、舞台で何かを発表したり、人前で話したりする時間がとにかく楽しくて大好きだったことを思い出して。自分の話で人が笑ってくれたり、リアクションが返ってきたりするのがうれしかったですよね。ここで「人に元気を与えられるエンターテイナーになりたい」と決心ました。

心を決めてからは、とりあえず「エンターテイナー 女 なり方」とスマホで検索しましたね。そこで出てきたのが、『女芸人No.1決定戦 THE W』のエントリー募集で。ちょうど締め切りギリギリのタイミングだったので、「これはもう行けってことやな」と思い、そのまま応募しました。

──エンターテイナーになりたいという強い想いはあっても、未経験からの挑戦に不安はなかったのですか?

『女芸人No.1決定戦 THE W』にエントリーした時は「優勝したい」というよりも、「吉本に気付いてほしい」「できれば吉本に入って、エンターテイナーとして売れたい」という一心で。未経験からの挑戦でもあったので、普通のことをやっていても審査には通らないし、やれることは全部やろうと決めていたんです。
審査に臨むまでには、外資系航空会社に合格したときと同じように、まずは市場調査だと思ってネタの研究から始めました。第1審査は2分間の動画審査だったので、短い時間の中でもしっかりインパクトを残そうと戦略を立てましたね。考えた末に私はCAの格好をしてふざけたネタを披露し、無事に第2審査へと進めたです。

エントリー数は750組ほどで、そのうち第2審査に進めたのは244組。次は4分のネタをつくる必要があったので、「じゃあまずは、この244組の第1審査のネタを全部見よう」と。

────244 組ぶんも!気が遠くなりそうな作業ですね……。普通はあきらめてしまいそうです。

YouTubeやSNSにアップされている参加者たちの動画を片っ端から見て、Excelにまとめました。ネタの種類(漫才、コント、漫談)や、最初の“つかみ”のタイミングは何秒か、どの構成がウケているのか。とにかく全部分析しましたね。

「漫才は6秒以内に笑いが取れていないと、観客は“面白い”と感じにくい」などの傾向を掴んで本番に臨んだ結果、なんと準決勝まで進出。その会場で吉本興業からスカウトを受けて、35歳で芸人へと転身しました。

人生に“いつか”はない。誰かじゃなく、「自分の正解」で生きる

────未経験で芸人になり、約3年がたった今ではSNSでの総フォロワー数は63万人を超えています。大きなキャリアチェンジだけでなく、ここまでスピーディーに成長できているのもすごいです。

「期限」があったのも、スピード感を持って行動できた大きな理由の一つです。ちょうど吉本に所属したばかりのタイミングで、母が白血病を患い、余命13カ月と宣告されました。私は東京、母は大阪。舞台を観に来てもらうことも難しく、「元気なうちに成功した姿を届けたい」「テレビに映る私を見て笑ってほしい」と強く思ったんです。
そして実は、私が2歳のころから父がALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病で寝たきりで。私が中学2年生の時に亡くなっています。その半年後には、仲の良かったいとこの兄が突然亡くなり、直後に叔父も他界。ほんの1〜2年の間に大切な人たちが次々といなくなる経験を経て、小さいころから「人はいつか必ず死ぬ」ことを思い知らされていたので、行動するスピードが早くなったのかもしれません。

──芸人になるにはNSC(吉本総合芸能学院)に在籍して下積み期間を設ける人も多い中、どのように力をつけていったのですか?

おっしゃるとおり、芸人の世界では「焦らずじっくりと実力をつける」という考え方が主流で、吉本の社員の方からは最初のころ「SNSやテレビではなく、まずは舞台経験を積む下積み経験が必要だ」とも言われました。もちろん、長い時間をかけて努力を積み重ねていける方々は素晴らしいし、プロの芸人になるには下積みをすることが正解なのかもしれません。でも、芸人として活躍している姿を母に一刻も早く届けたかった私にとって、「時間」はとにかく貴重で、1日1日が勝負だった。スピードにもこだわりたいからこそ、「自分なりのやり方で勝負させてほしい」と考えや根拠をセットにして事務所に熱意を伝え、そこからひたすらSNSでの発信や分析を続けたんです。

こうして自分なりに試行錯誤をした結果、YouTubeのフォロワーは10カ月で約10万人、Instagramのフォロワーは1年で約20万人まで増加。『アメトーーク!』をはじめ、あこがれていた有名なテレビ番組にも出演させていただけるようになりました。

そしてなんと、余命宣告を受けた母は13カ月どころか、20カ月も生きてくれたんです。主治医の先生は「“奇跡”と呼べるような延命が起きる患者さんは、好きなものに触れている方が多いんです。大好きな落語を聞いて、余命4カ月から2年にまで伸びた例も見てきました。娘さんの頑張りが、生きる力になったんだと思いますよ」と。言葉では言い表せない感情になりましたね。

──「家族に活躍する姿を届けたい」「人を元気にできるエンターテイナーになりたい」という熱意が原動力になったのですね。一方で、それほどまでの熱意を注げることがまだ見つかっていない方も多いと思います。

熱意が注げる対象を見つけるには、まずは自分のことを深く知る必要があると思っています。でも、自分の頭の中だけで考えていても限界があるので、外に出て、誰かと話していろいろな価値観に触れてみる。そうすれば、新たな考えや発見が生まれて、より自分自身を知ることができます。

あとは、私がやって良かったと思うのが「好きなこと100個、嫌いなこと100個」を書き出す簡単な自己分析です。やりたいことが分からなくても、「好き」だけではなくて、「スーツを着て出社するのが嫌」「9時17時のはたらき方が合わない」みたいに、「いやなことを選ばない」だけで、進むべき方向が見えてくるもの。これからの人生の選択肢も変わってくるはずです。

──最後に、「はたらく」を自分らしくするにはどうすれば良いか、読者の方へメッセージをお願いします!

まずは、固定観念を一度脇に置いてみてください。「年収500万以上じゃないと不安」「土日休みじゃないと無理」など、昔の私もはたらくことに対してフィルターをたくさん持っていました。でも、それは“世の中の大多数の考え”であって、“自分にとっての正解”ではなかったんです。

芸人としての最初の月収が1万5,000円からのスタートでも、芸人になってからの私はこれまでで一番楽しく、自分らしくはたらけています。誰かの物差しに自分を合わせる必要なんてありません。自分が「好き」と思えることや、「これは嫌だ」と思うことにちゃんと目を向けてみてください。泣いても笑っても、人生は一度きり。あなただけの道を信じて、一歩を踏み出してみてほしいです!

(「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆  編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆)

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ライター朝川真帆
フリーランス取材ライター。住宅系コミュニティマネージャーとしても活動中。2021年、新卒でコンビニの会社に入社し、数年後結婚を機に上京・退職。2023年に取材ライターとして独立した。現在はキャリアや事例導入、グルメなどのジャンルをメインに執筆中。フジロックのファンサイト、フジロッカーズオルグでもライターとして活動中。管理栄養士資格を持っている。関西出身。

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