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「営業にだけは、なりたくなかった」(スイスイさん)
誰しも、“うまくいかなかった”経験があるはず。
そんな日の記憶を辿り、いま思うことを、さまざまな筆者が綴ります。
第10回目は、エッセイストとして活躍する、スイスイさんの寄稿です。
スイスイ
エッセイスト
1985年、名古屋生まれ。新卒で広告会社に入社し、営業職を経験。コピーライター・CMプランナーなどを経て、cakesコンテスト受賞をきっかけにエッセイストデビュー。二児の母。著書に『すべての女子はメンヘラである』(飛鳥新社)がある。
季節も詳しく思い出せない。
そのくらい目まぐるしかった。だけどその日自分が着ていた服の質感だけは巨視的に思い起こせる。やわらかく薄い素材のジャケット(ということは秋なのか?)で、その長袖の端をのばして顔面を何度ぬぐっても涙がとまらず、目の前の資料にもぽつぽつ垂れて最終的には両袖で顔を覆ったまま謝罪していた。
場所は表参道のヘアサロン。
シャンプー台近く、ローテーブル前のソファ。髪を切りにきていたわけではなく、広告ページの担当営業マンとして打ち合わせにきていた。会社ではよく泣くほうだったけど、何度か転職しエッセイストになり35歳になったいま振り返っても、クライアントの前で泣いたのはこのときだけだった気がする。
社会人3年目だった。そのときまで私ははっきりと調子に乗っていた。戦う相手も必死になる方向も間違えて、無駄に苦しかった。そんな日々をスパン!と正してくれた出来事のことを書き残したい。
***
話はさかのぼりまくり4歳からはじまる。
英才教育で鍛えあげられ数学や英語のコンテストでも頭角をあらわし、天才児と持てはやされていた私は、年中から幼稚園に通い始めたそのころすでに自分のことを選ばれた人間だと「わかって」いた。大人が褒めなくても知ってるんで!私は特別なので!ここにいる園児たちとは別次元なので!……という誇りたかき精神は中学でも高校でも大学でも(受験は毎回失敗してたのに!)致命的には全然へし折れず、21歳の就職活動中にもほとんどそのまま健在だった。
21歳の私は自分が数年以内に国民的歌手になると信じており、就職に関しては「クリエイティブ職とかだったらはたらいてもいいかな」くらいに考えていた。(美大出身でもなんでもないのに!)それ以外の仕事なんて量産型人間たちのすることよ!と舐めていたのだ。
それなのに望んだ企業はほぼ書類で落ち、残ったのは営業職のみ。
「さすがに私が営業なんてするわけがない」と憤りながら営業になった。社会人一年目は、電車の乗り換えに失敗しまくり、自転車で立ち漕ぎ営業しながら交通看板に顔面からぶつかり、書類が山になったデスクの下から生理用品が溢れ出るなどして、先輩たちにいつも怒鳴られ心配され励まされ見守られ毎日付きっきりで育ててもらった。
このころ面倒を見てもらっていた先輩に先日「お前はじめての飛び込み営業のとき回転ドアで、無理矢理一緒にはいってきたよな!?」と全く覚えてない話をされたけどすぐに想像できた。回転ドアを見たこともない、名古屋の田舎から出てきた私は、いつも不安すぎて先輩にくっついているしか出来ない一年目で、ひとりずつ入るはずの回転ドアで先輩の背中に滑り込んだとしても、全然不思議じゃなかった。
そんな兄や父のような眼差しのなか逞しくなった私は、一年目の終わりになんと営業賞を取る。が、その直後そのグループが解散。先輩たちとも離れ離れになり、二年目には同世代しかいない若手グループに異動。かつ、営業先はそれまでの知識がまったく通用しない新領域。それがヘアサロンだった。
最初は、吉祥寺エリアのヘアサロン担当になった。業務内容はフリーペーパー(紙とweb)に載せる集客広告の企画営業。40件以上もの担当ヘアサロンの原稿執筆や撮影をひとりでこなしながら、新規契約獲得のため一日20件近くのヘアサロンに飛び込み営業もしなくてはならない。
さっきから私はヘアサロンヘアサロンと連呼しているが当初は「美容院」という呼び方しか知らなかった。それどころか東京の美容師さん(以後スタイリストさん)自体を恐れすぎて店近くの柱に隠れて不審者として通報されたりしつつ、「負けたくない」という気持ちだけ高め続けた。
誰に負けたくなかったかと言えば同期に。当時私は同期を思い切り見下しており、一年目で賞を獲った特別な私がこんな凡人たちに負けるわけない、という意地だけでなんとか飛び込み営業をしまくった。手書きの自分新聞や手紙をお店のポストに入れ、直接話すのが怖いお店にはガラス越しに紙芝居風に営業した。すると、新規契約がどんどん獲得できるようになった。
そして3年目、会社でとても偉い人に個室に呼び出され、言い渡された瞬間に頭に吹いた風をいまでも忘れないが「異動。表参道」と言われた。ヘアサロン担当のいわば花形、青山・表参道担当。大抜擢だった。
表参道と青山をつなぐ、みずほ銀行前の交差点に地下からあがった初日、とうとう凄いことがはじまってしまうと全身が粟立った。その予想はある意味であたる。着任して2週目に「あの日」が来たのだ。
誰もが知っている国民的アイドルが、さらっと現れるような超有名ヘアサロンだった。着任一週目に前任者に連れられ短い挨拶は済ませていて、私がひとりで打ち合わせをするのはその日が初めてだった。
そのヘアサロンの担当者さんは30代くらいの、ショートカットで小柄な女性スタイリストSさん。有名店だし、良いスタイル写真(髪型の写真)もたくさんあるし、なにより契約は半年以上先まで入っていたから、原稿はほとんど前の月と同じでいいよね、と思いながら打ち合わせに臨んだ。
机の上に資料を広げ、しばらく原稿内容を説明していた私にSさんは突然「あのさ」と乾いた声をだす。私が資料から顔を上げると「知らないよ、あなたがどんな気持ちでやってるかは」とまっすぐ視線を掴まれた。「それは知らないけどさ、ちゃんとうちのこと考えてんの?」と続いた。それまでほぼ私しか喋ってなかった。
「あなたにとってはいくつも担当してる店のひとつだと思うけど、こっちはここで必死でやってんの。お客さんに来てもらえなかったら意味ないの。わかってる?」と問われ、言葉がでない。実は集客にまったく満足してないこと、あたらしい担当である私と一緒に別の角度から作戦が立てられると信じていたこと、それなのに私から作業のような説明が続いたことなどを一気に話したSさんから、さらに重い声で「あたしは本気でやってんだよ」と言われたとき、私の中の何かが決壊したのか、涙が溢れた。
「え、ちょっと大丈夫?」とSさんの声がしても、Sさんの上司であるトップスタイリストさんまで来て心配されても、申し訳ないことに私は両手で顔を覆いごめんなさいと繰り返すしかできなかった。
***
「間違えてしまった」と思った。
3年目のそのころ、それまでより大きなグループに属していた私の周りには、売れてる同期やスター的な先輩が何人もいた。そんななか表参道担当になり、ここで結果を出せたら「営業マンにしかなれなかった自分」にはじめて光を当てられるような気がした。初日から、これは戦争だ!チームメンバーを打ち負かす!誰にも私を越えさせない!と新規契約が取れそうなお店に片っ端から飛び込み、朝から晩まで走り回っていた。勝手に自分を奮い立たせ、プレッシャーを頂点まで高め、契約を増やすことだけに必死だった。
だけど。そんな私の勝ち負けなんてSさんやお店にはなんの関係もないことだった。当たり前だ。
夢をえがき、美容学校を卒業し、地元のヘアサロンに就職してスタイリストになったSさんは、そこから一念発起して表参道のヘアサロンの門を叩き、お客さんの人生丸ごとに向き合っていた。そこに現れ、自分本位に上辺だけの営業トークをする私のことなんて、見放して担当者を変えることもできたろうに、顔を真っ赤にして怒ってくれたのだった。
その日、なんとか泣き止んだ私にSさんは「まかせるから、ちゃんとやんなよ、一緒に結果だそうよ」と強く肩を叩いてくれた。そんなふうにまっすぐ誰かに叱られ励まされるのは、本当に久しぶりだと思った。
かつて回転ドアを一緒にくぐった先輩が「お前は自分のことばっかになるから、とにかく相手の話をきくことだけ意識しろ」と何度も言ってくれた事を思い出した。相手の話をしっかりきくこと。相手の現状と目標を理解すること。どんな相手にも本気で向き合うこと。そんな大事なことを、改めてSさんに教わった気がした。
その日から、自分が担当する全ヘアサロンに改めて話を聞く機会をもらい、全原稿を書き直した。私が抱えていったあたらしい原稿案を見たSさんは「ねえ、天才じゃない?!」と叫んでくれて、その原稿でたくさんの集客も叶い、手を叩きあって喜んだ。たのしかった。うれしかった。私は私をわかってなかった。国民的歌手にはならなかった自分は多分凡人で、だけどできることは意外と多くあった。
***
それから。自分の結婚式のヘアメイクまでSさんに担当してもらいながら私は歳を重ね、肩書きは「営業」から「コピーライター」「CMプランナー」になり、今は「エッセイスト」になっている。だけどつねに根本で「営業」だとも思っている。
エッセイストとして4年続けたお悩み相談連載では、数百通のお悩みに答えてきた。相手は会ったこともない、年齢も職業も違う人たちだったけど、あのころ教わった営業の真髄をベースに、ただならぬ熱量で向き合えた。
営業なんて、量産型人間の末路みたいな仕事だと思っていた。
もし私が最後まで自分のことしか考えないままはたらいていたら、そうなっていたかもしれない。そうじゃなくてよかった。これからも私はずっと、営業マンでありつづけたい。
スイスイさん SNSアカウント・ホームページ https://twitter.com/suisuiayaka ・note https://note.com/suisuiayaka |
本連載は、さまざまな筆者の「うまくいかなかった日」に関するエッセイを交代でお届けします。
第1回目:大平一枝さん「やる気だけでは乗り越えられないと知った日」
第2回目:あかしゆかさん「『わかりやすさ』に負けないと決めた夜」
第3回目:小島由香さん「中学でハブ、オフィス解散。孤立から学んだチームとのアイコンタクト」
第4回目:西村宏堂さん「『怒りの波紋』に飲み込まれないために」
第5回目:平林景さん「夢を諦めたあの日から、再び夢を語れるまで ─「ちゃんとやらなきゃ」からの解放」
第6回目:塩谷歩波さん「すべてを抱え込み、壊れかけた日」
第7回目:片渕ゆりさん「『ずるい』に心をくもらせて。真面目な私の、あの日の嫉妬。」
第8回目:はしかよこさん「私は、転職して“ちゃんとした大人”になろうとした」
第9回目:山崎あおいさん「プライドが打ち砕かれた、あの日の打ち合わせ」
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