高卒・工場勤務7年、偏差値40以下・TOEIC440点の私が英語教室を立ち上げ、成功できた理由。

2025年11月21日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

偏差値40以下、英語は「This is a pen.」レベル……26歳まで、英語とは無縁の人生を送っていた女性がいます。大阪府大阪市で「フレンズ英会話」を経営する、久山絵里さんです。

18歳のとき、金銭的事情から大学に進学せず、高卒ではたらく道を選んだ久山さん。工場で7年間はたらいたのち、25歳で広告代理店の仕事に就きます。

ところが26歳でオーストラリア一周の旅に出たのをきっかけに、現地での独学と帰国後の猛勉強を経て、30歳で英語教室を立ち上げました。創業から16年、現在は生徒数が常時約150名、平均継続年数6年以上の人気教室となっています。

久山さんはなぜ、英語教室を開く道を選んだのでしょうか。その理由と、久山さん流の“自分らしいはたらき方”について伺います。

26歳、「Apple」のスペルも書けないままオーストラリア一周旅へ

── 18歳のとき、高卒ではたらくことを選んだ理由を教えていただけますか。

私は少し特殊な家庭環境で育ったんです。4歳下の弟が生まれつき「脳性麻痺」という病気で、24時間看護が必要でした。

両親とも満足にはたらけないので家計は苦しく、私は「お金を貯めなあかん」とお年玉を全額貯金していました。「私が稼げば両親を楽にしてあげられる」と思っていたし、小学生のころから「将来は社長になる!」と言っていたようですね。

教室でネイティブ講師と雑談する久山さん

今でこそ英語の仕事をしていますが、学生時代は想像も付かないくらい地味な子でした。同級生が卒業アルバムを見たら「こんな子いたっけ?」と思われるレベルだと思います(笑)。

でも自己評価が低かったわけではなくて、なんでも自分でやらなきゃいけない環境だったので、「やればできる。やらなあかん」というマインドは常にあったかもしれません。大学進学は、元から選択肢になかったんです。

── 卒業後は、印刷工場に7年間勤めたそうですね。どんな生活だったのでしょうか?

印刷工場の初任給は12万円。でも、工場の仕事の後に夜中までディスカウントスーパーのアルバイトをしていたので、18歳の間に120万円ほど貯金が貯まっていました。

お金は普段節約して、使うべきときにドーン!と使うのが好きなので、社会人1年目で銀行で100万円を下ろし、中古車とバイクを買って、週末にしょっちゅう一人旅をしていました。

この時点で英語力は、「Apple」のスペルが書けないぐらいでしたね。昔の私を知らない方からは「嘘ばっかり!」と言われますが、本当にまったくのゼロでした。

英語が苦手な人は多いと思いますが、私の実力は平均をはるかに下回るもので(笑)、偏差値も40以下だったんです。

── 英語とは無縁で生きてきた久山さんが、なぜオーストラリアを1周しようと思われたのですか?

25歳のとき、印刷工場を退職しました。会社や仕事に不満があったわけではなく、ただ「もっと違う空気を吸ってみたい」と思い、フルコミッション制かつ登録制の広告代理店の仕事に就いたんです。

そうした状況で生活していたある日、新婚旅行帰りの先輩夫婦がオーストラリアのホワイトヘブンビーチの写真を見せてくれたんですね。その写真がめちゃくちゃ綺麗で、「ここに行きたい!」と思ったのがきっかけです。

── 一人旅だったそうですが、不安はなかったのでしょうか。

不安はなく、ただワクワクしていました。

7年間で貯めた貯金は約140万円。留学エージェントを使うと費用が高くつくので、自分一人で1カ月で旅の準備をして、ケアンズに旅立ちました。

今思えば本当にアホだったのですが、現地の空港に着いてから「あかん、私やってもうた」と思うくらい言語の壁を痛感しましたね。

オーストラリアのエアーズロックにて

大卒条件の求人に高卒で応募。大手英会話スクール→140万円で英語教室開業へ

── 当時はスマホもなく、音声機能なしの電子辞書しかお持ちではなかったそうですね。1年間どのように生活していたのでしょうか。

大陸1周を目標に、町から町へと移動してオーストラリアをぐるっと回ったんです。

旅が目的だったので仕事は基本しませんでしたが、唯一、メルボルンから200kmほど離れた田舎の農場で約1カ月間、フルーツ収穫の仕事をしました。

日の出から日の入りまで洋ナシの木に登って、掘っ立て小屋のようなプレハブで寝泊まり。ニュージーランドと韓国、カナダから来た3人との共同生活で、言葉はほぼ通じませんでしたが、身振り手振りで必死に会話に加わりました。

私はドラクエが好きなのですが、英語が1つ伝わるたびに、自分のレベルが1つ上がった感覚でしたね。苦労しましたが、そうやって心に余裕が生まれていったんです。

── 「英語教室を立ち上げよう」と思われたのは、いつ、どのようなきっかけだったのでしょうか?

旅の途中から、すでに思いは固まっていました。

「英語って、世界って面白い!」と知ったときに、帰国後は英語を活かせる仕事がしたいと思ったんです。でも、高卒で英語業界への就職は難しいだろうなと。

それなら自分で事業をやってみよう、と思いました。不安や迷いはなく、「自分で選んだ道を進みたい」、そんな気持ちでしたね。やったことがないからこそ、やってみたかったんです。

── それでも帰国後、大手英会話スクールに就職し、約1年間勤務されたそうですね。

帰国後は無一文だったので、「とにかくお金を稼がな」と思い就職活動をしたんです。一度、英語業界で経験を積みたいとも思いました。

10〜20社ほど応募しましたが全滅し、「英語の仕事はやっぱり無理かな」と事務職や工場の仕事にも応募し始めていたとき、ダメ元で大手英会話スクールを受けてみました。

ネットで応募するとき、学歴の選択欄にあったのは「大卒」と「大学院卒」のみ。でも選択しないと次のページに進めないので、仕方なく「大卒」にチェックを入れて、備考欄に「大学受験はしておらず高卒で就職しましたが、のちにオーストラリアを旅し、英語力と生きていく力を身に付けました」と書いて送信したんです。

それがなんと、採用されて。

ただ入社後は大変でしたね。海外を1年間旅したところで所詮、英語がペラペラになるわけではなく、帰国後に腕試しのつもりでTOEICを受けたところ440点だったんです。

でも周りは大卒や大学院卒、海外大卒の方ばかりで、TOEICも900点台が普通。私一人、すごく疎外感を感じました。

それでもどうしても英語教室を立ち上げたかったので、約1年間はたらいてお金を貯め、起業したんです。

“最悪の結末”と“最高の結末”を考えると怖くなくなる

── 普通なら諦めてしまいそうな状況ですが、なぜ前に進み続けられたのですか?

コネもない、お金もない、学歴もない。私自身も成功する確信はゼロでした。それでも起業資金として銀行から140万円を借りることができ、それで英語教室の立ち上げ準備に入ったんです。

私の英語力はどう頑張ってもネイティブには及ばないので、私自身はマネジメントに専念し、ネイティブの先生を1名雇いました。

教室はテーブルとホワイトボードのみのシンプルな仕様にして、借りた資金で先生へのお給料を支払っていました。

開業前の数日で約2,000枚のチラシを近所にポスティングしましたが、開業初日、生徒さんはゼロ。もちろん大赤字です。

── 想像しただけで震えてしまいそうです……!

でもこういう考え方をしていたんです。「もしこの挑戦がダメだったとして、“最悪の結末”はなんやろ?」と。

当時の私は30歳。もしお腹が空いてたまらなくなったら、コンビニで「賞味期限切れのお弁当をください」と言えばもらえるチャンスはあるんじゃないか。借金を抱えたとしても、実家に帰れば寝床はある。

こんな風に考えておくと、「ああ、意外とそんなもんなんや」って怖さが消えるんです。

それに加えて、“最高の結末”を考えるとモチベーションが上がりました。

私の場合は、仮に結婚して子どもを授かったとき、育児をしながらもキャリアを諦めずに済む教室をつくることでした。出産や育児でキャリアが途切れるのではなく、両立できるはたらき方を普通にしたい。私自身がまず、それを実現したかったんです。

そしてその結末は今、叶っています。

自社で開発した教材を、展示会に出展した際の写真

── 大赤字の状態から、どのようにして“最高の結末”を叶えたのでしょうか?

当時は貧乏性かつ本当にお金がなかったので、営業後に数カ月かけて、一人で4万枚以上チラシを配りました。「やっぱり向いてへんのちゃうか」と落ち込んだ日もあります。

でも、保護者の方に安心してもらえるよう「レッスン1時間前までキャンセルOK」などのシステムをつくったところ、生徒さんが入会してくださって。

オーストラリアでの経験から英語は「使ってなんぼ」「話せるようにならないと意味がない」と実感していたので、オールイングリッシュで丁寧に指導しました。

受験重視の社会に流されない、本物の英語教育がしたい。その思いに共感してくださった保護者の方から口コミが広まり、生徒数が増えていったんです。

── 現在、常時約150名の生徒さんを抱え、平均継続年数6年以上だそうですね。

教室が成長していくなかで、1日の平均勤務時間を6時間、年間休日145日にして、スタッフがプライベートと仕事を両立できる環境にしました。

海外で「入社1カ月後に3週間休暇を取った」という話を聞いたりして、日本の常識は当たり前ではないんだと気付いたんです。1日8時間勤務というのは、実は法律で決まっているわけじゃないんですよね。

その結果、スタッフの定着率が高い教室になった。同じスタッフがずっといる安心感も、保護者や生徒さんにとっては大きいのだと思います。

ブレずに地道に続けてきたことが、今につながっていると思います。

── 最後に、スタジオパーソルの読者である“はたらく若者”へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするためのアドバイスをお願いします。

自分らしさって、探しに行くものではないと私は思うんです。「自分らしい」という言葉は、人と自分を比べるから存在するわけで、私は誰とも比べていないので使ったことがないんですよね。

情報があふれているから、理想を求めすぎて、思い通りにならないとがっかりしてしまうんだと思うんです。だから意外と、今の自分のままでいいんじゃないかな。日常の中で「ああ、これいいかも」と思うものを大切にすればいい。

でも、もしやってみたいことがあるのなら、「何躊躇してんの?時間もったいないやん、とにかくやってみたらええやん!」と伝えたいですね。実際に動いて、体験して、人と会って。答えはネットの世界じゃなく、外にあります。他人は思っているほど自分のことを見ていないから、もっと気楽に、やりたいことをやっていいんです。

私の座右の銘に、「武器は拾いながら歩く」というものがあります。ドラクエに例えると、レベルを上げてから旅に出るのではなく、とっとと旅に出てしまうんですね。そうやって行動を起こすと、実力が上がるのも早いんです。

若いからこそ、なんでもできるはずです。

(取材・文:原由希奈 写真提供:久山絵里さん)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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