迷ったら「おもろい」ほうを選べ。木桶職人に弟子入りした醤油屋の生き様

2024年2月21日

江戸時代から続く、日本伝統の木桶仕込みの醤油づくり。近年、「手間がかかる」「採算が取れない」という理由から木桶仕込みは減少の一途を辿っていますが、約150年変わらず木桶仕込みの醤油を造り続けている蔵元が香川県・小豆島にあります。それが、ヤマロク醬油です。

代表の山本康夫さんは伝統的な製法を受け継ぐだけでなく、試行錯誤の末に「先代を超える味」を生み出し、独自の経営戦略で危機的な状況にあった同社の経営をV字回復させました。

山本さんが取り組んでいるのは醤油造りに留まりません。今ではほとんどいなくなってしまった木桶職人の技術継承のために「木桶職人復活プロジェクト」を立ち上げ、自ら製法を学び、その魅力をPRしているのです。

蔵元の代表である山本さんが、なぜ自ら木桶造りを学んだのでしょうか? その背景には「次の世代に本物の醤油を残すために、おもろいことを誰よりも早くやる」という確固たる哲学がありました。

「値段しか見ない食品づくり」を辞めた日

ヤマロク醤油の5代目として小豆島で生まれ育った山本さんが実の父である4代目から「儲からんから後を継がんでもええ」と言われ、最初に選んだ就職先は小豆島にある佃煮メーカーでした。

「小豆島ではたらきたいと考えていたのですが、島での就職先は素麺か佃煮のメーカーのどちらか。佃煮メーカーはうちのひいじいさんが造った会社ということもあり、就職先はそこに決めました」

営業職として採用され、最初に配属されたのは小豆島ではなく大阪。都会の大手スーパーなどに自社製品の営業に回る中で、山本さんはある現実にぶつかります。

それは、大手小売店では醤油の品質ではなく、値段やボリュームが重視されるということ。無添加で美味しい商品をアピールしても、バイヤーの目には留まらない。スーパーで消費者が選ぶのは本物の美味しい食品ではなく、添加物が多くとも安価な食品ばかり。そんな食品業界の構造に嫌気がさし、山本さんは佃煮メーカーを退職することを決意します。

「7年間営業をやってみて、こんなことはもう辞めようと。バイヤーから『売ってほしい』と言われるような“本物”の美味しい食品を造り、消費者に広く届けたい。心底そう思ったんです」

そして、退職を決意すると同時に頭に浮かんだのは実家のヤマロク醤油のことでした。

伝統の木桶仕込みの醤油を造り続けてきたヤマロク醤油は、当時から東京の高級スーパーなどで取り扱われていました。ヤマロク醤油であれば、“本物”の食品を多くの人に届けることができるかもしれない。

「実家の蔵を継ごう」

そう決めた山本さんは、佃煮メーカーに退職届を出し、小豆島に帰ることにしました。

「地獄」を抜け出し、経営をV字回復

晴れて小豆島に戻った山本さんを待っていたのは、ヤマロク醤油が直面している厳しい経営状況でした。

「決算書を見て驚きました。大変なことは元々分かっていたのですが、『よく潰れないでいられたな』と(笑)。親父も母もほとんど給料をもらっておらず、会社にお金はなく借金だけが山積みの状態だったんです」

売上を増やさないと会社が潰れてしまう。そんな危機感を持った山本さんは大胆な行動に出ます。なんと、ヤマロク醤油に入社した翌日に、先日まで務めていた佃煮メーカーに営業へと向かったのです。

「『いくらなんでも早すぎるわ!』と社長に笑われましたね。でも、会社員時代にぼくが回っていたお客さんのところに営業したらいいと言ってくれて。ありがたかったですね。すぐに営業しに行きましたよ」

東京と大阪の企業を回り、反応は上々。山本さんは「頑張れば売れるかもしれない」という手ごたえを得ました。しかし、そこで大きな問題があることに気付きます。

ヤマロク醤油の商品は、木桶の数によって生産量が決まってしまうため、大量に増産することができなかったのです。「どうしたものか」と途方に暮れた山本さんでしたが、すぐに新たな販売の方法を思いつきます。

それは、大量に造る必要のある業務用製品ではなく、より小さなパッケージ商品を造ること。そして、それを卸先ではなく、消費者に直販することでした。それによって、総生産量は変わらずとも、より利益率の高い商売ができると考えたのです。

何事もすぐにアクションを起こす山本さん。これまでヤマロク醤油の商品を買ってくれた顧客や、蔵に見学にきてくれた観光客にダイレクトメールで商品の案内を送り、人海戦術で注文を増やしていきました。

また、「パソコン好きだった」4代目が時代に先駆けてECに取り組んでいたこともその追い風になります。“本物”の醤油を求める全国のお客さんからの注文が相次ぎ、ヤマロク醤油の経営は段々と回復していくことになります。

ヤマロク醤油の代表的な商品である「鶴醤」(つるびしお)。一般消費者向けに小パッケージ化し、ブランディングにも力を入れている

醤油造りもビジネスも自分の頭で考えなければ改善しない

ECでの販売戦略が地元のメディアや新聞にも取り上げられ、経営が軌道に乗りはじめたころに、ヤマロク醤油の名が一気に広まる出来事がありました。

それは全国放送の人気テレビ番組でヤマロク醤油の商品が取り上げられたこと。なんと放送後1週間で、例年の半年分の注文が殺到。食品業界では、一時的なブームによって集まったお客さんはすぐに離れてしまうとも言われています。しかし、“本物”の美味しさでリピーターを獲得してきたヤマロク醬油は違いました。爆発的に伸びた売上はほとんど売り下がることなく、新たなリピーターを獲得していったのです。

順風満帆のように見えたヤマロク醤油でしたが、その直後に大きな危機が待ち受けていました。ブームがひと段落したころ、父親である4代目が急病で倒れてしまったのです。一命は取り留めたものの集中治療室に長期入院しなければならないほどの大病。当然、仕事をすることはできません。

「まさに地獄だった」と山本さんはその当時を振り返ります。毎朝5時半のフェリーに乗って高松の病院で付き添い、夜中に小豆島に帰り、醤油の製造や出荷作業をする日々。

何より深刻だったのは、4代目から醤油の製造方法を伝授されていなかったことでした。引き継ぎもなく、突然独りでその重責を担うことになってしまった山本さんは、手探りで醤油造りを行うことに。

「ボイラーの説明書を見ながら油に火入れをして、ペロッとなめて味を確かめたり、仕入れ先に電話して『親父はどうしてました?』と聞いて原材料の注文をしたり。もう、本当に見様見真似ですよね。独学で醤油づくりを続けていったんです。

造り方を知らないもんだから、親父の仕事を参考にしながらも、原材料の配合を自分で変えてみたり試行錯誤していたんです。そしたらね、醤油が美味しくなったんですよ(笑)。結局は教えてもらうのではなく、自分でやってみることが大事なんだと思いましたね」

山本さんが「地獄」と表現するもろみまぜの作業は、40度を超える樽の上で手作業で行われている

山本さんが小豆島に帰ってきてからの22年間、ヤマロク醤油の売上は右肩上がりで成長を続けているそうです。醤油造りはもちろん、経営に関しても「素人同然」からスタートした山本さんはどのように経営を改善していったのでしょうか?その秘訣をたずねると、「自分で考えること」と即答します。

「昔から『なんでだろう』と頭の中で考える癖があるんです。車を運転しているときに看板を見かけたら『なぜあの位置にあって、あの色なのか』と考えてみる。そうやって日々考えていると見えてくるものがあるし、自分で試してみようってマインドになるんですよ。経営についても、経営コンサルティング会社のノウハウを参考に、自分なりにアレンジを加えて会社に取り入れているんです。自己流なんですけどね」

山本さんは仮説と検証を繰り返しながら、独自の経営戦略を身につけていったのです。

木桶職人に弟子入りしたのは「おもろい」から

2011年の秋。山本さんは新たに「木桶職人復活プロジェクト」を立ち上げました。きっかけは、商品の増産のために日本で最後の木桶職人に木桶を注文したときに「いつまで続けられるか分からない」と言われたこと。手間とお金のかかる木桶仕込みで調味料を造る蔵元が減ったことで、木桶職人も減少していたのです。

腕のいい職人の造る木桶の寿命は150年とも言われている

これでは醤油づくりに必要な木桶づくりの技術が途絶えてしまう。そう考えた山本さんは、新たに3本の木桶を発注し、その木桶を「自分で造りたい」と伝え、同級生の大工と一緒に木桶職人に弟子入りをすることにしました。

事前に一度棟梁の仕事を手伝いに行き、桶の周りに巻かれている竹の輪「箍(たが)」の編み方を教わりましたが、もちろん素人同然。そんな状態で修行はスタートしました。

「目の前で師匠が箍を編んで、竹を渡されて『編んでみ』って。すぐに『どこ見おったんや』って怒られて。発注主なのになんで怒られなきゃいかんのかと腹を立てながら、必死で編んだんです」

数日間の直接指導を終え、師匠からは木桶づくりの方法が書かれた手書きの紙を受け取りました。しかし、当然それだけでは木桶づくりを理解できるはずもありません。

小豆島に帰り、また試行錯誤の日々が始まります。そして、山本さんが納得のいく木桶が造れるようになったのは2020年のこと。修行に出た日から約8年の歳月が経っていました。

それにしても、山本さんはどうして自ら弟子入りをしたのでしょうか?木桶職人を増やすことが目的であれば、自ら学ばずとも支援の方法はあったはずです。そんな疑問をぶつけると、山本さんは「おもろいから」と、あっけらかんと笑います。

「昔からすべての事柄を、おもろいかおもろないかで決めることにしているんです。簡単でもおもんないことって続かない。自分で木桶を造るのは、大変だけどおもろいじゃないですか」

山本さんは、さらに続けます。

「元近江八幡市長の川端 五兵衛が書いた本『まちづくりはノーサイド』に『オンリーワンは真似される。ナンバーワンは抜かれる。けれど1番最初にやった事実はずっと残る』という言葉がある。ぼくはこの言葉にビビッと来たんです。おもろいことを一番最初にやろう。それが座右の銘なんです」

すべては、木桶仕込みの「本物の醤油」を残すため

「おもろいから」と言いながらも、無計画なわけではありません。全てはヤマロク醤油の経営理念である「次の世代に木桶仕込みの醤油を残すこと」を実現するため。山本さんはそう言い切ります。

「目的がぶれたらだめなんです。経営理念に関係ないことはやりません。いつも経営理念を頭に入れて行動しているんです」

木桶仕込みの醤油を残すためには桶を造る職人がいる。職人が技術を継ぐためには市場を大きくする必要がある。それは、すべて「木桶仕込みの醤油を残すため」。山本さんの行動は突飛なようでいて、いつでも一貫しているのです。

小豆島の醤油の蔵元から世界を目指す

木桶職人復活プロジェクトには現在、味噌、お酒、お酢、みりんなど木桶仕込みの蔵元、木桶調味料を応援したいバイヤーや料理人、会社員の方などが参加しています。彼らが小豆島に集い、木桶を造り、その魅力をPRするというのが、その活動です。

3年半前にスタートした木桶職人復活プロジェクトのサミットで、山本さんは「世界の醤油シェアの1%を取ろう」と高らかに宣言しました。

「木桶仕込みの醤油は、醤油全体の流通量のたった1%だけなんです。そのパイを奪い合うのではなく、みんな協力して消費量を2%に増やしたい。そのために桶を造る職人を育て、醤油の販売量を増やしていかなければいけない。

醬油メーカーはこれまで地方が商圏だったけど、人口が減ってどんどん市場が縮小していく。小さい醤油メーカーが生き残るのはもう世界を目指すしかない」

その後、29社でコンソーシアム(共同事業体)を組織し、一般社団法人化した「木桶職人復活プロジェクト」は日本政府の農水産物輸出を促進するための補助金を受けて、海外向けの木桶醤油のブランディングと情報発信をはじめました。

「海外向けの展示会に大きな木桶を持っていくと『あれ何?』と聞かれるんですよ。『ぼくらが造ったんです。触っていいですよ』。そこでつかみはオッケーじゃないですか。まずは『おもろい』って思ってもらうこと。それが今後の展開につながっていくんです」


佃煮メーカーの営業のときに感じた「本物の美味しい食品 を造り、消費者に広く届けたい」という想い。山本さんは、それを「おもろい」やり方で、海の向こうの多くの人に届けようとしています。

(文:荒田詩乃 写真:ヤマロク醤油提供)

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