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- 「雑草やコオロギ食べた」5歳で父が蒸発。極貧少女がフリマアプリ売上1,800万の女優に。
「雑草やコオロギ食べた」5歳で父が蒸発。極貧少女がフリマアプリ売上1,800万の女優に。

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。
5歳で父親が蒸発、その後18歳まで他人宅にある3畳の物置に母・兄と3人で生活していたという壮絶な過去を持つのは、女優・緑川静香さん。映画や舞台、ドラマでのお芝居のほか、タレントとしてバラエティ番組にも出演されています。
さらには、これまでフリマアプリに1万品以上を出品し、総額約1,800万円を売り上げるという驚異的な記録を叩き出しています。日本酒のおいしさに魅了されたことから、日本酒のソムリエ・唎酒師(ききざけし)としての顔も持つのだとか。
マルチに活動の幅を広げる緑川さんのチャレンジ精神の源泉とは?そこには幼少期から培われた彼女らしい哲学が秘められていました。
主食は公園の雑草とスーパーの試食。壮絶すぎる貧困時代を支えたのは、母譲りのポジティブ精神
──どのような幼少期だったのか、教えていただけますか?
もともとは両親と兄、私の4人で家賃2万円のアパートで暮らしていたんですが、私が5歳の時に父親が蒸発してしまい……。そこからさらなる貧乏暮らしが始まりました。母がどこからか部屋を貸してくれる人を見つけてきて、3畳の物置で母と兄、私の3人で暮らしていたんです。

食事は公園の雑草か、スーパーの試食でした。スーパーは夏は涼しいし冬は暖かいし、四六時中入り浸っていましたね。入り口付近に青果コーナーがあるような構成の店舗では、あえて逆からまわって惣菜からスタートし、フルーツで終わるように試食巡りをしてフルコース気分を味わっていました。
調理してくれる店員さんには、「どんな商品なんですか?」「このお店で長くはたらいているんですか?」なんて、トークテクニックを駆使したりして。なんとか食いついないでいました。
──食べるものに困るほどの毎日を送られていたのですね。

父親がいなくなってしまった直後は特に貧しかったです。雑草も、食べていい種類かどうかの知識なんてもちろんなかった。母から、「日光には殺菌作用があるから、天にかざして自分の手が少し熱くなったと感じたら殺菌完了の合図だよ」と教えられ、それを忠実に守って飢えを凌いでいました(笑)。本当につらかったとき、一度だけコオロギを口にしたことも……(※危険ですのでマネしないでください)。今思えば、底辺中の底辺ですよね。
──そんなご自身と周囲を比べて、その生活ぶりの違いに葛藤することはなかったのでしょうか?
やはり、友達とは違う生活をしているな、とは感じていました。筆箱も持っていないので、友達の家に遊びに行ったときにご馳走になった、お菓子の空箱を筆箱代わりに使っていました。筆記用具を買うお金もないから、学校では各クラスの忘れ物ボックスで持ち主が見つからなかったものをこっそりもらったりもして。当時流行していた筆記用具が忘れ物としてボックスに入った際には、「どうか誰も取りに来ないでくれ〜!」と念を送っていました。
相当な貧乏だったので、小学校ではいじめの標的になった時期もありました。でもいじめを跳ね除けられたのも、実は貧乏のおかげなんです。小学生のころって、運動ができると人気者になれるじゃないですか。当時は当然自転車も買ってもらえなかったので、自転車で移動する友達についていつも走っていたんですよ。自ずと足が速くなって、運動会では一躍ヒーローに。
──貧乏だから窮地を切り抜けられたこともあったのですね。とはいえ、とてもつらい幼少期だったのではないかと思います。

それが意外に、悲壮感はあまりなくて。貧しいながらも、母が毎日を楽しく生き抜けるように、気丈に接してくれていたのが記憶に残っています。公園に出発する前に、「よし、今日も雑草食べに行こっか〜!」と、さも楽しいことのように振る舞ってくれていたんですよ。
母は、何かあると決まって「絶対大丈夫!」と声をかけてくれました。母親の「大丈夫」には、不思議な力があると思うんです。少し弱気になったときも、その一言だけできっとうまくいくって信じられたから。
お金はなかったけれど、愛情はたくさん注いでもらったからこそ、グレることもなくまっすぐ生きてこられたんだと思います。
お菓子に釣られて芸能界デビュー?家計を支えながらモデル・女優業をスタートした高校時代
──過酷な貧乏時代を経て、芸能界に進んだのにはどんなきっかけが?
16歳の時、雑誌『Seventeen』の編集者にモデルとしてスカウトされたのがきっかけでした。「モデルなんて自分には無理!」と思っていたので、何度もお断りをしていたんですけど。最終的には「撮影現場にはお菓子もいっぱいあるよ!」という声に釣られて、モデルになることを決めました(笑)。
振り返ってみると、芸能界に入る前からお芝居は好きだったんです。おもちゃも持っていなかったので、一人遊びでお芝居をするのが好きで。演者から脚本家、「ここで主題歌が流れて……」と演出家まですべて一人でこなして、空想のドラマを完成させるのが楽しかった。とはいえ、まさか自分が現実の世界でモデルや女優をするなんて、当時は考えたこともなかったのですが。
──実際にモデルの仕事を経験してみて、いかがでしたか?

やってみるとすごく楽しかったし、やりがいもありました。はじめてモデルとして掲載され、献本された『Seventeen』を持って家に帰ると、母が発売日に2冊も購入してくれていたみたいで。限りあるお金を私のために使ってくれたと知って驚いたし、涙が出るほどうれしかった。同時に、自分の頑張っている姿を分かりやすい形で見てもらえるのが芸能界なんだと知って、俄然気合が入りましたね。
18歳のころには、知人のつてで演技のレッスンに参加させていただいたり、映画出演の機会をいただいたりするように。相変わらずお金はなかったので、いくつもバイトを掛け持ちして家計を支えながらの駆け出し時代でしたが、それでも毎日が充実していました。
──芸能界に足を踏み入れてたった2年であこがれだった芝居の道へ。着実に夢へと近づいていったのですね。
楽しいことばかりではなかったですけどね。悔しい思いもしたし、自分の力ではどうしようもない理不尽にもぶつかりました。それでも、根が負けず嫌いなんでしょうね。「絶対に見返してやる!」って、なんとか踏ん張ってきました。
頑張る理由はお金だけじゃない。多忙な芸能活動とフリマアプリ出品を併行するワケ
──緑川さんといえば、フリマアプリを積極的に活用し、多数の不用品販売を成し遂げていることでも知られています。そもそも、フリマアプリとの出会いのきっかけは?

フリマアプリをはじめて使ったのは、自室を片付けようと不用品の整理をしていたときでした。最初はリサイクルショップや買い取り店に持ち込んでみたのですが、驚くほど値がつかなくて。捨てるのはもったいないし、何かほかに手段はないかと探していた時に、フリマアプリの存在を知りました。
最初はコツも分からず、闇雲に出品していたんですが、それでも思った以上にぽんぽん売れて。「これは良いお小遣い稼ぎになるな」と、きちんと送料を計算して値付けをしたり、相場を調べてみたりと、売り方を研究し始めました。
──不用品販売と聞くと、細々した作業が多いイメージがあります。芸能活動との両立は、大変ではありませんでしたか?

確かに、出品アイテムの写真撮影や情報登録、梱包に発注者とのやり取りなど、やるべきことは多いです。番組などの収録を終えてからは、自宅やホテルにこもってスマホに向き合い、黙々とフリマアプリの入力作業をしているので、結構孤独なんですよね。
でも、同時に楽しいこともたくさんあります。昔は匿名配送機能がなかったので、毎日のように郵便局で大量の荷物を発送していました。次第に窓口の担当者さんと仲良くなって、「この前テレビに出ていたね!」と声をかけていただく機会も増えて、そうした会話が日々の楽しみになっていました。梱包を工夫してサイズを小さくして、いかに送料を抑えられるかを考えるのも面白いですね。
──大変な中でもモチベーションを見いだす。緑川さんのポジティブ精神が伝わってきます。
どんなときも、楽しいことを見つけるのが得意なのかもしれません。というのも、何かを頑張るモチベーションって、お金や見返りだけじゃないと思うから。
私は、フリマアプリを「人とモノのマッチングアプリ」と呼んでいるんです。自分にとってはただの不用品でも、どこかの誰かにとってはずっと探していた必要なものかもしれない。そう思うとどんなものでも出品しようと思えます。誰かが喜んでくれること、人やモノの縁がつながっていくこと。そのすべてが頑張る理由になっています。
貧乏だったからこそ、今のキャリアがある。過去に感謝できる未来を自分でつくればいい
──緑川さんは、日本酒のソムリエといわれる「唎酒師」の資格も取得され、活動されているんですよね?
そうなんです。資格を取得したのは23歳ごろ。お酒を飲み始めたばかりの時に、日本酒のおいしさに魅了されました。

貧乏だったこともあり、どんなご飯でもおいしく感じるし、食べられるだけで幸せなんです。そんなただでさえおいしい食事に、日本酒が合わさると格段においしく感じるし、日本酒自体も合わせる食事によってコロコロ表情を変えてくれる。なんとかこの魅力を伝えたいと、唎酒師になりました。
SNSやテレビで日本酒の魅力を発信したり、酒蔵巡りをして作り手さんと交流し、より深く魅力を伝えられるように勉強したり。各種日本酒イベントへの出演や、製品プロデュースも行っています。
──その圧倒的な行動力や社交性は、どのようにして身につけたのでしょうか?
本来の私はバイタイリティもないし、全然社交的ではないんですよ。でも、やりたいことを前にすると人が変わるみたいで。大好きだからこそ、探究心をくすぐられ、行動できるのかもしれませんね。
お芝居だってそう。本当は人前に出るのが好きなタイプではないんですけど、お芝居自体が昔からずっと「好き」だったから自分と正反対の役であればあるほど、人物像を深く理解したい気持ちが高まってしまって。舞台となる現地をプライベートで訪れるほどです。「好き」から始まったものに対してはアドレナリンが放出されて、自然にのめり込んでいくんですよね。
──「好き」や「楽しい」が、緑川さんを突き動かす原動力なのですね。

そうですね。心躍る瞬間を見つけて、それに忠実に従っていった結果が、女優や不用品販売、そして唎酒師としての今なのだと思います。
私、幼いころから座右の銘は「とりあえずやってみよう!」なんです。何かに挑戦して失敗するのは、確かに怖い。でも挑戦しなければ、何も得られないじゃないですか。やってみて成功すれば100点だし、失敗しても0.1点くらいは何か得られるかもしれない。
貧乏出身で、フリマアプリのヘビーユーザーで。女優としては、珍しいキャリアかもしれません。でも多様な経験をしてきたからこそ、演技に深みが出るし、誰かの幸せを心から喜べる。特異な自分の過去、女優の仕事、フリマアプリ、それぞれから得られる日々の成長が、仕事の原動力につながっているのかも。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
心動く瞬間を見逃さず、ぜひ気持ちに正直になってみてください。仕事って、楽しいことばかりではないと思います。でも、ずっとつらいと思いながらはたらいていても、心は落ち込んでいくばかり。どんな仕事にも、「楽しい」と思える瞬間はきっとあるはず。小さな達成感や充実感を見つけられれば、それが自分自身の支えになります。
「どうせ自分は……」なんて、自分の限界を決めつける必要はありません。やりたいことがあるなら、思い切って仕事の幅を広げてみるのも良い。その挑戦が新たな刺激を生んで、今の仕事をもっと好きになることにつながるかもしれません。
貧乏時代の話をすることで、誰かが笑ってくれたり、「気持ちが楽になった」と言ってくれたりする未来が来るなんて、思ってもみませんでした。つらいことがあっても、そんな過去があったから今の自分がいる。過去のすべてに感謝できるような未来を自分でつくればいいと思っています。実際、今私はすごく幸せです。どんな過去も自分次第で味方にできるって、胸を張って伝えたいです。

(「スタジオパーソル」編集部/文・写真:神田佳恵 編集:おのまり・いしかわゆき)

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