「同性が好き。でも誰にも言えない」一橋大卒→印刷大手で平日はスーツ、週末は”女王”に。

2025年10月17日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

厚く塗ったアイライン、長いつけまつげ、ゴージャスな衣装――。

エスムラルダさんは、華やかなメイクと衣装であえて誇張された女性らしさを表現するパフォーマー、ドラァグクイーンとして1994年から活動しています。一方、2012年に「第12回テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞」優秀賞を受賞して以来、映像や舞台の脚本を手がけ、ドラァグクイーン・ディーヴァユニット『八方不美人』のメンバーとして歌手活動を行うほか、ライター・編集者としても活躍するなど、そのキャリアは多彩です。

しかし、一橋大学を卒業して大手印刷会社ではたらいていた20代のころは、「仕事をやらされている感覚が強く、ダメな社員だった」と言います。現在は自分らしく多彩なはたらき方を実現しているエスムラルダさんに、「はたらく」を楽しくするためのヒントをお伺いしました。

自らの同性愛を“肯定”できなかった20年間「知られたら人生終わる」

――エスムラルダさんがご自身のセクシュアリティと向き合われたのはいつごろだったのでしょうか?

子どものころから物語を読むのが大好きで、歌やお芝居にも親しんでいました。家にはピアノがあり、小学校では演劇部にも入っていたんです。

一方で、もう物心ついたときには「男の子が好き」という気持ちがありました。当時は「いずれ女の子を好きになるのではないか」と思い込んで、自分のセクシュアリティと向き合うのを先送りにしていたんです。でも、大学1年生のとき、友人たちが次々と男女のカップルになっていく中で、強い孤独感に襲われ、現実と向き合わざるを得なくなって。

――そのころは、同性愛の感情を誰にも相談できない状況だったんですね。

誰に何を言われたわけでもないのに、なぜかずっと「同性を好きなことは絶対に知られてはいけない」と思い込んでいました。友達と恋愛の話をしているときも、自分だけ嘘をついているような、常に仮面をかぶっているような感覚で。セクシュアリティに関しては、この時期、一番悩んでいましたね。

――そこからどのようなきっかけがあってドラァグクイーンに?

20歳のとき、これ以上一人で抱え込むことに限界を感じ、勇気を振り絞って「性的マイノリティの人たちが集まる街」として知られていた新宿二丁目に行き、性的マイノリティの活動団体にも半年ほどいました。そこではじめてゲイの友達ができて、考え方がガラッと変わったんです。好きな同性の話を隠さずにできることがすごく幸せだったし、「同性愛は決して“異常”なことではない」と気付かされ、ようやく自分のセクシュアリティを肯定できるようになりました。

その後、同じ大学に通うゲイの友達と知り合い、彼らが入っていたレズビアンやゲイ、バイセクシュアルが集う「パソコン通信」に参加しました。メンバーがテーマごとに意見や情報を交換し合う、今で言うコミュニティサイトみたいなものですね。

そして22歳の秋、そのパソコン通信の4周年パーティーではじめてドラァグクイーンに挑戦しました。それまで、映画やドラマのヒロインとか女性歌手の曲に感情移入することはあったものの、「メイクしたい」「女装したい」という気持ちは特にありませんでした。

でも主宰のブルボンヌ(現在もドラァグクイーンとして活躍中)から、当時人気を博していたドラァグクイーン、ル・ポールのPVを見せられ、「うちらもこういうのやってみようよ」と誘われて、ノリで始めたんです。それが、今も続いているドラァグクイーン活動の原点でした。

「今度こそ辞めよう」本音を隠し続けてはたらいた会社員時代

――その後ドラァグクイーンの活動はどのように続けていたのでしょうか?

大学を卒業して大手印刷会社に就職した後も、ドラァグクイーンの活動は続けていました。週末には派手なメイクをしてクラブでパフォーマンスをし、平日はまじめにスーツを着て出社をする。週末と平日でまったく違う自分になっている状態が、非日常と日常、まさに「ハレとケ」のような感覚で。そのギャップが面白くもありました。

――会社ではどのようなお仕事を?

企業の歴史をまとめた記念誌や社史を制作する部署にいました。企業から預かった50年、100年分の膨大な資料や社内報を読み込んで年表を作り、ライターさんに原稿を依頼したり、本の構成を考え、デザインや写真撮影のディレクションをしたり……といった、編集者のような仕事です。

両親の影響もあってもともと本を読むのが大好きで、将来は物語をつくる仕事をするのかな、とぼんやり考えていたのですが、どうすればその仕事に就けるのかまったくわからず……。とりあえず就活をし、一番スムーズにいったのが、その会社だったんです。ただ、本を作る仕事に関わりたいと思っていたので、その部署に配属されたときは嬉しかったですね。

でも、実際にはたらいてみると、常に「やらされている」という違和感があったんです。本は本でも、社史はかなり特殊だし、この仕事が自分に合っているという実感も、この仕事をずっと続けていくというイメージも持てずにいました。

そもそも私は昼食後にすぐ眠くなってしまったり、外回りの途中でつい書店に寄り道してしまったり、スケジュール管理も得意ではなかったりと、正直あまりできの良い会社員ではありませんでした。同僚たちが残業もいとわず、休日も自主的に出社するぐらいその仕事に没頭している中で、自分はそこまで仕事に打ち込めない。そんな状況に「本当にこのままでいいんだろうか……」と、申し訳なさやモヤモヤを感じていたんです。

ボーナスの度に退職が頭によぎりましたが、なかなか状況を変えられませんでした。職場の人たちは、私のセクシュアリティのこともドラァグクイーンをしていることも受け入れてくださっていて、とにかく居心地がよく、離れ難かったし、会社を辞めて食べていける自信もなかったんですよね。

回り道をしてたどり着いた、子どものころの「好き」

――そんな会社員生活を経て、エスムラルダさんはドラァグクイーンのほかに、ライターや脚本家としても幅広く活動されるようになりました。そのきっかけはなんだったのでしょうか?

会社員時代に自分のホームページを立ち上げたのが一つの転機になりました。当時、個人でホームページ立ち上げることが流行っていて、「私も自分の想いを文章にして発信したい」という気持ちがどんどん強くなっていったんです。

そんな中、たまたま“オネエ言葉”で書かれた面白いホームページをいくつか見て触発され、私も同じスタイルで日々の出来事や想いを発信するようになりました。すると、私のサイトを見た『週刊女性』など雑誌の編集者の方からコラム執筆のお話をいただくようになって。

結局、会社員・ドラァグクイーン・コラム執筆の副業という“三足のわらじ”を履いた状態になっていきました。ちょうど会社の激務も重なり始めたことから、すべての仕事をこなすのは無理だと感じ、退職を決断したんです。と言っても、実際に退職するまで、占い師13人に相談するくらい迷いましたが(笑)。

――13人も!会社を退職することについて相当悩まれたんですね。

もともとは慎重というか保守的というか、なかなか自分の殻が破れないところがあるんです。こんな格好して何言ってんだという感じですが(笑)。セクシュアリティも、20歳になってようやく自分で受け入れてオープンにできたし、仕事に関しても「辞めたい」と思いつつ、実際に退職するまで8年半かかりました。

でも迷った末に覚悟を決めると、いつも、それまでのウダウダはなんだったんだと思うくらい、パーッと新たな道が開けるんです。

フリーランスになってからは、社史の仕事で知り合ったデザイナーさんから編集者を紹介され、ブックライターの案件をいただくようになり、元の職場からもしばしば、社史編集の仕事をいただきました。

フリーになって大きく変わったのが、仕事への取り組み方。一つひとつの仕事がお金になると思うと、ありがたくて。「(仕事を)やらされている」などと感じていた過去の自分は本当に甘えていたなと思いました(笑)。

また、退職を決めたころから脚本を学ぶスクールに通い、友人からの依頼で漫画原作をちょこちょこ書き始め、2012年にテレビ朝日の新人シナリオ大賞で優秀賞をいただいてからは、映像や舞台の脚本を書く機会が増えました。

ドラァグクイーンとしては、ずっとリップシンク(口パク)のショーばかりやっていたのですが、2015年には東宝主催の『レ・ミゼラブルのど自慢大会』のファイナリストとして帝国劇場で歌わせていただき、2018年には、脚本の仕事で知り合った作詞家の及川眠子さん、そして作曲家の中崎英也さんのプロデュースでドラァグクイーン・ディーヴァユニット『八方不美人』を結成し、歌うことが多くなりました。

こうして20年ほどをふり返ってみると、子どものころに好きだった物語・歌・お芝居すべてが仕事になっているのは感慨深いですね。勇気を出して新宿2丁目を訪れたとき、ドラァグクイーンをやり始めたとき、ホームページで文章を発信しようと思ったとき、退職を決意したとき……。一つひとつの決断や人との出会いが、少しずつ人生を変えてくれたんだなと思います。

「ダメな自分」も「迷った時間」も、素直に受け止めて

――自分の「仮面」に対するモヤモヤや違和感とは、どう付き合っていけばいいのでしょうか?

社会人の仮面、上司の仮面、部下の仮面、親の仮面、子どもの仮面……。人はみな、たいてい何かしらの仮面をかぶっています。それは、社会で生きていくうえで必要ですが、同時に「今、自分は仮面をかぶっている」「この仮面はかぶり続けなくてもいい」と認識することも大事だと思います。そうすれば、違和感を覚えたときや息苦しさを感じたときには、仮面を外すこともできるので。

あと、日々の生活や仕事の中でモヤモヤや違和感を抱いたときは、まず自分でその気持ちを認めてあげることが大事だと思います。私の場合、セクシュアリティも、自分の容姿や性格に対するコンプレックスも、自分で受け入れられない間、他人から隠そうとしている間はずっとしんどさがありました。

自分の中にある一見ネガティブな要素や、「妬み」「焦り」「弱さ」「ずるさ」といった気持ちと向き合うのは、最初はしんどい作業ですが、それらを認めると、完璧ではない自分を受け入れられるようになるし、はるかに楽に生きられるようになります。

なお、私は嫌な気持ちになったりしたときには、絶対に人に見られないノートに生々しい感情をすべて書き出します。頭の中に留めておくとネガティブな感情がどんどん膨らんでしまうので、とにかく文字にして外に出す。これもある意味、「モヤモヤした気持ちを一旦認めてあげる」作業なのかもしれません。

――最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?

もし「やりたいことがあるのに、何もやっていない」という人は、まずは今、無理なくできることから始めるといいかもしれません。いきなり大きなことを始めるのは、時間もお金もエネルギーも必要なので。
また、「やりたいことを見つけたい」という人は、子どものころに好きだったことを思い出してみたり、今の生活の中で少しでも楽しいと思えることを突き詰めてみたりするといいと思います。やりたいことを絶対に見つけなければいけないわけではないけど、やりたいこと、夢中になれることがあると、人生が楽しくなるし、それがもしかしたら自分らしいはたらき方につながるかもしれませんよね。

つらい時間もいつかは必ず過去になります。私も時間はかかりましたが、今では完璧じゃない自分も、回り道ばかりしてきた人生も、全部ひっくるめて愛おしく思えるようになりました。あなたにもきっと、そんな日が来るはずです。

(「スタジオパーソル」編集部/文:間宮まさかず 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:神田佳恵)

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ライター/作家間宮まさかず
1986年生まれ、2児の父、京都在住のライター・作家。同志社大学文学部卒。家族時間を大切にするため、脱サラしてフリーランスになる。最近の趣味は朝抹茶、娘とXGの推し活、息子と銭湯めぐり。
著書/しあわせな家族時間のための「親子の書く習慣」(Kindle新着24部門1位)

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