フランスから来日、0から刃物鍛冶修行……。「日本人に伝えたい」元鋏鍛冶職人の願い

2023年8月4日

「いずれ日本国籍をとろうと思ってます。今住んでいる場所をずっと大切にしていきたいんです」

流暢な日本語でそう語るのは、フランス人のエリック・シュヴァリエさん。

2012年2月に日本にやってきたエリックさんは、鋏(はさみ)鍛冶屋で修行を始めます。2015年、日本の刃物鍛冶をフランスに伝える架け橋となったことが評価され、フランス政府から「希望の星」賞を受賞。約5年の修行を経て、大阪府堺市にある堺市産業振興センターの「海外販路開拓コーディネーター」に就任しました。現在は国内外の観光客に包丁選びのアドバイスをしたり、刃物の歴史について講演会で登壇したりなど、忙しい日々を過ごします。

エリックさんが週6回勤務する産業博物館「堺伝匠館」では、「彼に包丁のことを相談したい」と、海外のトップシェフや観光客が訪れます。今や館内で販売する刃物の売り上げの7割が、外国人客なのだそう。堺市の元市長・竹山修身さんから「エリックさんは手放してはならない存在」と言わしめるほど、町の観光に大きな影響を与えています。

産業博物館「堺伝匠館」

ですが、来日当時のエリックさんは、鍛冶の知識はなく、日本語もうまく話せませんでした。「最初のうちは毎日緊張だった」と振り返ります。

「ホンマにビビりだった。電車に乗っても漢字ばっかりだから怖かった。電車を使えばすぐの繁華街に40分歩いて通ったり……。お昼によく行ったお店では、唯一漢字がわかった『カツ丼』ばかり頼んでました(笑)。 毎日気を張っていましたね」

右も左もわからない中で、自分の居場所を見つけたエリックさん。いったいなぜ生まれ育ったフランスを離れ、日本ではたらくことを選んだのでしょうか。エリックさんの歩んだ道のりを聞きました。

エリック・シュヴァリエさん

森が遊び場だった少年時代

1989年、エリックさんはフランス・パリ郊外にあるショモンテル村で生まれました。幼少期は父親とともに家の近くの森でキノコ狩りをするなど、自然の中で育ったといいます。

「フランスは小さい国ですから、パリからちょっと離れればすぐ田舎です。人口2,500人くらいの小さな村だから、毎日森か畑で遊んでいた。お父さんは鉄道会社ではたらいていて、おじいちゃんは鉄道を作る鍛冶屋さんでした。今振り返ると、私のルーツって“鋼”だったんだなって思います」

エリックさんが子どものころ(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

小・中・高を地元で過ごしたエリックさん。19歳になると、現実的な将来設計を描くように。「商品やサービスが売れる仕組みを使って仕事をしよう」と思ったことから、パリにあるマーケティングの専門学校に入学します。

その学校では、授業のない時間に提携しているいくつかの会社で実践を積むことができました。エリックさんは月の半分をパソコンやソフトウェアを販売する店ではたらきます。将来を見据えて選んだ道ではあったものの、どこか「むなしかった」と言います。

「パソコンは毎年新しいものが発売されて、高価なものでも2、3年でダメになってしまいます。だから新しいものを買わないといけないし、マーケティングとしてそれは普通のこと。でもだんだん、そういうサイクルの早いものを売る世界が嫌になってしまったんです」

学ぶ意欲を失い、「これからどうしよう……」と考えた時、ふと、趣味で練習していた日本語を本格的に覚えてみるのはどうかと思いつきます。

エリックさんが日本語を知ったのは高校1年生の時。アニメ好きの友人の影響で、J-POPを知りました。日本人歌手のYUIさんの曲を聴き、「やさしい声できれいな言葉だなぁ」と感じたそう。

「興味が湧いて、最初は『こんにちはー、ワタシはエリックです』みたいな自己紹介から覚えました。外国語が好きだったからいろいろ勉強してたけれど、日本語は中国語や韓国語よりも発音しやすいし、言うだけでなんだか心地良かったんです」

「もっと覚えたい」という気持ちが膨らみ、学校から帰ってすぐに日本語を練習するようになっていました。

初めての飛行機

「もっと日本語を極めよう!」と思ったエリックさんはマーケティングの学校を辞め、日本語を学ぶ専門学校に通います。8カ月後、パリにあるイナルコ大学日本学部へ進学。けれど、自分が想像していたより大学の授業が簡単すぎたため、だんだんサボりがちに……。2年生になると難しい文法や漢字が増え、今度は授業についていけなくなってしまいます。

「日本人と話す機会をもっと増やさないと、レベルアップできないかも……」

そう思ったエリックさんは、3年生に上がる前の春休みに同級生と日本に行くことに――。

旅のスケジュールをつくり、いざ出発する日が近づいた2011年3月11日、日本で東日本大震災が起こりました。その情報がフランスにも届き、家族や友人らに「今行くのは危ない」と止められ、旅を断念。

それでも、「どうしても行きたい」と思いが冷めやらず、翌年に1人で日本に行くことに。驚いたことに、エリックさんはそのまま大学を辞め、1年間の就労ビザを取得します。

「あまりにも日本に行きた過ぎて、フランスに戻ってまた大学に通うのはバカみたいだなって思っちゃった。一人で日本語を勉強して、お金を貯めました」

大学1年生のころ(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

2012年1月、いざ日本へ。それは、エリックさんにとって大きな挑戦でした。初めての国外。しかも、約1万キロ離れた遠い国へ――。空港に向かうのさえ緊張したそう。日本の航空会社の機内では英語と日本のみで、まだまだ言語に自信がなかったエリックさんは、「トイレに行くタイミングも分からなくて、12時間我慢しました」と照れ笑いを浮かべます。

『行っていいのかな。どうする?』って思いながら、誰にも聞けなかったんです。羽田空港に着いたらダッシュでお手洗いに行きました。でも、『どこのボタンを押せばいいかわからないし、押せば水が出ててくる!』って。ウォシュレットを知らなかった(笑)。もう、ロボットトイレ?と思った。これ、1番最初のショックですね」

落ち着いて空港内を見渡すと、キレイなお手洗いやロビー。フランスとの差を感じてカルチャーショックを受けます。一息ついて空港を出ると、エリックさんは不思議な感覚に包まれました。

「なんか落ち着く……。いい感じだな」

日本のライフスタイルに慣れるために民宿でボランティア

来日してすぐ、エリックさんは東京に住んでいるある日本人女性を頼ります。その方こそ、のちに妻となる麻利子さんでした。エリックさんが大学生時代の時、10歳年上の麻利子さんが和裁士の仕事でフランスを訪れており、縁あって友達同士に。「日本に来た時はぜひ頼ってね」と言われており、その言葉に甘えることにしました。

彼女のアパートに3週間ほど居候させてもらったエリックさん。出張で家を空けることが多い麻利子さんの代わりに家事を行い、日中は町を探検しました。2月からは「WWOOF(ウーフ)」で見つけた民宿ではたらくことになっていました。

「WWOOF(ウーフ)」とは、世界規模でボランティアと農家がつながるシステムのこと。そこではたらく代わりに、食事と宿泊場所を用意してもらえます。エリックさんは「日本の自然豊かな場所で過ごしてみたい」と考え、愛知県田原市にある民宿にアポイントを取り、半年ほど生活することにしたのです。

電車と夜行バスを乗り継いで到着したその場所は、山の麓にぽつんとある古い旅館でした。大荷物を抱えながら中に入ると、80歳くらいのおばあさんが受付にいて、エリックさんを見てぽかんとしていました。

「外国のお客さんと思われたのか、忘れられてたのかわからないけど、うまく伝わってなくて焦りました。しばらくして、英語を話せるお店の人が戻って来てホッとした。皆さんやさしくて、すぐに(その場に)馴染みました。毎日ハイキング客や伊勢神宮に行く観光客が来てて、私はお皿洗いや銭湯の掃除を手伝いました。寝泊まりするところは近くのプレハブ小屋で、窓を開けたら木や竹がびっしり。お猿さんもたまに出てきた。台風の時はすごく揺れて怖かったけど(笑)。温泉に入ったり、森の中で景色を眺めたり、毎日楽しかったですよ」

鍛冶の現場にときめく

民宿での暮らしが板についた5月、連絡を取り合っていた麻利子さんからある依頼を受けます。

「知り合いの鍛冶職人さんが仕事でフランスに行くんだけど、手続きに必要な書類の翻訳を頼める人を探しているみたい。エリックさん、やってみない?」

その職人というのは、大阪府堺市の鋏鍛冶「佐助」の5代目親方・平川康弘さんです。のちに、自分の師匠になるのですが、そんなことは夢にも思わず、「鍛冶って何?」と思いつつも引き受けることに。平川さんとはメールでやり取りをし、「助かったよ!」と喜んでもらえました。

堺市の鍛冶屋の包丁

翌月、旅館は数日ほど休みをもらい、フランスから遊びにやって来た友人とともに、東京と大阪を観光することになりました。ふと、平川さんが「大阪に来たら、一緒に飲みましょう」と誘ってくれたことを思い出し、会いに行くことに。

鋏鍛冶屋の「佐助」に足を運んだエリックさんは、「江戸時代にタイムスリップしたみたい!」と驚きます。実際は大正時の建物でしたが、そこは趣のある日本の家屋でした。作業場からは鋏を作るための火箸や窯が並び、「トンテンカンッ」と小気味よく響く金づちの音が聞こえます。

平川さんの歓迎を受け、囲炉裏のある畳部屋で食事会が始まりました。エリックさんはまだ日本語がうまく話せなかったものの、平川さんのフレンドリーな人柄もあってすぐに意気投合。そこで、このような提案を受けます。

「もしよかったら、ビザが切れるまで手伝いに来たらどう?」

それを聞いたエリックさんは「行きます!」と即答。「日本の伝統を学ぶ経験は、きっとフランスに帰ってからも役に立つはず」と思ったことが大きな理由でした。少し期間が残っていた民宿を離れ、ビザが切れるまでの半年間を「佐助」で過ごすことに。鍛冶屋のアシスタントが使っている堺市の集合住宅に移り住みます。

「文化活動ビザ」を取得して、本格的に鋏鍛冶の修業

日本の三大刃物産地と名高い堺市の刃物は、強度が高いことが特長です。現在、堺市には17つの鍛冶屋があり、それぞれの技を守り続けています。

鋏を専門とした「佐助」の平川さんは、大正時代から続く鍛冶屋の名匠。そこではたらくことになったエリックさんは、職人の技を間近で見ながらワクワクする日々を過ごします。

鋏鍛冶に取り組むエリックさん(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

エリックさんの仕事は、毎朝7時に作業所に入り、神棚の水替えや炉に入れる炭の準備など、雑用を任されました。そのほかにも、英語やフランス語のホームページもつくり、自分ができることに率先して取り組みます。夕方5時以降になると、平川さんからハンマーの使い方や鋼の削り方を教えてもらいました。炉の温度を整え、鉄を叩く。「商品にはなりませんが自分で鋏や包丁を作りました」とエリックさん。ものづくりの楽しさを味わいます。

2012年秋、平川さんから「本格的にやってみないか?」と誘いを受け、エリックさんは正式に弟子入り。日本の滞在を長くするために「文化活動ビザ」を取得することに。文化活動ビザとは、日本文化や伝統技能を外国人が学ぶための在留資格のことです。

エリックさんは一時帰国し、大使館でビザを取得。翌年2月、日本に戻ります。「佐助」に出勤すると、以前のような雰囲気とは一転、厳しい修業生活が待っていました。

「(手伝っていた)半年前の方が職人らしかったくらい。2年間くらい鍛冶の作業をさせてもらえなかったんです。朝の掃除や炭切りなどずっと雑用ばっかりでしたね」

今でこそ、平川さんはエリックさんのことを「包丁なら自身の銘を付けられるほどの腕前」と評しますが、当時は「弟子となったからには」と厳しく接していたようです。エリックさんは「日本の職人の世界は“見て覚える”が普通なんだ」と気が付き、師匠の一挙一動を見て、作業場に誰もいなくなったあと、刃物作りに向き合いました。

鋏鍛冶の修業時代(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

極貧の修業時代

職人時代のエリックさんは、常にお金に悩まされたと言います。修行の身のため給料は月1万5,000円。家賃や光熱費は賄ってもらっていたものの、フランスで貯めたお金がどんどん目減りしていきました。

「このままじゃ無理かも……」

そう思ったのには、修業時代に付き合うようになった麻利子さんの存在がありました。

「普通に考えたら、お金のない人を選んで、東京からわざわざ引っ越してくれるはずがないって思いました。未来のことを考えると、職人さんの道だけではきっと難しい。それで鍛冶屋が休みの日に、外国人観光客向けのガイドを始めたり、刃物を海外に販売する知り合いのウェブショップを手伝ったりしてました」

その後、大阪に会いにやって来た麻利子さんに、エリックさんはこう伝えたと言います。

「今は何もないけど、いつか必ずビッグになるから!」

その言葉を受けて、麻利子さんは仕事を辞めて堺に引っ越してくれました。「最初は貧乏な生活だったよ。私のバイト代で8万円ぐらいでしたから!」とエリックさんは笑います。その後、エリックさんは麻利子さんと入籍。数年間は金銭的にも厳しい状況が続きましたが、宣言通り、エリックさんは「ビッグになる」を実現していきます。

家族とともに(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

26歳でフランス政府から賞が送られる

2015年6月、鋏鍛冶職人として修業中のエリックさんに吉報が舞い込みます。仏日の文化的懸け橋になったとして、フランス政府から表彰されたのです。

受賞したのは、海外で活躍する28歳以下のフランス人を対象にした「希望の星」賞。候補者380人の中から選ばれました。

きっかけは「鍛冶の世界をフランスにも伝えたい」と思い、自身で応募したことからでした。

「パリの外務省から航空チケットを手配してもらって表彰式に参加しました。まさかと思ったけど、応募してよかった。フランスでは、海外でがんばる人ってそこまで取り上げられないんです。でも、この賞のおかげでフランスのラジオやテレビに出演させてもらう機会をもらいました」

フランスで堺市のドキュメンタリー番組が制作されるなど、「堺の刃物」が注目されるようになり、エリックさんは「役に立って本当に良かった!」と思ったそう。それと同時に、自分の進むべき道が見えてきました。

「私は職人になりたいんじゃない。たくさんの人に堺の刃物の魅力を伝えたいんだ」

2018年、エリックさんは5年間の職人生活に終止符を打つことを決めます。同年秋、修業時代に親しくなった堺市産業振興センターの元職員からのオファーで、堺市の伝統的な刃物や観光を盛り上げるアドバイザー「海外販路開拓コーディネーター」に抜擢されました。

その後、「職人としての知識を持つエリックさんから包丁を買いたい」と、「堺伝匠館」には外国人観光客が連日訪れるように。講演会のオファーも続々と舞い込み、今年は毎週月曜日(変動あり)に「OMO7大阪 by 星野リゾート」にてイベントに登壇しています。

講演会では刃物の歴史や高度な作り方などを伝える。(提供元:エリック・シュヴァリエさん)

そのほかにも、外国人シェフから「なかなか日本に行けないし、ネットで堺の刃物を買いたい。なんとかならない?」と依頼を受けたことから、包丁ブランド「DE SAKAI(デュ・サカイ)」を立ち上げ、オンラインショップを開設。世界中の一流シェフから注文が舞い込むようになりました。並行してフリーランスでガイドの仕事も続けており、「修業時代に比べると、給料は4倍になりました」とエリックさんは笑顔を向けます。

フランス人だから伝えたいこと

「今、仕事がすごく楽しいよ。トップレベルのシェフから一般の方まで、堺の包丁や鋏を使ってフィードバックをくれるんですけど、『すごく気持ちいい』『長く使える』って言われます。お客さんの満足が私にパワーをくれてます」

朝から晩まで引っ張りだこのエリックさんですが、家族との時間も大切にしています。「仕事の合い間に帰って、3歳の息子と遊びます。はたらく場所が自宅から近いってすごくいいです」とエリックさん。

エリックさんのツアーに参加したフランス人観光客が包丁を買い求めに来店。

また、「職人にも幸せになってもらいたい」と語ります。

「堺市の鍛冶職人さんがフランスでイベントに参加することになって、サポートするためについて行ったことがありました。シャンゼリゼ通りの高級レストランに行くと、『堺の鍛冶職人が来店するなんて!』と一流シェフから手厚いおもてなしを受けました。タクシー運転手は『日本から来たプロフェッショナルのために』と、エッフェル塔や凱旋門をくぐったり……。お金持ちしかできないようなツアーを無料でやってくれました。本当に最高の一日だった!

職人さんは私の横で、『72歳にしてこんな経験初めてです』と泣いていました。普段、堺の町を自転車で通るような、見た目は普通のおじいさん。でも、刃物の良さを知ってる人にとっては神様なんですよ。暗い作業場でコツコツとがんばる職人さんのために、もっとできることがあるって思いました」

最後に、職人時代を日本で過ごしたからこそ、「日本人に伝えたい思いがある」と言います。

「もっと自分のおじいちゃん、おばあちゃんから聞いたことを守って行かなくちゃ。アメリカやヨーロッパが言うことがなんでも正しいとか、新しいものが一番とかじゃなくて、自分の国を守るために、長く続く文化を大事にしていこうよって思います」

生まれ故郷から遠く離れた日本の地で、家族のため、堺の刃物を愛する人のため、そして職人のために、エリックさんはこれからも奮闘を続けます。

(文・写真:池田アユリ 画像提供:エリック・シュヴァリエさん)

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