「やりたい」に真っ直ぐ突き進んできた耳鼻科医のスペシャリスト大村医師。彼が歩んだこれまでの道のり
2022年、一人の耳鼻科医の12年間に渡る国際医療ボランティアを追ったドキュメンタリー映画「Dr.Bala(ドクターバラ―)」が各地の映画祭で話題になりました。ロサンゼルス映画祭の長編ドキュメンタリー部門で監督賞、インドの映画祭でベストドキュメンタリー特別賞を受賞し、日本での放映も沖縄を皮切りに東京、大阪、愛知、京都と広がり、自主上映の要望も続々と実現。
映画の主人公は、東京慈恵会医科大学 耳鼻咽喉科の医師である大村 和弘さん。Balaとは、ミャンマー語で「力持ち」を意味し、ミャンマーでの国際医療協力に携わり始めた際に現地の方々が付けてくれた愛称です。
大村さんは鼻にできる腫瘍の内視鏡手術で症例数、技術力ともに“日本一”と称される名医。そんな彼のプロフィール欄には、「趣味 国際医療協力」と書かれています。
医師になって4年目のときに国際医療協力をスタートした大村さん。その後、耳鼻科医としてキャリアを積むために帰国し、東京慈恵会医科大学 耳鼻咽喉科に所属しました。日本で技術を磨く傍ら、大村さんは毎年、1週間しかない夏休みのすべてを東南アジアでの国際医療ボランティアに費やし続けています。若手医師への医療教育をライフワークにしながら、近年ではアメリカや中東からもその技術力を求められているそう。
自身の技術を惜しみなく若手医師に還元する教育を10年以上継続している大村さんが、逆境を乗り越え、辿り着いた考え方や今目指しているこれからの姿を聞きました。
「なりたい職業がなかったら、医師を目指してみよう」
医師を目指したきっかけは、内科医の父と薬剤師の母の影響でした。彼にとって「医師」という職業は身近であり、楽しそうにはたらく両親の姿が印象的だったそうです。
「幼いころから両親には『手に職を付けなさい』と言われてきました。美容師や弁護士など手に職の仕事はほかにも選択肢がありますが、両親が医療関係だったこともあったので、自然と『手に職を付けるならお医者さんだな』と考えていましたね」
「ぼくが小学生のときに両親は地元で開業したのですが、そこではたらく両親はすごく楽しそうだったんですよ。『今日は患者さん来るかな』『なんか来そうな予感がするよ』と2人でわいわい話をしていた姿は今でも覚えています。
地域の方々の健康を守るという格好よさと、人に囲まれてはたらく楽しさのある医師の仕事は面白そうだなと感じました」
この時の印象は、彼が医師になった今も変わらないそう。近年ライフワークとして行っている小中高生へ向けた講演会では「将来なりたい職業がなかったら、医師を目指してみてください」と伝えるまでに。
「医師の仕事はすごく面白いですよ。それは困っている人を救える、笑顔にできることはもちろんなのですが、自分の仕事の選択肢を広げてくれる職業だからです。
たとえば、ぼくの周りには医師をしながらカメラマンをしている方もいますし、経営者などもいます。ぼくもそうですが医療機器の開発をしている方もいて、モノづくりにも携われる。ぼくは本を書かせてもらっており、書籍出版もできたんですよ」
一見大きなチャレンジであったとしても、「手に職を付けている」という安心感があるから挑戦できる。やりたいと思ったことをかなえ、自分で選択肢をつくり出せるところが医師という職業の魅力の一つだと話します。
かつての大村さんも、その安心感をもとに、研修医2年目のタイミングで、とある決断をした。
医師キャリアの正攻法ではない道へ
研修医2年目のタイミングで参加した、ミャンマーを中心に医療支援を行うNPO法人ジャパンハートの吉岡秀人先生の講演会に胸を打たれ、東南アジアへの国際医療協力にチャレンジすることにしました。
「2年間の初期研修が終わり、後期研修に差し掛かると研修医は今後の医師としての道を選択をする時期になります。ぼくはそのタイミングで、たまたま吉岡秀人先生が開発途上国での無償の医療支援や医療人材育成について話す講演会に参加し、衝撃を受けました。話しているときの熱量がとにかくすごくて、時代にそぐわないぐらい泥臭いことを言っていたんです」
世間的にはライフワークバランスや、効率化が重視されつつあった時代。吉岡先生が講演会で話していたのは「人よりも苦労しよう」という言葉。人よりも苦労したら、いつかその苦労が自分を守ってくれる――。そんなメッセージが、大村さんの心に真っ直ぐ響いてきました。
会場は熱気に溢れており、そんな様子を目の当たりにしたことも、自身のキャリア選択に大きな影響を及ぼします。
周りの研修医たちの多くが外科医、内科医などの専門医になる道を選ぶ中、大村さんは、ジャパンハートの活動に参加することを決意。その際、大村さんは周囲から猛反対を受けたそうです。
「そりゃ、反対もしますよね(笑)。医師としてのキャリアの正攻法といえば、大学病院で教授になることですから。周りはぼくを異端児扱いし、『東南アジアになんか行くな』『そんなことしないで大学の勤務医になれよ』という言葉は何回聞いたか分かりません。
ですが、ぼくはただただ自分の中に生まれた『吉岡先生と一緒にはたらいてみたい』という気持ちに従っただけなんです。それに正直なところ『もし嫌になったら途中で辞めればいい』とも思っていましたしね。最初から何十年もミャンマーではたらくとか、骨を埋めるつもりはなかったです」
何かを選択するとき、私たちは「し続けなければならない」と考えがちなところ、大村さんは「1年〜2年ぐらい、吉岡先生とはたらいてみたい」と考えていました。最初から何十年も続けていく覚悟を本気で持てる人はそもそもいない、と大村さんは話します。
加えて、周りと違う選択をする大村さんを支えた1つの言葉がありました。
「アメリカの医師免許もお持ちになっている感染症の権威、青木眞先生の勉強会に参加したときに教えていただいた『横を見ずして前を見ろ』の言葉に背中を押されました」
国際医療協力に関する本を読み漁り、インターネットでリサーチを重ねた大村さん。その際、取り入れる情報の賛否は同量ではなく、自分の気持ちを後押ししてくれるポジティブな情報を積極的に取り入れることで、気持ちを固めていきました。
大村医師の代名詞「教育」と「継続」は、歩み続けた先にあった
医師になって4年目、後期研修中に日本を飛び出し、大村さんはNPO法人ジャパンハートに所属しミャンマーで国際医療協力をスタートしました。その後、ミャンマーでの経験を持ってネパールへ活動拠点を広げようとしたものの、ネパールの病院や医療団体からは、ミャンマーとは異なる支援構造が原因で「それなら支援は必要ない」とまったく相手にされなかったそう。
「いいことをしているはずなのに、求めてもらえない。その壁に当たったときに『なんでなんだろう?』と考えてみたら、単純にぼくに技術が足りていなかったんですよね。ぼくがコンタクトをとったところで、相手には何のうまみもない。『うまみがある人間にならなければいけないんだ』と覚悟しましたね。もしぼくに話を聞きたくなるだけの技術や、実績があれば、支援構造が違う云々を跳ねのけて、きっと話を聞いてもらえるはずだと。だから、上を目指す覚悟を決めたんです」
それは、「日本一」になるための一歩目を踏み出した瞬間でした。このことをきっかけにそれまで漠然としていた自身の専門について、当時、国際協力の分野だと他の領域と比較して競争相手が少なかった「耳鼻科だ」と思い立ち、日本に帰国後に東京慈恵会医科大学 耳鼻咽喉科に入局。誰よりも手術を経験し、技術を習得していきました。そしてついに、“ネパールの東大”とも言われる病院から「先生のもとで手術を学びたい」と言われるまでになったのです。
今や手掛けた鼻腔癌、鼻腔腫瘍の症例数は世界でも有数であり、編み出した術式も15を超える大村さん。彼に憧れ、国内外から内視鏡の操作や手術方法を学びたいという人が、後を絶ちません。
ところが大村さんは、「教育」の形になったのはあくまでも結果論だと言います。
「そもそもが『誰かに教えよう』と思って技術を磨き始めたわけではないんです。困っている患者さんがぼくを頼ってくれるようにと磨いた技術が、結果として求められるようになっただけ。
もっといえば、指導を続けて何十年にもなっていますが、それも結果論です。続けようとか、続けなければならないとは思っていなくて、若い医師たちが僕も受けたいと思うほどの手術技術と熱量をもって手術を行えるようになるのであれば、ぼくは手を引いて任せてもいいとすら思っています」
その時々でベストを尽くし、積み重ねてきた結果、今がある。ただ、続けてきたからこそ見えた景色もあります。それは、学びたいという熱量の高い若手の医師の存在です。熱い思いを持った若手とともに道を歩めることは、医師という仕事に新しい面白さを加えてくれたそうです。
自分がやりたいから、やる。その姿は、周りにも必ず伝わる
今でも年1回の長期休暇を国際医療協力に費やし、それ以外にも「大村医師に手術をしてほしい」と連絡が入れば、休日を使って海外の病院に赴いている大村さん。自分の選択や行動が、自分1人だけでなく家族や周りにも影響を及ぼしてしまう可能性もある中、大村さんはご家族とどのような対話をされるのでしょうか。
「家族のことは常に念頭にあります。うれしいことに、家族はぼくのすることを応援してくれています。というのも、ぼくが『自分がやりたいからやっている』という姿勢を見せているから、応援してくれるんですよね。
実はぼく、緊急手術の連絡が入ったときに、それを家族に対する伝え方を2パターン試したことがあって。1つは『患者さんを助けたい、行きたいから行ってくる!』と言うパターンと、もう1つは『こんなに夜遅くに呼ばれて大変なんだよ』と言う2パターンです」
試してみた結果、「助けたい」と言うと、ご家族は「患者さんを助けるために頑張ってね、いってらっしゃい」と送り出してくれたそう。一方で「大変なんだ」と言うと、「どうしてあなたが行くの?あなたじゃなくてもいいんじゃないの?」と返ってきました。
「自分が心からやりたいことは、言葉でも姿勢でも、表現することが大切なんですよね。
よく『周りの人が許してくれなくて』という相談をいただくこともありますが、それはもしかしたら自分の情熱や覚悟、やりたいんだという気持ちが相手に伝わりきっていない可能性があるかもしれません」
現在地で描くビジョン。普遍的に元気を与えられる人を目指して
耳鼻科医のトップとして、大村さんのもとには、ほかの病院では手術がかなわなかった患者さんが数多く助けを求めにきます。“最後の砦”である大村さんは今、どのようなビジョンを掲げているのでしょうか。
「医者になったときからぼくが目指していることはずっと変わらず『目の前の困っている人たちを、世界で一番上手く助けられる人間になる』こと、ただそれだけです。それをかなえようと行動するうちに、だんだんと世界が大きくなり、目指すべき目標も高くなってきました」
誰かの大切な人を安心して任せてもらえるような自分になるために、技術を磨く。その思いからスタートし、 国際医療協力を経たことで、“ 目の前の困っている人 ”の存在は世界各国にいると実感、世界が広がっていったと言います。
「手術で困ったことがあれば『大村を呼べば、ぱっと来て良い手術をするぞ』みたいなネットワークが全世界に広がっていくことが、一番の理想形ですね。
耳鼻科医でそんなことをしている人はもちろん誰もいないですし、他科を含めても少ないんじゃないかな。自分がそのパイオニアになれたらいいと思っています」
そして、大村さんが最終的に目指す姿は、世界一の医師になり、人に元気を与える人になること。理想としているのは、1,000円札にもなった野口英世さんや、アフリカの地域医療に貢献してノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュバイツァーさんのような存在だと言います。
「今はありがたいことに耳鼻科医のなかでは認知が広がっていますが、彼らのように誰もが知っている医師ではまだまだありません。医療業界だけでなく、垣根を超えて、地球全体すべての人たちに元気を与えられる人になることが目標です」
(文:田邉なつほ)
※ この記事は「グッ!」済みです。もう一度押すと解除されます。