1,350万部『嫌われる勇気』著者、「人に嫌われたくなかった」「申し訳なさが立つ」過去を告白。

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今回お話を伺ったのは、累計1,350万部を突破した世界的ベストセラー『嫌われる勇気』をはじめ、数々の名著やロングセラーを執筆してきたライター・古賀史健さん。
本棚のない家で育ち、映画監督を夢見た学生時代。新卒時代には眼鏡屋ではたらいていたという古賀さんが、なぜ“書くこと”を仕事に選び、どのように道を切り拓いてきたのか。インタビューでは、ライターとしての原点、迷いながら選び取ってきたキャリア、そして“やりたいこと”との向き合い方まで、じっくりと語っていただきました。
はたらくことにモヤモヤを抱えるすべての人に届けたい。古賀さんの言葉が心に響くインタビューです。
本棚のない家で育つ。映画監督を目指し、眼鏡屋に就職
──古賀さんは書籍の執筆や編集など幅広く活躍されています。子どものころから本に親しみがあったのでしょうか?
いえ。実家には本棚もなく、両親も読書家というわけではありませんでした。ただ、子どものころに本をつくった経験が一度あります。
1970年後半から1980年代にかけて、「1999年に地球が滅亡する」という『ノストラダムスの大予言』が日本で話題になっていたのですが、小学生のぼくはそれを本気で信じていたんです。幼いころのぼくは「生き残った人類に何か地球の歴史やメッセージを残さなきゃ」と思って、百科事典を手づくりしました。

恐竜の絵やジュラ紀・白亜紀などをノートにまとめて、大切に空き缶に入れて保管していましたね。今思えば、出版社がたくさん百科事典なんて出しているから、ぼくがつくらなくても良いのですが(笑)。
中学生になると、当時は洋画が全盛期で、流行っていたスティーブン・スピルバーグ監督なんかの作品がキラキラして見えて。ちょうどファミコンも流行っていて、ゲームや漫画などのコンテンツに魅了される子どもたちが多い中、ぼくは「映画監督になりたい」と、すごく楽しそうで夢のある世界にあこがれを抱いていました。
──映画監督を目指していたところから、どのように「書く」道を歩むことになったのでしょうか?
高校卒業後は、映画監督になりたい、映画の仕事に就きたいという想いから、大学の芸術学部に進学しました。そこで、4年間映像制作を学んだ集大成として取り組んだ卒業制作で、はじめて映画監督を務めることになったんです。
でも、ぼくは人に指示を出すのが苦手で。ボランティアで協力してもらっているのに何度もやり直しを命じるのは申し訳ないし、監督っぽく場を仕切ることへの恥ずかしさが先立ってしまったんです。もちろん手伝ってくれる友だちに嫌われたくもなかったですし。
そんな映画づくりは当然うまくは行かず、完成した作品の上映会で、同級生や大学の先生ががっかりしているのをはっきりと感じました。この経験から、「自分には映画監督の才はない」と感じたんです。

ただ、映画ってチームプレイですから、反省がむずかしいんですよね。本当は自分のせいなのに、つい「キャストが悪かったんだ」とか「照明が悪かったから」と、周囲のせいにしたくなる。そして、そんな自分も嫌になる。集団スポーツでもそうですが、チームプレイって言い訳の余地がたくさんあるんです。
じゃあ絶対に言い訳のできないジャンルってなんだろう、と考えたときに思いついたのが「書くこと」でした。映画の脚本には自信があったし、監督のように周囲の人に指示を出したり、イメージを共有したりする必要もない。自分の力以外の何にも左右されない。それで「小説」だったら失敗しても他人のせいにすることなく、自分一人で完結できるんじゃないかと思い立って。卒業制作で挫折したあとは、小説家を目指し始めました。
──大学卒業後の進路については、どんなふうに考えていましたか?
小説家という職業は就職活動をして就けるものではありませんよね。だから、ひとまずどこかに就職して、仕事の合間に書き上げようと思いました。就職先として選んだのは接客業。そのなかでもいちばん優雅そうな眼鏡屋さん。接客を選んだのは、人見知りを克服したかったからです。それで仕事が終わってからコツコツ1年くらい書いていけば、何かしら書き上げられるだろうと思ったんですね。
ただ、負担が少ないと思って選んだ眼鏡屋さんでしたが、想像以上にハードで……。かなり体育会系な会社だったので、朝8時から営業をして、終わったあとも接客の練習をして、終電すぎまで毎日はたらいていましたね。「これは小説を書く時間なんて全然ないぞ」と思い、1年で退職しました。
当時は実家に住んでいたので、両親には「1年間だけ猶予をください」と話をして、映画制作の手伝いをしたり、小説を書いてみたりとフラフラしていました。とはいえ、いつまでも無職でいるのも難しく、ときが経つにつれて両親からも「周りの目もあるからどこかではたらいてくれ」と言われるようになり、再就職を検討し始めます。
それならせめて、物書きとして何か学びにつながる仕事をしようと思い、出版社への転職を目指しました。運良く、ある出版社が奇跡的に未経験の自分を拾ってくれたんです。そこで出版社に入社後、ライターとしての仕事を本格的にスタートさせました。
──ライターとしてはたらき始めてみて、率直にいかがでしたか?

最初は「ライターなんてそんな難しくないだろう」と思っていました。ところが、実際にやってみるとものすごく奥が深い。企業経営者から個人商店の店主まで、いろいろな方々に取材しながら書いていくのですが、それぞれの人にしか語れない言葉や哲学があるんですよね。取材後は自分なりに情報を取捨選択して、一つの文章にまとめる。何をどこまで書くか、その判断には文章力だけでなく、自分の人間力や価値観も問われるところが面白い仕事なんですよね。
それに、世の中って実は文字だらけで、ネットの記事やテレビのテロップ、チラシのセール文句まで、すべて血の通った人間が書いているんです。しかも、何らかの意図や考えを持って。さらっと見過ごしていた言葉にも、ちゃんと誰かの考えがあるということに、ライターの仕事をしてはじめて気付きました。
ぼくにも、自分にしか書けない言葉があるなら、やってみたい。こんなに奥深く楽しいのであれば、ライターの仕事に一生をかけても良いかもしれないと思いました。
「誰も読まない」と言われ10年。累計1,350万部の『嫌われる勇気』
──出版社でライターとしてはたらかれてから、フリーライターとして本を書き始めるようになるまでの流れを教えてください。
せっかく出版社に入社できたのに社長と喧嘩をして、入社して10カ月目、24歳で会社を退職することになってしまいました。当時は今と違って転職サイトなどもなく、あるのは新聞の求人欄だけで、出版社の中途採用は大抵「業界経験3年以上」という条件がついているんですよね。それなら、いろいろなジャンルを好きに書けるフリーライターのほうがいいと思って活動を始めました。
最初は無職のような状態で、経済的にも厳しい時代を半年ほど経験しましたね。日帰りバスツアーのチラシに掲載する案内文から始まり、大学の入学案内やムック本の執筆など、粛々と目の前の仕事に取り組み続けました。
そうしてフリーになって5年経った30歳のとき、初めて書籍をまるごと一冊担当する機会をもらったんです。それまで数百字単位で書いていた文章が、一気に10万字を超える世界に広がり、「こんなに書いていいんだ!」という興奮と自由度の高さ、それだけの文字数を任せてもらえたことがうれしくて。
それ以降は少しずつ本づくりの仕事が増えていき、気付けば本のライターとして生きるようになっていました。これまでに手がけた書籍は、100冊を超えています。
──累計1,350万部以上を突破した『嫌われる勇気』を執筆することになったきっかけを教えてください。

20代の終わりごろ、池袋の本屋で10冊ほどまとめ買いした中に、たまたま『アドラー心理学入門』という本があったんです。読んでみると、驚くほど腑に落ちることが多かったんですよね。
当時、犯罪者を扱った映画の多くが「過去のトラウマが原因で事件を起こした」という構造で描かれていたんですね。トラウマを読み解くことで犯行動機もわかる、みたいな。でも、理解不能ななにかをすべてトラウマで説明する構造がずるい気がして、モヤモヤしていたんです。
一方、ライターの仕事をはじめてからは、周囲の編集者が「子どものころから読書が好きだった」「家に大きな書斎があった」みたいな環境で育ってきた人ばかりなんですよ。本棚がない家で育った自分は異質だったし、コンプレックスがありました。
そこでアドラーの「過去の自分がどうだったかではなく、“いま”の自分がどう在るか、どう在りたいと願っているかが大事」という考え方に出会い、初めて自分を肯定されたような気がしたんです。
そこから、同じように悩んでいる人たちにも届けたいと、『アドラー心理学入門』を何冊も買って、必要だと思う友人に配っていました。でも「難しい」「よく分からない」と言われて、まったく読まれなくて(笑)。だったら自分が、もっと分かりやすく、面白く書き直せないかと考えたのが、『嫌われる勇気』を執筆することになった最初のきっかけです。
──それから10年ほど、さまざまな編集者に企画を出しても通らなかったと伺いました。
はい。「こんなの誰も読まない」「古賀さんがやりたいなら……」みたいな反応が大半でした。編集者側が乗り気じゃないと、私も仕事をしていてつまらない部分があるんですよね。そこからようやく10年越しに「やりましょう」と快く乗ってくださる編集者の方と出会い、出版に至りました。
そして、初版は8000部だったのですが、『嫌われる勇気』は日本を含めた世界で1,350万部以上の方に読んでいただき、想像以上の結果になりました。
“やりたいこと”は、ポケットにしまっていても良い
――読者の中には、古賀さんのように目の前の仕事を粛々とこなす中で、「このままで良いのかな……」と不安を抱えている人も多いと思います。そんな人へメッセージはありますか?

「やりたいこと」と「やれること」は、どちらも大切にしてほしいです。
ぼくは、ライターとして最初の数年は、完全に“やれること”の仕事ばかりやっていました。編集者から「この著者の本をお願いしたい」と言われれば、とにかく一生懸命書く。自分から「これを書きたい」と企画を出すことって、滅多になかったんです。
そんな中、どうしても「やりたい」と思った本が『嫌われる勇気』だった。「やりたい」と思い立ったのが、20代の後半。そして実際に出版できたのはその10年後。長い時間がかかったわけですが、もし最初の時点で企画が通っていたら、今とはまったく違う本になっていたと思います。20代後半の自分には、まだ『嫌われる勇気』のような本を書き切る力がなかった。だから、「今ならもっと面白くできる」と思えるようになるまで、この企画は最後の切り札のようにしまっておいたんです。そう考えると、「やりたいこと」って必ずしもすぐにかなえなくても良いと思うんですよね。
“夢”も同じです。たとえば「映画監督になりたい」とか「小説家になりたい」と思っても、考えるだけではぼんやりとしているし、実際にやってみなければ現実のことは分からない。だから、とにかく動き出して、若いうちに一度壁にぶつかって、挫折して、道草をしても良い。
ぼくも最初は小説家になりたいと思っていたけれど、雑誌の原稿を書くうちに「ライターの仕事って面白いな」と感じるようになり、やがて本の執筆のほうにより魅力を感じるようになりました。そして今は、「自分の本を書きたい」と思うようになっています。
自分の常識や価値観は、年齢とともにどんどん変わっていきます。ぼくもこれまでに、自分の中の「やりたいこと」「面白いと感じる対象」も変わりました。
だからこそ、「やりたいこと」をすぐにかなえようとしなくても、今「やれること」を続けながら、自分を育てていくことが大事なんだと思います。「やりたいこと」はポケットにしまっておいて、「今だ」と思える瞬間が来たときに、そのカードを出せば良い。30歳でも、40歳でも、90歳でも、いつか出せるその日のために、準備しておけば良いんです。
――やりたいことがない場合にはどうしたらいいのでしょうか?

たぶん、やりたいことがないんじゃなくて、「言語化できていない」だけなんだと思うんです。生活の中で、寝る・食べる以外に何かに夢中になっている瞬間って誰にでもあるのではないでしょうか。テレビを見るでも、ゲームをするでも、旅行に行くでも良い。
たとえば、仕事だと1時間でクタクタになるのに、ゲームなら徹夜でも平気、みたいな。そういう“疲れない何か”は、やりたいことの芽かもしれない。
最初は細い枝みたいなものでも、その枝を少しずつ伸ばしていくうちに、いつか幹になっていくと思います。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
若いころは「時間」がいちばんの資産です。お金はね、極端なこといえば借金できるんですよ。でも、時間って誰からも借りられないんです。もし時間を借りるとしたら、未来の自分から借金するしかない。
20代で遊びすぎたり、何もせずダラダラしたりしてたら、そのツケは40代とか50代の自分が返すことになる。逆に、20代で一生懸命に知識や経験を蓄えておくと、それが将来の利息になるんです。
図書館に行けば本はタダで借りられるし、読み放題じゃないですか。今のぼくは体力もないし、長編を読むのはキツいんだけど、20代のころは一日中読めた。あの「ひたすら読む」という20代があったから、今の自分があると思います。
20代のうちにどれだけ知識や経験の“貯金”ができるかで、30代・40代・50代のキャリアは大きく変わってきます。少しでも良いから、自分の未来に投資してみてほしいですね。
「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆

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