『ちゅらさん』俳優→27歳で休業した理由。小橋賢児「自分を押し殺していた」どん底”4畳半”から万博を手掛けるまで

2026年5月27日

『スタジオパーソル』では、「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

今回お話を伺ったのは、クリエイティブディレクターとして、世界最大級の音楽フェス『ULTRA JAPAN』や東京2020パラリンピック閉会式の総合演出、2025年大阪・関西万博の催事企画プロデュースなどを手がける小橋賢児さんです。

小橋さんのファーストキャリアは、8歳で入った芸能界。NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』をはじめ数々の人気ドラマのメインキャストを務めてきましたが、27歳で突然の活動休止を発表しました。

順風満帆だった俳優のキャリアを手放し、なぜゼロから未知の世界にチャレンジしたのでしょうか?「このままでいいのか」と思いながらも一歩を踏み出せない。そんなはたらく人に向けて、小橋さんのキャリアから「want to」に素直に生きるためのヒントを伺いました。

8歳で芸能界、15歳でブレイク。「want to」に正直だった少年時代

──小橋さんは、8歳で芸能界デビューしたそうですね。きっかけを教えてください。

当時好きだったバラエティ番組を見ていたら、「新レギュラー募集」というテロップが流れて。それを観覧希望者の募集だと思い込んで申し込んだのがスタートです。

──では、芸能界に興味があったわけではなかった?

はい。そのころの夢は「宇宙飛行士」でした。もっと言うと、自分の作ったロケットで宇宙に行きたい、と思っていたんです。そのために、時間があれば近所の工場を回って落ちている部品を拾い集めていました。

他にも、あまり裕福な家庭ではなくて習い事にも通えなかったから、近所の大人の草野球チームに混ぜてもらったり、最寄りの交番のお巡りさんと仲良くなったり(笑)。芸能界に入る少し前に、小学生一人で電車とバスを乗り継いで、無料で見られるテレビの公開収録に行ったこともありました。

振り返れば、好奇心旺盛というか、自分の「want to」という「〜したい」気持ちに正直な子どもでしたね。レギュラー募集に応募したのも、その延長線上でした。

──好奇心から入った芸能界はどうでしたか?

最初のころは、「ここは芸能界だ」って意識はほとんどありませんでした。ぼくが出ていたのは、子ども向けのバラエティ番組。大人たちと本気でゲームして、素直に楽しんでいましたね。近所の大人たちと草野球をしている感覚と、ほとんど変わらなかったです。

──では、楽しんでお仕事をされていたのですね。

ただ、事務所に入ってオーディションを受けるようになると、空気がまったく違いました。

周りは劇団出身の子たちが多くて、みんな小さいころから演技の訓練を積んでいる。審査員に「笑ってください」と言われたら、パッと笑顔を作れる。「泣いてください」と言われたら、ちゃんと泣ける。ぼくにはそれができなかったんです。面白くないのに笑うということが、どうしてもできなかった。結果として、芸能界入りして数年間は、ほとんど仕事がない時期が続きました。

──しかしその後、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』『若葉の頃』『ガラスの仮面』、そして『ちゅらさん』など、次々に人気ドラマのメインキャストに抜擢されます。

風向きが変わったのは、映画監督の岩井俊二さんとの出会いでした。当時の現場は、「子どもは黙って大人の言うことを聞いていればいい」という空気が当たり前で、自分がのびのびする感覚をどんどん失っていたんです。でも岩井さんは、子どものぼくと同じ目線に立って、自然体の姿を引き出そうとしてくれた。はじめて「お芝居ってこんなに楽しいんだ」と思えて、そこから少しずつ仕事が増えていきました。

そして15歳のときに、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』のオーディションに合格。雑誌やドラマにも次々と出させてもらえるようになって、1日に段ボール2箱ほどのファンレターが届くようにもなりました。

──まさに、人気俳優への道を順調にかけあがっていったのですね。

岩井さんのおかげで芝居の楽しさを知ることができて、いろんな役を経験させてもらいました。俳優として、充実した時間をすごせましたね。特にNHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』に出演したころは、周囲から「すごいね」と言ってもらえることも増えました。

ただ、素直に喜べない自分がいたんです。本当の自分で生きていないのに「すごい」と言われても、何がすごいのかが分からない。評価されているのは俳優としてのぼくであって、本当のぼくではない、という感覚がずっとあったから。

──本当のぼくではない、とはどういうことでしょう。

注目が集まるにつれて、「芸能人なんだから、こういう場所に行かないほうがいいんだろうな」「こういうことはしないほうがいいかもしれない」と、感じる場面が増えていったんです。

たとえば、当時好きな音楽やファッションがあったのですが、「世間が“俳優・小橋賢児”に求めるイメージと違うものは、やめたほうがいいかもしれない」とか。一度そう思うと、「じゃああれもダメかも、これもダメかも」といろんなものを疑うようになって。

そうすると、何かに興味を持つことそのものが億劫になってくるんですよね。気になるものがあっても、俳優の自分がそれをやってもいいか分からない。だったら、最初から何にも興味を持たないほうが楽だな、と。

芸能界に限らず、きっとどんな仕事でも起こりうることだと思うのですが、立場や周囲の期待を気にして、自分の直感に蓋をするようになってしまったんです。子どものころはあんなに「want to」に突き動かされていたのに、いつの間にかまったく見えなくなっていました。

「押し殺していることに気づいたら、苦しくて」逃げた結果取り戻した心。でも……

──「want to」があっても実現できないから、「want to」を押し殺す。その状況は、かなりつらかったのではないでしょうか。

20代の前半ごろまでは、人目につきづらい個室で、業界の知り合いと集まってお酒を飲む日々を送っていました。自分を押し殺していることに気付きたくないから、現実から目を背けるようにすごしていたんです。

でも、20代の半ばくらいかな。ふと、30代の自分を想像したときがあって。このまま芸能界にしがみついていれば、それなりのポジションやお金は得られるかもしれない。でも、自分を押し殺して手に入れたそれは、自分のものと言えるんだろうか。そう思ったら、急に自分の置かれている状況が怖くなったんです。

──それから、状況を変えようと動いたのですか?

はい。ただ、すぐに大きく動いたわけではありません。まずは、会う人を変えました。業界の中だけで完結していた交友関係から抜け出して、いろんな業界・職業の方と会うようにしたんです。

そして、あるクリエイターと沖縄のビーチに行ったとき。新月で街明かりもない空に、流れ星がひっきりなしに流れていたんです。ぼくはそれを、ただ眺めているだけだった。でも同じ景色を見ていたはずの彼は、それからしばらくして「あの星空からインスピレーションを受けたんだ」と、音楽と星空をかけ合わせたゲームを発売したんです。想像を現実に変えていく姿にワクワクしたのと同時に、自分の感性が死にかけていることにショックを受けました。

「ぼくは、もっと知らない世界を見なきゃいけない」

そう思って、26歳のときに一人でネパールに行きました。

──なぜ、ネパールを選んだのでしょうか?

どんな場所か、どんな出会いが待っているか、まったく想像がつかない未知の場所に行ってみたかったんです。

そして旅の途中で、偶然同い年の男性と出会いました。彼は、3畳ほどの部屋で奥さんと娘さんと暮らしていて、「娘を学校に行かせるお金がないほど貧しいんだ」と話していました。でも、出会ったばかりのぼくに、すごく親切にしてくれて。家に招待してごちそうしてくれたり、「いい景色が見られるから」と連れて行ってくれたりしたんです。

彼は「今」を全力で生きている。一方でぼくは、戻れない過去やまだ見ぬ未来に囚われて、「今」をないがしろにしている。日本に帰ってきたら、それまで蓋をしていた感情が一気に溢れ出してきました。これまでの環境が苦しくて苦しくて、耐えられなくて……。俳優活動を休止して、逃げるように再び海外に出ました。

ただ、あのとき逃げた先で出会ったものが、ぼくに再び「want to」の心を思い出させてくれました。たとえば、アメリカを車で横断した先のマイアミで、世界最大級の音楽フェス『ULTRA MUSIC FESTIVAL』にたまたま出くわしたとき。国も言葉も宗教も関係なく、何万人もの人たちが音楽を通じて感情をさらけ出していた。そうして旅を続けながらいろんな文化、価値観に触れていくうちに、自分が長いあいだ閉じ込めてきたものも、少しずつ溶け出していくように感じたんです。約2年間世界中を旅したことで、身についた知識と経験もある。

写真:小橋さん提供

自信を取り戻したぼくは、「今の自分ならなんでもできる!」と、日本に戻りました。今なら、want toに素直に、新しいことにチャレンジできそうだって。でも、現実は想像よりはるかに厳しかったです。

目の前のことを必死にやっていたら、次の道につながっていった

──帰国後、何があったのでしょうか。

ビジネスの相手として、全然見られなかったんですよね。帰国してしばらく経っても、仕事のめどが立たない。なのに貯金はどんどん減っていく。知人との関係はこじれ、当時の恋人からも愛想を尽かされてしまって……。

心身ともに参ってしまい、実家に引きこもって毎日寝て起きるだけの日々をすごしていました。「このままの自分で30代を迎えるのは嫌だ」と思って、自分なりに動いてきたつもりだったのに、その結果がこれ。布団にうずくまりながら、何度も「死にたい」と思いました。

──そこから、どうやって立ち上がっていったのでしょう。

ある日、病院で「肝機能障害」と告げられたんです。このまま悪化すると、命も危ないと言われて。死が現実のものとなったら、急に怖くなったんですよね。

ちょうどそのころ、30歳まであと数ヶ月というタイミングでした。いま自分は人生のどん底にいる。でも逆に、「もうこれ以上は落ちようがない。あとは上がるだけだ」と、不思議と開き直れたんです。このまま無気力な30代を迎えるくらいなら、どんなバカなことでもいいから目標を作って、人生をやり直したいって。

それで決めたのが、「30歳の誕生日を、人生最高のコンディションで迎える」ということでした。具体的には2つ。ひとつは、体を立て直すこと。久々のぼくを見て心配してくれたトレーナーの知人が、茅ヶ崎の4畳半ほどの部屋を紹介してくれて。さらに地元の大学生にも声をかけてくれて、毎日トレイルランやライフセービングを一緒にやってもらいながら、少しずつ体を作り直していきました。

もうひとつは、30歳のバースデーパーティを自分でオーガナイズすること。どん底のぼくは、トレーナーや大学生たちに支えてもらって、なんとかここまで戻ってこられた。だったら今度はぼくが、お世話になった人たちに自分から感謝を返したい。そう思って、人にもてなされるのではなくて、お世話になった人たちに自分から感謝を届ける「おもてなしの会」にしたかったんです。そのためには、自己満足ではなく、みんなに心から楽しいと思ってもらえるものを作らなきゃ、と考えていました。

──お金もない、イベント経験もない状態で、どうやって実現したのですか。

知人がお台場のホテルでイベントをやっていたことを思い出して、「その場所、ぼくにも貸してもらえないか」とお願いしたんです。このときのぼくは、イベント運営なんてやったことがないから、会場はタダで借りられると思っていたんですよね。でも後日、すごい金額の請求書が届いて……(笑)。ただ、結果的にはこれがよかった。もう後には引けない状況に自分を追い込んだことで、「なんとしてでも成功させなきゃ」と覚悟が決まりました。

そこからはもう手探りです。イベントのコンテンツを考えて、ロゴを作り、フライヤーを作り、映像作品を作り、会場内の装飾もして。仲間にも手伝ってもらいながら、なんとか形にしていきました。その結果、200人以上が集まる会になったんです。

写真:小橋さん提供

──このときのイベント運営経験が、世界最大級の音楽フェスの日本版『ULTRA JAPAN』の開催や、パラリンピック閉会式総合演出、2025年大阪・関西万博の催事企画プロデュースにつながってくのですね。

最初からイベントプロデューサーを目指していたわけじゃないんですよ。ただ、「体を治す」「感謝の会を開く」という2つの小さな目標に向かって、目の前のことを必死にやっていたら、気づいたら次の道がつながっていたんです。

バースデーパーティを一緒に作り上げた仲間たちと、「楽しかったね」「またやろうよ」と小さなイベントを企画するようになって。最初は数十人、多くても100人規模だったのが、500人、1,000人と並ぶようなイベントに育っていった。それを続けていくうちに、企業から「うちのイベントを作ってくれないか」と声がかかるようになっていったんです。

変わりたいなら、「1日1想定外」を心がける

──小さな「want to」に耳を傾けたことで、少しずつ人生が好転していったんですね。

振り返ると、そのときは「ネガティブなハプニングだ」と思っていたことこそが、「こっちだよ」と本当の自分に戻してくれていた気がするんです。俳優時代に苦しんだことも、休業したことも、病気でゼロになったことも。あのときは最悪だと思ったけれど、全部つながって今がある。ずっとハッピーな映画がないように、自分の人生にも浮き沈みがあったからこそ、今この場所にいるんだと思います。

小橋さんが総合演出を務める、東京の夜を彩る光の祭典『TOKYO LIGHTS 2026』が5/31(日)まで都庁第一本庁舎にて開催中

──小橋さんの場合は海外に出たりと、環境を大きく変えたことでハプニングが起こったり、「want to」を取り戻したりしましたよね。環境を変えるのが難しい人は、何から始めたらいいと思いますか。

ぼくがよく言っているのは、「1日1想定外」。たとえばいつもの帰り道を変えてみる。入ったことのないお店に飛び込んでみる。それだって、充分なハプニングだと思うんです。

仕事に悩んでいる人に「転職すれば?」とはよく言いますけど、仕事を変えるだけだと、同じ環境の中で場所が移っただけで、あまり変わらない気がするんですよね。それよりも、自分の「反対側」に行ってみる。苦手だと思っていたこと、ずっと触れてこなかったこと。その行動自体が大事なんじゃなくて、行動した先で生まれる新しい出会いや感情が、自分を少しずつ変えていくのだと思っています。

──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?

ぜひ「反対側」を意識してみてください。そして、少しずつでいいので「利他の感覚」も大切にしてもらえたらと思います。

ぼく自身、30歳のときに開いた「おもてなしの会」も、見返りなんて一切考えていなかったんです。ただ、お世話になった人たちに感謝を返したかっただけだった。でも結果として、あのとき出会った仲間や、必死に作り上げた経験が、今のキャリアにつながっていきました。「利他の力」は本当にあるんだなと、自分の人生を通じて実感しているんです。

利他というと、大それたことに聞こえるかもしれませんが、小さなことからでいいです。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ること。心では「譲らなきゃ」思っていても「断られたらどうしよう」とためらってしまう人も多いですよね。そう考えると、これだって立派な挑戦です。他にも、海に行ったついでにゴミを拾ってみるとか。ぼく自身もここ数年、2カ月に1回ほど全国の神社で掃除の奉仕活動を続けています。

みんな日々の生活に余裕がないから、どうしても「自分が、自分が」となってしまいがちです。何かアクションを起こすときも「これをやったら何が返ってくるのか」と期待してしまいますよね。でも、見返りを求めない行動こそが、巡り巡って自分の想像もしなかったようなラッキーや、新しい人との出会いといった「運」を運んできてくれるのだと、ぼくは思っています。

(「スタジオパーソル」編集部/文:仲奈々 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:小野澤藍)

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ライター仲奈々
フリーランスのライター。エンタメ、キャリア、ビジネス、食、インテリア、ホラーなど多ジャンルでインタビュー記事を中心に執筆中。

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