身長139cmで手足の不自由な私が、営業で売上No.1を獲れた理由。

2024年11月15日

「日本一小さい営業マン」

自らそう名乗り、営業職として活躍する25歳の男性がいます。福岡県内でオフィス製品を販売する会社に勤める、入社4年目の山﨑海斗さんです。

山﨑さんの身長は139cm。生まれつき、「先天性多発性関節拘縮症」という、手首や足首、膝や肘などあらゆる関節が固まって動かしにくい難病を患っています。手足が不自由でも、幼少期からの夢だった営業職に就き、正社員としてはたらく山﨑さん。それだけでなく、何度も売り上げトップを達成しています。

学生時代には壮絶ないじめも受けたそうですが、なぜ、逆境から立ち上がることができたのでしょうか?山﨑さんが、障害を前向きに捉え、夢を掴むまでの道のりを辿ります。

12回の手術を経て、補助器具なしで歩けるように

——営業職は、幼いころからの夢だったそうですね。

元営業職の父の背中を見て育ったことが大きいです。

私が小さいころから父は「今日はこんなお客さんに出会って、こんな商品を売ったよ!」とうれしそうに話したり、「今年は福岡県内で売り上げ1位やった!」と業績ランキングの表を見せてくれたりしていました。

山﨑さんの勤める会社の代表でもある、父の寿久さん

「営業っていろいろな人と出会える楽しい仕事なんだ」「自分もほかの人と競い合いながら頑張ってみたいな」と、ずっと憧れていました。

——なぜ、「日本一小さい営業マン」と名乗るように?

入社初日に父から私の名刺をもらった時、「株式会社エー・ワイ・エス 営業部 山﨑海斗」と書かれた名刺を見て、「なんか普通だな」と思ったんです。せっかくなら「あの人だ!」と思い出してもらえるようなキャッチコピーを追加したいなと考えていたら、この肩書きをパッと閃いて。

私と同じくらい身長の小さい営業マンは見たことがなかったですし、インターネット上にも出てこなかったので、よっしゃ!と思い、翌日名刺に印字してもらったのが始まりです。

——手足が不自由な中、どうやってお仕事されているのですか。

私は、背骨が曲がってしまう病気「側弯症」も併発していて、同じ障害のある方の中でも症状が重いほうです。同じぐらい症状の重い方は、家の中では歩けても外では車椅子を使うことが多いようですが、私の場合、小さなころから外でも長距離でなければ歩くことができたんですね。

学生時代までは補助器具をつけていましたが、12回の手術を経て、今は普通の靴を履いて歩いています。

「右手が不自由なので、パソコンは左手の3本指のみでタイピングします」(山﨑さん)

車を運転したり、重い荷物を納品したりする際は、父や先輩方がフォローしてくれます。自分にできないことは声をかけて手伝っていただいているので、本当にありがたいです。

壮絶いじめに遭った中学時代から、電話営業で売り上げトップになるまで

——学生時代はどのように過ごされたんですか。

小学生までは、先生や友人が周囲と分け隔てなく接してくれたのもあり、自分が障害者だという自覚はあまりなかったんですね。

でも中1の夏ごろから、給食時に自分にだけ牛乳が配られなかったり、給食をぐちゃぐちゃに混ぜられたり、自分の机に触れたら「病気が移る」と逃げられたりと、陰湿ないじめを受けるようになりました。

ある日の放課後、学校で「カビ」とあだ名を付けられたことを母に話したんです。母はスパルタで、いつもなら「やられたら、やり返しなさい」と言いますが、この日は、「あまりにも度が過ぎとう。もう耐えられんけん、学校行ってくる」と家を出ていきました。校長や担任の先生に、怒鳴り散らしたようです。

今思えば、母が最初から私を守る姿勢じゃなく、ある程度厳しくしてくれたことが現在のメンタルの強さにつながっていると思いますね。

「母はめちゃくちゃ明るくおしゃべり好きです」(山﨑さん)

——障害を前向きに捉えられるようになったきっかけは、なんだったのでしょう。

高校時代に、友人がかけてくれた言葉がきっかけです。

中学生までは、病院でのリハビリのために週に一度早退か欠席をしていましたが、内申点に響くので、高校は単位制高校を選びました。クラスメイトは年齢層が幅広く個性派ぞろい。金髪にピアスのヤンキー風な友人、オタク気質な友人……最初は「個性強!」と驚きましたが、中学時代のように自分が変に浮くことがなく、仲のいい7〜8人の友達もできました。

それでも、障害のことも含めて、自分について話しすぎると「付き合うのがしんどい」と思われないかな?と不安で、友人たちと距離を取ってしまう自分がいたんですね。ある日、学校帰りの地下鉄の駅のホームで、友人の一人が「そういえばさ、海斗も確かに変わっとうけど、俺たち皆変わっとるし、別に気にせんでよくない?皆違うけん、皆いいっちゃろ」と何気なく言ってくれて。

その一言に救われて、障害を前向きに捉えられるようになったんですよね。彼がいなければ、今も自分をさらけ出せない人生だったかもしれないと思うと、友人との出会いに感謝したいです。

——高校卒業後、すぐに就職されたのですか?

いえ、高校の進路指導で先生に「営業マンになります」と伝えたのですが、いざ障害者雇用の営業職の募集を探すとまったく見つかりませんでした。

それでも「営業マンになりたいです」と言い張ったんですが、募集自体がないので現実的に難しい。でも諦めたくなかったので、先生と相談してハローワークへ行ったところ、「障害者就労移行支援事業所」という、一般企業への就職を目指す障害者のための訓練施設があると知りました。まずはそこに通うことにしたんです。

通常は、チラシの封入作業やデータ入力、スイーツの製造・販売をして、その道で仕事をする社会人になるための訓練を積みますが、私は訓練を始める前に「営業マンになるための訓練がしたいです」と要望したので、ほかの障害者の方たちのための仕事を、電話営業で取る訓練を集中的にやらせてもらいました。

——「営業」というと、ノルマが大変そう、精神的にきつそう……というイメージを持つ人も多いですが、不安はありませんでしたか?

なかったですね。さすがに初めての電話営業は、緊張で電話番号を押す時も会話中も手が震えましたが(笑)。

ほかの利用者がチラシ封入作業やデータ入力をする中、山﨑さんは同じ部屋で電話営業の訓練をした

——その後一度、電話営業職に就いたのですよね。

訓練開始から約半年後、障害者雇用の電話営業職を募集している、地元福岡県の特産品を販売する会社を見つけたんです。でも実は、入社1週間で心が折れそうになりました。

私が配属された部署は1箱5,000円から1万円前後の明太子の電話営業をしていましたが、どれだけ工夫しても契約につながらなくて。同じ部署の約20人の先輩方は、次から次へと契約を取っているんです。

1週間で契約0件だった時、「自分には難しいかもしれない」と思いました。部署内は全員女性で、男性は私一人。電話営業は女性の柔らかい声のほうが向いているのではないか?と。

どうしよう……、と悩んでいた時、上司が「先輩たちの声を聞き、良いと感じたところを書き出してみてごらん」と助言をくれ、1時間、聞き耳を立てたんですね。

すると、私の「お忙しいところ失礼いたします。◯◯の山﨑と申します」という硬い話し方に対して、先輩方は、「こんにちは!前回大変ご好評いただいたのですが、奥さまいらっしゃいますか?」と丁寧かつフランクに話していました。

それをトークスクリプトにまとめて自分の言葉で話してみたところ、2、3日で契約が取れるようになったんです。新規のお客さまが一人で10万円分以上買ってくださったこともあり、約半年後には、社内で業績トップになることができました。先輩方を真似たことで声色が女性らしくなり、電話口で「ぼくもこれ好きなんですよ」と話すと、「あなた男性!?」とよく驚かれていました(笑)。

入社1年目は1日約20件の飛び込み営業をした

——なぜ、お父さまの会社に転職されたんですか?

電話営業職に就いて1年半ほど経ったころ、「自分は電話営業を一生続けるべきなのかな?」と悩んだんですね。1年の7〜8割は月間売り上げでトップを取れるようになり、ステップアップしたい気持ちがありつつも、成長の限界値を感じたんです。そんな時、コロナが流行し、私は障害があるため感染リスクが高く休職することになりました。

自宅で今後のことを考えていたら、「やっぱり夢だった訪問営業をやってみたい」という想いが沸々と湧き上がってきて。「挑戦してみようかな」と、一から就職活動をする覚悟で1社目を退職しました。

そのタイミングで父に、「他社でそれだけ稼ぎよるんやったら、うちの会社でもどれだけできるかやってみろ」と誘ってもらったんです。父はそれまで、重い荷物を持ったり運転したりしなければならない訪問営業の仕事に反対していましたが、コロナ禍で、訪問営業主体だった会社の営業スタイルが電話営業も取り入れる方向に変わりつつあったので、「今なら、海斗も活躍できるかもしれん」と。

2021年1月、一般雇用の正社員として入社。従業員11人中、営業職は山﨑さんを含め4人だそう

——訪問営業はうまくいきましたか?

1年目は半年ほど電話営業に専念し、その後は1日20件ほど飛び込み営業をしていたので、体力的にも精神的にも「今日もダメか……」となる日が多かったです。私の見た目は確かに印象に残りやすいですが、それだけで契約につながることはありません。門前払いされることもよくあります。

取引先には、営業しに行くというより「知人を訪ねる」感覚で出向いています。今では深いお付き合いのお客さまも増え、2024年は、現時点で1月から9月まで売り上げトップを獲ることができています。

山﨑さんは小中高等学校での特別授業や講演にも出向く。流暢で分かりやすいトーク力から、企業や自治体からの講演依頼も増えている

——幼少期からの夢が叶ったんですね。

私はおしゃべり好きな両親の元で育ったおかげで、「話す力」だけは人に負けない自信があります。それを「営業」や「講演」に活かせていることで、障害というマイナス面を、プラスに変えることができているんですよね。

周りの人にはできて自分にできないことがたくさんある中で、自分が障害をマイナスに捉えてしまったら、そこから変わることはできません。「こうしたらもっと上手くいくかも」「皆工夫しながらはたらいとるんやけん、自分も工夫すれば大丈夫」と、なんでも前向きに考えるようにしています。

今では、唯一ネガティブにしか考えられないのは恋愛くらいですね(笑)。

(文:原由希奈 写真提供:山﨑海斗さん)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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