慶應大学を中退後、キングオブコント優勝した「空気階段・水川かたまり」の芸人人生

2025年2月25日

2021年、コント日本一を決める賞レース『キングオブコント』で優勝をはたし、今やテレビのバラエティ番組からラジオまで、さまざまなメディアで活躍するお笑いコンビ・空気階段。主にツッコミを担当する水川かたまりさんは、2025年2月公開映画『死に損なった男』の主演を務めるなど、お笑いの域を超えたフィールドでも活動しています。

元々サッカー少年だった水川さん。小中高と順風満帆な学生生活から一転し、大学は入学して数カ月も経たないうちに休学し、引きこもりを経験します。しかし休学期間中の経験が、水川さんを「お笑いの道」へと導きました。今回はその半生について、水川さんに話を伺いました。

授業参観で机に立ち、親に無視されてから優等生へ

──水川さんは幼少期、どんなお子さんでしたか?

我ながら、暴れん坊だったと思います。授業中に歩き回ったり、カーテンを引っ張って遊んだり。座席も先生が見張れるよう、ずっと最前列でしたから(笑)。ただ、そうやって猿みたいに暴れていたのも入学してから1年くらいです。

──何かおとなしくなるきっかけがあったんですか?

小学校2年の時、授業参観があったんですよ。いつものクラスの空気とあまりに違うものだから、気持ちが昂りすぎて机の上に立って騒いだりしていました。あまりの酷さに、授業参観の途中で親も怒って帰ってしまって(笑)。そこから丸一日は母親に無視されましたね。それ以降は親に嫌われたくない一心で、真面目に勉強をするようになりました。

あとは親に言われるがまま地元のスポーツ少年団に入ったことも、性格が変わる一端を担っていると思います。集団行動を通じて、徐々に協調性も養われました。小学校高学年のころには学級委員を務めるような、模範的な生徒へと成長しました。

──当時、将来の夢はなんでしたか?

小学校まではサッカー選手でした。でも中学のサッカー部が強くて、自分より上手な選手がたくさんいたんですよね。レギュラーメンバーとして選ばれてはいたものの、プロ選手への道は早々に諦めました。

その代わり、戦術を考えたりすることは好きでした。中学のサッカー部でも「勉強ができるキャラ」が確立されていたので、“作戦を考える”ことを自分のアイデンティティとして捉えていたのかもしれません。コーチやサッカーメディアの編集者など、漠然とサッカーに関係する仕事ができたらな、と思っていました。

──では、お笑いに興味を持ったのはいつからですか?

原体験は、幼少期に子ども番組『ポンキッキーズ』で観た「爆笑問題」。ただ、親にバラエティ番組を観るのを制限されていたので、自発的にお笑いに触れるようになったのは高校からでした。

好きな芸人について聞かれた時、あまり詳しくないので「爆笑問題」と答えるようにしていたら、お笑い好きの友達に深夜のラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』をすすめられたんです。

最初にラジオを聴いた時、子ども番組に「爆チュー問題」として登場していたころとは違う、素のお二人のトークがめちゃくちゃ面白かったんです。有名人であるはずの2人が中学生みたいな言い合いを延々としている。親近感とともにかっこよさを感じた記憶があります。

同級生の「ジャガイモ星人」発言で大学休学

──休学してしまったという大学ですが、どんなキャンパスライフでしたか?

あまり明るい大学生活ではありませんでした。

そもそも大学進学を選んだのも、明確な目的があったわけではないんです。当初は国公立の方が学費は安いので、京都大学を目指そうかとも思っていました。でも勉強を全然していなくて、テストの成績はいつも下の方。高校3年の進路指導でも「絶対に無理」と言われていました(笑)。

ただ「絶対に無理」と言われたのが効いたんでしょうね。「ちょっと先生をギャフンと言わせたろうか」と1年間受験勉強を頑張ったんです。東京の大学をいくつか受験し、現役で慶應義塾大学に合格しました。

──なぜ地元を離れ、東京の大学を選んだんですか?

テレビドラマの影響もあって、東京でのキャンパスライフに憧れはありました。

ただフットサルサークルの新入生歓迎会に参加したところ、まあ馴染めなくて。「女子が決めたら3点!」みたいな緩いルールでボールを追いかけているんですよ。かといって真面目に活動しているサークルは女っ気がなくて惹かれなかった。欲を出さずにそういうところへ入れば良かったんでしょうね(笑)。結局サークルはどこにも入りませんでした。

──では、大学では主に授業のクラスメイトと仲良くしていたんですか?

そういうわけでもありませんでした。東京出身の家柄が良さそうな同級生ばかりで、ぼくも構えちゃっていたんですよね。なかなか友達もできませんでした。

完全に心が折れたのは、入学して数カ月経ったころ。語学の必修クラスのコンパがあったとき、岡山の「〜じゃが」という方言を、同級生に「お前、じゃがいも星人かよ!」っていじられたんです。それでへこたれるのもどうかと思いますが(笑)、次の日から学校へ行かなくなりました。

──語学の授業に顔を出さなくなるだけではなく?

すべての授業をサボり始めました。「じゃがいも星人」の一件に限らず、サークルに入れなかったことや、授業に興味を持てなかったことなど、いろんな積み重ねが一気に爆発したんだと思います。

同じ学部に進学した高校の同級生伝いに「水川が学校に行ってない」ということは、親の耳にも届いて。「もったいないから退学はするな」と親に言われ、ひとまず休学することにしました。

「芸人になったら売れる」確信はあった

──休学期間中はどんなことをしていましたか?

やりたいこともなく暇だったから、ひたすらラジオを聴いていました。それこそ爆笑問題さんだけじゃなく、ほかの芸人さんのラジオも聴くようになって。深夜にラジオを聴きながら朝までゲームして、寝て起きたら近所の川まで自転車を漕ぎ、武蔵小杉の図書館で本を借り、家でラジオを聴きながらまたゲームして……をひたすらループする日々でした。

そのうち家の近くにあるレンタルビデオショップへ通うようになり、毎日お笑いのDVDを借りては観るようになって。いろんな漫才やコントを観るうちに「自分でもやってみたい」と思い始めました。そして「ジャガイモ星人」事件から1年半ほどの引きこもり期間を経て、2011年4月に吉本興業のお笑い養成所であるNSCへ入学しました。

──芸人の道へ進むことに不安はありませんでしたか?

なんとなく「自分が芸人になったら売れるだろう」という確信だけはありました。

引きこもり期間中にいろんなお笑いに触れていて、自分のお笑いの価値観やセンスがある程度固まっていたこともあると思います。でもそれ以上に自分の「作戦を考える」クセが、自信につながっていたのかもしれません。どれだけずさんで根拠に欠けていても、道筋を自分で描ける限りは大丈夫だと思っていました。

──NSC在学中は、芸人として成功するためにどんな道筋を考えていましたか?

「面白い相方を見つけ、結成3年後に賞レースの『キングオブコント』で優勝!」みたいな道筋です。コントに絞ったのは、漫才かコントのどちらかに特化した方がかっこいいから。あと自分は漫才よりもコントを披露したほうが、NSCの先生に怒られなかったからです。

……今考えると、現実味のない計画だと分かります(笑)。NSCにいる間も「話す声が大きい」人ほど有利だから、順風満帆とはいかなくて。「あいつは声がでかいだけで評価されやがって」と悔しく感じることはありました。

ただ、「ゴールにたどり着くまでに何をやれば良いか」は考えられていた。おかげで心が折れることもなかったんじゃないかな、とは思います。現在に至るまで「お笑いで食べていけないかも」と不安を感じたことはありませんでした。

たとえ根拠のない自信だったとしても

──そういえば、休学中だった大学は結局どうされたんですか?

NSCを卒業した2012年に、ケリをつけるつもりで復学したんです。でも授業の初日に大学の敷地へ入った途端「あと3年も通うのは嫌だな」と感じたんです。当時はすでに芸人になる意思も固まっていたので、すぐさま退学手続きを踏みました。そして同年に鈴木もぐらと結成した空気階段で、渋谷のよしもとホールに立つようになります。

──デビュー直後の活動はいかがでしたか?

劇場は実力主義で、最初は月に1回、持ち時間1〜2分のチャンスが与えられるだけなんです。当初は芸人になれたうれしさもあって、辛さを感じることはありませんでした。

でも、徐々に焦ってきます。同期のお笑いコンビであるコットンなどは、早い段階からお笑い1本で食べていましたから。空気階段はネタを披露してもほぼウケることがなく、「汚ねえ奴らが何かやってんな」みたいな雰囲気が客席から漂っていました。

──軌道に乗るようになったきっかけは何でしたか?

結成6年目くらいですね。相方に彼女ができたんです。

舞台で鈴木が「彼女ができた」とポロッと口にしたら、なぜか急に「何?この汚い奴でも人に愛されたりするの?」と思ったのか、客席からの視線が変わって(笑)。その日を境に、同じネタをやっても明らかにウケ方が変わりました。

2016年には『マイナビ Laughter Night』というラジオの大会でも優勝し、活動が軌道に乗り始めて。結成から8年目である2019年には、やっと『キングオブコント』の決勝に辿り着けました。その頃にはバイトをする必要もなくなり、お笑いだけで生計を立てられるようになりましたね。そして2021年には『キングオブコント』で優勝を果たしました。

──2025年2月公開の『死に損なった男』でも映画初主演を務めるなど、現在は芸人以外の領域でも活躍していますよね。活動が広がることについてどう捉えていますか?

コントで求められるのが「お客さんを笑わせる」ための演技力だとすれば、映画で求められるのは「お客さんの感情を引き出す」ための演技力。自分なりに「こういう感情を抱いてほしいんだ」と考えながら、演技の手法を変えて撮影に挑みました。

こうやって新しい経験をすると、つい「コントにも還元できそう」と思ってしまうんです。映画はもちろん、これからも新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。

──振り返ると「ジャガイモ星人」と言われてから、水川さんの人生は大きく変わりましたね。

そうですね。今は「ジャガイモ星人」と言った同級生に恨みはありません。最近、再会も果たしたんですよ。彼は今、テレビ局のバラエティ制作に携わっているんです。偶然ですよね。

ぼくは作戦を練ることが好きなぶん、それだけ「あまりにも想定外のことが起きた時」に弱くなる、という自覚はあります。だから「ジャガイモ星人」の一言で、学校に行かなくなりました。

でも学校に行けなくなったおかげで「芸人を目指す」という、普通の人があまり取らない選択をできた。「根拠のない自信があった」とは言いましたが、同時に当時はそれだけ芸人になりたかったんだろうなと、今になって思います。

どうしてもやりたいことがあるなら、ルートから外れて突き進んで良いのかもしれません。その自信に根拠がなかったとしても、です。

(文:高木望 写真:小池大介)

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ライター高木 望
1992年、群馬県出身。広告代理店勤務を経て、2018年よりフリーライターとしての活動を開始。音楽や映画、経済、科学など幅広いテーマにおけるインタビュー企画に携わる。主な執筆媒体は雑誌『BRUTUS』『ケトル』、Webメディア『タイムアウト東京』『Qetic』『DIGLE』など。岩壁音楽祭主催メンバー。
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