歯科技工士の仕事を変える。「取り残された業界に希望を」在宅ワークキットは、こうして生まれた
あなたは、歯科技工士という仕事をご存じでしょうか?
歯医者が治療で使用する歯のかぶせ物や入れ歯などは、実は歯医者ではなく、歯科技工士が作製していることがほとんど。治療行為は行わず、かぶせ物や入れ歯などをつくることに特化する”歯をつくるプロ”として、日本では約3万5千人が活躍しています。
そんな歯科技工士たちは、法律上の理由で、コンピューターのみを使うフェーズの仕事であっても歯科技工所の中で勤務するのが通例でした。
コロナ禍でも、在宅ワークを実施している歯科技工士はごく一部と言われています。
そんな中、川崎市の歯科技工所 QLデンタルメーカー株式会社は、コロナ禍以前から歯科技工士が在宅ワークを行うための検討を行い、昨年「在宅ワークキット」を考案、ホームページで公開しました。
それまで歯科技工所を開設するには最低100万円以上かかると言われていましたが、このキットでは7万5千円ほどで必要な設備を紹介しており、業界内で「画期的」と話題になっています。
このキットを考案した背景について、同社取締役の川村 孝士さんに話を聞きました。
昭和30年の法律で規定された就業環境
“取り残された業界”に希望をつくりたい
――歯科技工士って、どんなお仕事をされているのですか?
歯科医から依頼をうけて、歯のかぶせ物、詰め物、入れ歯など、歯医者が使う人工物を作製します。日本では、このような物は歯医者と歯科技工士しか作れません。
現在の歯科技工はデジタル化が進み、セラミックス技工物の場合、3D-CADを用いた歯のデザイン・設計がなされています。この段階までは、コンピューター一台で歯の設計ができます。
――今回「在宅ワークキット」を開発したきっかけは。
2016年の、ある女性社員の退社が契機になりました。
彼女は、以前朝礼で「知人の技工士が激務で亡くなり、技工業界に愛想を尽かして縁を切ろうと思ったけれど、どうしても技工が好きでこの会社を見つけました。」と想いを語っていたほど、熱心にはたらいていました。
しかし、子育てをなどの家庭の事情で出社を続けるのが難しくなり、どうしても辞めざるを得なくなった。
そこで私は、彼女がもし在宅ワークができたら、まだはたらけていたのでは?と思ったのです。
――コンピューターだけを使う業務だけでも、在宅ワークはできないのでしょうか?
歯科技工師がはたらく場所は、「歯科技工士法」という法律で規定されています。この法律では、歯科技工所の設備基準を定め、給排水設備や換気扇などの設置を義務付けています。
この法律が施行されたのは、昭和30年。
ゆえに、デジタル化が進んだ現状とは乖離した部分が残っています。そのため、歯科技工所として認められるためには、どんな作業をするうえでも、その法律で規定される設備がすべて整っている必要があります。たとえ、コンピューター一つしか使わない作業だとしても、です。
そして、歯科技工所の要件を満たす設備を整えるためには、通常、100万円以上の金額が必要になります。
――昭和30年の法律……!
はい。ある意味、時代から取り残された業界といえると思います。
何とか希望をつくりたいと思い、在宅ワークの実現に向けていろいろと調べ始めました。
業界の常識を打破する
――どんなことから始めたのでしょう?
神奈川県に、無料で弁護士と相談できる仕組みがあったので、そもそも本当に在宅ワークをしてはいけないのかなど、いろいろと相談をしました。
でも、結果は”グレー”。法解釈では前に進められないということで、どうしようかと……。
――どうしたのですか?
法律で制定されている設備が高価であることが課題なので、それらの設備を、何かで代替できないかと考えました。代替できるなら、自宅にその代替設備を設置すれば仕事ができるのではないかと思いまして。
そこで、以前知り合いの歯科技工士さんから「削り屑などを集める集塵(しゅうじん)機を、掃除機のようなもので代替している」という話を聞いたのを思い出しました。
歯科技工士用の集塵機は、通常十数万円はします。Amazonで近い機能のものがないかを検索すると、あったんですね。それは、ネイリスト用のネイルダストでした。
法律で集塵機の吸い込みの力がどれくらい必要とは規定されていないので、実務上代わりになりそうかを技工士に確認しながら、集塵機だけではなくほかの設備も代替できるものがないかを探していきました。
――全部ご自身で調べられたのですか?
はい、ネットでスペックを調べ、購入して試しました。
ただし機材を購入して勝手にはじめるわけにもいかないので、川崎市産業振興財団さんにこのキットを使って在宅ワークができないかを相談したところ、川崎市で募集している「働き方改革推進事業」に応募してみてはとの提案をもらいました。
市内の企業の働き方改革の取り組みを支援してくださるもので、経済労働局の方が採用してくださったんですね。実際の在宅設備やスペースなどを保健所の方にもチェックいただき、ようやく実現できることになりました。
歯科技工の未来を、はたらき方から支えたい
――このキットは、ホームページ上で無料公開されています。会社の収益にはならないと思うのですが、なぜそこまで苦労して、推進されたのでしょうか。
私は現職の創業メンバーなのですが、もともと、歯科技工士が長くはたらける場所をつくりたいという想いでこの会社を立ち上げました。
ちなみに、私自身は歯科技工士ではありません。新卒ではメーカーに入社して8年ほど勤めましたが、そのあとはイーコマースや美容業界、通信業界などを数年ごとに転々としていました。
この業界に入ったのは、今から10年弱前のことになります。管理職を任せられる人を求めていた前職の歯科技工所に入社したのですが、就業環境にはいろいろと課題のある業界だと感じまして……。
――たとえば?
ビジネスモデルの問題もあって労働過多になりやすい状態で、実際に辞めていく人も多かったんです。
そうならないように仕事を仕組化し、売上を上げている会社もあるのですが、その場合は得てして完全分業制で運営されているケースが多いように感じています。
歯科技工の仕事が分業制になると、歯をつくりたいのに「磨くだけ」「削るだけ」といった作業をひたすら行うことになります。それでは、結局やりがいの実感もスキルの向上も見込めず、結果として給料も上がりません。
歯科技工士として長く勤め、スキルアップをして、モノづくりの喜びも実感できて、というのを両立というのは難しいんですけど、うちはやろうということで、起業した経緯があります。
――歯科技工士は、全体としては減っているのでしょうか?
歯科技工士の人数自体はそこまで大幅には減っていないのですが、実際には存続の危機にあります。
というのも、歯科技工士の平均年齢は、いま50歳台にさしかかろうとしています。歯科技工士学校の卒業生は20年前の3分の1以下。ベテランが引退したとき、担い手は激減するのではと思います。
――若い人にも、歯科技工士という仕事を目指してほしいと。
在宅ワークが出来るようになれば、「こういうはたらき方もできる仕事なんだ」というふうに、はたらき方の選択肢を増やすことができるのではと思っています。
ーーこれまでの常識にとらわれずにプロジェクトを進められた要因は何だと思いますか?
私がこの業界出身ではなかったので、その分常識に染まっていなかったということかな、と。
今回の取り組み以外にも、スマホアプリを活用した業務効率化や、若手育成の技術教育を行い、注目いただいたこともあります。IT業界にいた私からすると特別なことをやったつもりはないのですが、それがこの業界では価値があると評価されたのです。
キャリアも、それと似ているなと感じます。缶ジュースが、山頂では街中の倍の値段が付いたりするじゃないですか。自分の経験が評価される場所は、必ずしも同じ業種や地域、企業規模ではない所にあるのかもしれませんね。
――在宅ワークキットを公開した反響は。
地元や業界の新聞などで、大きく取り扱っていただきました。それを見て問い合わせもありましたし、特に同じような課題意識のある歯科技工士さんからは共感のお声もいただいています。あとは、歯科技工士を養成する学校さんからも、好意的なお言葉をかけていただきました。
――多くの歯科技工士に、実際に使っていただきたいですね。
そうですね。日本の歯科技工士って海外からもすごく評価されているのですが、はたらき方という面ではまだまだです。たとえばアメリカなどでは、積極的に在宅ワークが行われていると聞きます。
今回の在宅ワークキットが何かを変えるきっかけになればうれしいですし、実際に多くの方が在宅ワークを実践することで、業界内の風潮も変わっていくと信じています。制度や法律が後からついてくるケースもあると思うので、もっと広まっていってほしいですね。
(文・インタビュー:石山 貴一 写真提供:QLデンタルメーカー株式会社)
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