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かつて『火の鳥』の編集者を務めた男は、タネを売り命の尊さを説く
埼玉県飯能市に、知る人ぞ知る「野口のタネ/野口種苗研究所」という種屋さんがあります。同店が扱うのは、「固定種」という昔ながらの種。品種改良を通じて人為的に生み出された種とは違い、「自然」との関わり合いの中で生まれてきた種なのです。野口のタネには、その貴重な固定種を求め、全国から足を運ぶ人があとを断ちません。
そんな野口のタネを経営するのは、三代目の野口勲さん。なんと彼は、天才漫画家・手塚治虫さんの担当編集者を経て、実家の種屋を継いだという変わったキャリアの持ち主。編集者と種屋という一見かけ離れた2つの仕事ですが、「どちらもやっていることは同じだよ」と野口さんは話します。
自分の信じる価値観を貫き、将来に引き継いでいくこと。野口さんの人生をかけて取り組んできた仕事の話に耳を傾けてみます。
手塚治虫の漫画に夢中だった青年は、大学を辞め虫プロへ
埼玉県飯能市にある商店街の種屋の息子として生まれた野口さんは、物心ついたころから手塚治虫さんの漫画に夢中でした。多作で知られる手塚漫画のすべてに目を通すべく、商店街の子どもたちと分担して、手塚治虫さんが連載していた漫画雑誌を買い集めていたそうです。野口さんは「おもしろブック」、乾物屋の息子は「少年」、洋服屋の息子は「少年クラブ」いうように、それぞれが買った漫画を持ち寄っては読み耽ける毎日。
「手塚治虫の漫画は何回でも読める。そして、読み直すたびに新しい発見がある。漫画家はたくさんいましたが、彼はとにかく別格の存在でした」
手塚治虫さんの漫画を愛読して育った野口さんは、漫画雑誌の編集者になるべく、大学では文学部へ進学することに。しかし、大学生活は野口さんにとって退屈なものでした。
そんなある日、何気なく読んだ記事が野口さんの運命を大きく変えます。それは「サンデー毎日」に掲載された手塚治虫さんのインタビュー記事。そこには、アニメを中心に事業を行ってきた「虫プロ」が「出版部」をつくり、漫画の出版事業をスタートさせることが書かれていました。新聞広告で社員募集を見つけた野口さんは、すぐさま応募。晴れて面接が決まりました。
しかし、募集をしていたのは虫プロの「出版部」ではなく「資料部」。アニメのセル画を保管し整理する仕事だったのです。そうと知らずに応募してしまった野口さんは面接の場で「出版部に入りたいので辞退します」と伝え、一時は虫プロの入社を諦めます。
その度胸と漫画に対する熱意が面接官に伝わっていたのか、数カ月後に出版部の欠員が出ると、虫プロから直々に声がかかり、出版部の社員として入社が決まりました。あこがれの手塚治虫さんのそばではたらくことができるチャンスが舞い降りた野口さんは、迷うことなく大学を自主退学。漫画編集者としての道を歩むことになります。
「親父と一緒に中退の届けを出しに行ったら、学生部長に『今まで中退した学生をいっぱい見てきたけど、お前みたいに楽しそうに辞めていくやつは初めてだ』と言われましたよ」
最初の仕事はただひたすらに原稿を待つ「手塚番」
虫プロの出版部に入社した野口さんの担当は「手塚番」。たくさんの漫画雑誌に連載を持つ手塚治虫さんの原稿を受け取るために、手塚邸に泊まりこんで、ただひたすら原稿の完成を待つ、という仕事でした。野口さんが入社した3月25日は、偶然にも月刊誌の締め切りが重なる大切な日でした。野口さんは、初日から早速手塚邸に泊まり込むことに。
そして、事件はその日の夜に起こります。「今日中に原稿をもらうんだぞ」と上司からの指示を受けた野口さんは、同じく原稿を待っている他社の編集者数名とともに、手塚邸で原稿が描き上がるのを待っていました。
そこへ現れたのが、雑誌「冒険王」の阿久津信道さん。手塚漫画でも悪役のモデルになるほど怖くて有名な編集者でした。彼は「話があるから廊下に出ろ」と野口さんを呼び、廊下で胸ぐらをつかんで怒鳴りました。「他社の編集者が待っているのに、虫プロの人間が原稿を頼むとは何事だ!ほかのお客さんに迷惑をかけないよう、お前は待っていろ!」と言われたのでした。驚いた野口さんは、一足先に帰宅していた上司に電話をすると「待つのが仕事」と一言。結局、他社の編集者全員が完成原稿を受け取るのを待ってから、野口さんはやっと原稿を受け取ることができました。
「出版社の編集者は手塚先生にとってはお客さま。だから原稿の催促をされても無下にはできない。だから、虫プロ出版部の原稿は後回しになるんです。となると、黙って原稿を待つしかないんですよ」
その後、野口さんが調べると、なんと手塚治虫さんは当時「冒険王」に連載をしていなかったことが判明しました。
「あとから分かったんだけどね、手塚先生と阿久津信道が結託してぼくをおどかしていたんですよ。そうやって、ただひたすら原稿を待つだけの編集者、つまり理想の『手塚番』に育てようとしたんだね」
手塚治虫にすすめられた「お見合い」
その後も野口さんは、昼も夜もなく「手塚番」として原稿を待ち続けます。ひと月に20日以上も手塚邸に泊まり込むほど多忙な日々。プライベートの時間などなく、大学時代からお付き合いをしていたという恋人とも当然疎遠になっていってしまいます。なんとか時間を見つけてデートの約束をしても、徹夜続きの睡眠不足で寝坊して、恋人を池袋駅で何時間も待たせてしまうなんてことも。やがて野口さんはふられてしまいます。
「彼女と結婚したいから早く稼げるようになりたいと思っていたんだけど、手塚番になった途端に1ヶ月に1度も会えなくなっちゃって。仕方ないよね」
どこからか野口さんの失恋話を耳にした手塚治虫さんは、ある夜、落ち込む野口さんに声をかけました。恐る恐る話を聞きに行くと、なんと、20歳の野口さんに「お見合いしませんか?」と言うのです。
「手塚先生が仲人をした撮影課長のご両親から『妹を虫プロで一番いい人とお見合いさせてほしい』と頼まれたそうでなんです。捨てる神あれば拾う神ありで、手塚先生にそう言ってもらえるなんて、幸せものだなと思いましたね」
失恋の傷も癒えない野口さんはそのお見合い話をお断わりしましたが、「そうですか。でも、野口さんが結婚するときは、必ず仲人してやるからね」と言ったそうです。
仕事で褒められた記憶はないと話す野口さんですが、生活のすべてを捧げて手塚番を務め、しっかりと手塚治虫さんからの信頼を勝ち得ていたのでした。
手塚大先生に土下座をさせてしまった!
負けず嫌いで人に弱みを見せない性格で知られる手塚治虫さん。けれど、そんな彼が、一度だけ野口さんに土下座をしたことがあります。それは、野口さんが手塚番兼、編集者として名作『火の鳥』の第一回目の担当をしていたときのことでした。
当時の虫プロは経営難に直面しており、ナーバスになっていた手塚治虫さんは、新たに構えた仕事場に編集者が足を踏み入れないように厳命していたそうです。
予定していた締め切り日を過ぎ、これ以上待てなくなった野口さんは手塚治虫さんの仕事場に電話をかけて原稿の催促をすることに。朝から何度かけても通話中。夕方にやっと電話がつながりました。しかし、ここで行き違いが起きてしまいます。
「先生の原稿は進んでいますか。電話が繋がらなくて心配していました」と野口さんが伝えたところ、電話を受けたチーフアシスタントさんは「『朝から仕事しないで電話ばっかりかけているんじゃないか』と野口さんが言っています」と手塚治虫さんに伝えたのです。
それを聞いた手塚治虫さんはアシスタントから受話器をうばい「俺は天下の手塚治虫だぞ!てめえみたいな若造にとやかく指図されてたまるか!」と、ものすごい剣幕で怒鳴りたてたのです。
ガチャンと電話を切られた野口さんの目には自然と涙が浮かんできました。これ以上原稿を遅らせることはできないと考えた野口さんは、意を決して、翌朝手塚治虫さんの仕事場に向かいました。
「先生、来てしまいました」。野口さんがそう伝えると手塚治虫さんは「来ちゃいましたか」と一言。そうして、仕事場に迎え入れると手塚治虫さんは黙って原稿に向き合い始めました。
「それからはもう飲まず食わず、休みなしで描き続けてくれましたね。手塚番をずっとやってきたけど、あんなに早く原稿を描き進めるのを見たことありませんでした。真っ白い原稿用紙に描いては、どんどんアシスタントに指示を出していくんですよ」
アシスタントから原稿を受け取った手塚治虫さんが最終確認を行い、その原稿にマル印を入れます。このマル印は、原稿が完成したというサインです。朝から描き始めた24ページの原稿が仕上がったのはその日の夕方。驚くべきスピードです。
原稿を確認した野口さんがお礼を言うと、横になって休憩をしていた手塚治虫さんは、立っている野口さんの足元に両手をついて大きな声で「こちらこそありがとうございました!」と言ったのです。
「あの手塚治虫が、こんな若造に土下座をしたんですよ。とんでもないことをさせちゃったなと思いましたね。今思えば、手塚先生も僕に対して申し訳ないと思っていたのかもしれないですね。原稿を待たされても怒鳴られても、こういうところがあるから憎めないんですよ」
編集者を辞め、実家の種屋を継ぐことを決めた理由
その後、野口さんは当時の上司と意見が合わずに虫プロを退職し、ほかの出版社に転職することになります。虫プロを離れたものの、手塚治虫さんたっての希望で「手塚治虫全集」の制作に関わったり、新たな漫画雑誌の立ち上げを行なったりと、変わらず漫画編集者としてのキャリアを歩んでいきました。
そうして漫画編集者としていくつかの会社を渡り歩いた野口さんでしたが、30歳を目前に「編集の仕事には見切りをつけよう」と考えるようになっていました。その理由は「テレビで人気の作品を漫画化しよう」という業界の風潮に嫌気がさしてしまったからだといいます。
野口さんは手塚番を務めるのと並行して、漫画雑誌の編集者として才能のある新人作家の発掘にも力を入れていました。雑誌の投稿欄に送られてきた無名の作家の作品であっても、おもしろければ大きく取り上げる。むしろ、誰も見たことのない新たな表現を世に広めることこそが、編集者の役割だと考えていたのです。そうした姿勢を貫いてきた野口さんにとって、人気作品の焼き直しをするような仕事は決して納得のいくものではありませんでした。
「漫画雑誌の編集長に、当時流行っていたテレビ番組に似た作品を新人漫画家に描かせろって指示されたんですよ。そんなことやってらんないなって」
ちょうどそのころ、実家のお父さんから「種屋の仕事を手伝ってくれ」という連絡をもらった野口さんは、地元である埼玉県の飯能に帰り、「野口のタネ」を継ぐことを決めました。
店舗のすぐ裏にある「漫画部屋」には、手塚治虫さんの漫画や野口さんが関わってきた雑誌のほか、近年発表された国内外の作品が並んでいます。79歳になった今でも、話題になった漫画作品にはなるべく目を通すようにしているのだそう
1990年代にインターネット販売を開始した、先進的な種屋
しかし、実家に帰った野口さんを待っていたのは、大規模開発による故郷の変貌と、流通 革命による商店街の衰退でした。当時は日本各地で大規模開発が進んでいた時代。飯能の町には大型スーパーやホームセンターが次々オープンし、種屋のお客さんは減る一方だったのです。
「町の東西南北にホームセンターができちゃってね。そうなると、わざわざ種や農業資材を買いに狭い商店街に来るお客なんていなくなりますよ。売り上げは良かった頃の半分以下に落ち込んでしまいましたね」
家賃の支払いにも追われ、銀行に借金を申し込む日々。メーカーへの返済にあてるために、 手塚治虫展で購入した貴重な肉筆画を売却したこともあったそうです。
そんな野口のタネに転機が訪れたのは1990年代。野口さんは50歳を機にMacのパソコン を購入。やがてインターネットに未来を感じた野口さんは、独学で「野口のタネ」のホー ムページを作成。パイを小さな町から全国に広げようと、インターネット販売を始めます。
EC自体が普及する前だったため、競合はほとんどおらず、雑誌で紹介されたことも手伝って野口のタネには全国から注文が入るようになります。着実にECでの販売を伸ばし、やがて店舗での売上額と肩を並べるようになりました。
ECでの売上が安定した野口さんは、思い切って家賃のかかる商店街の店舗を手放し、倉庫として使っていた場所に店舗を移転します。同時に農薬や肥料やビニール等の販売をやめ、種だけを専門にネット販売する営業形態に移行したのです。
野口のタネが「固定種」にこだわる理由
こうして、野口のタネはそれまでの経営体制から大きく舵を切り、「固定種」だけを取り扱う種屋して業界内での地位を築いていくことになります。当時も現在も「固定種」だけを取り扱う種屋は、、日本全国を探しても野口のタネ以外には無いそうです。
ここで少しだけ「固定種」について説明をします。種には「固定種」と「F1種」があります。
「固定種」とは、何世代にもわたって種を採り続け、同じ性質を受け継いできた種。その土地ならではの気候や風土に順応したものを採種していくので形や生産量は安定しません。しかし、収穫した野菜はとてもおいしく、自家採種によって品種をつないでいくことができます。
一方市場に流通する野菜は、ほとんどが「F1種」のもの。異なる品種の親同士を掛け合わせ、効率的に育てられるよう品種改良された雑種です。形がそろっていて、育ちが早いため、「商品」としては扱いやすい。しかし、F1種の野菜から収穫した種は親と同じような形や性質になることがないため、品種をつないでいくことはできません。
野口のタネが「固定種」の種にこだわって販売するようになったのは「原種コンクール」という種の品質を競う大会での出来事がきっかけでした。
昭和40年代、当時野口さんが編集者としてはたらきながら、空いた時間に野口のタネの仕事を手伝っていたときのこと。野口のタネは「みやま小かぶ」という固定種のカブを「原種コンクール」に出品していました。
そのころすでに、種苗業界ではF1の種が主流となっており、固定種のカブを出品したのは野口のタネだけでした。原種コンクールは、畑に種を蒔き、育った野菜の形を見て、大きくそろったものを競うため、F1の品種が高い評価を受け、みやま小かぶは受賞を逃してしまいました。
コンクールの結果発表が終わると、出品した業者は出品されたものの中から好きなカブを持ち帰ることができるのですが、その際に驚くべきことが起こります。なんと、ほかの種屋の社員がこぞって持ち帰ったのは、優勝したカブではなく、野口のタネのみやま小かぶだったのです。
「形がそろっているF1種より、固定種のほうが食味がすぐれていることを種屋は知っているんですよ。『F1の株なんてまずくて食えたもんじゃねえからな』『まったくまったく』と言いながら、みんなみやま小かぶを拾っていましたね」
そのとき、野口さんは野菜が味じゃなくて見た目しか評価されない時代になったと感じ、ゾッとしたそうです。同時に店を継ぐときは固定種の種だけを売ろうと決意したのです。
編集者も種屋も「種を見つけ、育てていく仕事」
現在、野口さんは固定種の販売を続けながら、固定種の魅力や種からはじまる食の安全について日本全国で講演活動行ってきました(コロナ禍で現在は中断)。半世紀近く種屋を続 けてきた野口さんが一貫して訴えているのは、種を採り、命をつないでいくことの大切さ です。
「野口のタネでは『うちで種を買ったら2度と同じ種は買わずに、種を採ってください』 と言っています。種採りできる環境が少なくなり、固定種の種は、世界中でどんどん減っています。残っているわずかな種を少しでも広く多くの人に届けるため、お客さんの家庭菜園では自分で種を採って野菜の命をつないでいってほしいんです」
編集者から種屋になった野口さんですが、その根底にある考えは変わりません。それは自分が大切にしたい価値観を守り、育て、未来に伝えていくということです。
「原石の才能を見つけ、育て、それを将来に引き継いでいくのが編集者の仕事。いまや日本の漫画やアニメが、世界で評価される時代になりましたが、ぼくもその一役を少しばかり担ったという自負はありますね。
種屋の仕事も同様ですよ。いまある貴重な固定種の命を絶やさずに、少しでも将来に残していきたいと思っているんです」
編集者として種屋として、野口さんは一貫した姿勢で仕事をまっとうしてきました。人生を通して大事に育ててきた種は、今後もさまざまな場所で芽吹き、命をつないでいくことでしょう。
(文:高橋直貴 写真:宮本七生)
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