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専業主婦から銀座テーラーの社長に!男性社会を生き抜いたリーダーが取り組んできたこと
1935年に創業した高級オーダースーツの老舗、銀座テーラー。多くの洋服店が閉店に追い込まれたバブル崩壊後、営業として銀座テーラーを支えたのは、社長の妻で元は専業主婦だった鰐渕 美恵子(わにぶち みえこ)さんでした。
その後鰐渕さんは社長に就任し、上質な製品と技術を守りながら、温故知新の精神で今もなお銀座テーラーの歴史を更新し続けています。
まだ今ほど女性の社会進出が浸透していなかった当時、鰐渕さんはビジネス経験なしのスタートからどのようにして仕事に向き合い、銀座テーラーの危機を救っていったのでしょうか。未経験の職種で活躍するためのヒントや、会社を立て直すほどの原動力は何だったのかを探りにいきました。
男性社会で、仕事は回ってこない。それでもやるしかなかった
──鰐渕さんは、25歳で当時の銀座テーラーの社長とご結婚されましたよね。当時はどのような生活を送られていたのでしょうか。
結婚してから20年ほどは専業主婦をしていました。当時は今のように「結婚しながらはたらく」という価値観が一般的ではなく、女性は学校を卒業したら家庭に入る風潮がありました。ですので、私自身も主婦業に勤しんでいましたね。
──そんな中、銀座テーラーに入社されたのはなぜでしょうか。
当時勤めていた営業マンが「これからは社長の理解者が社内にいた方がいい」と主人である社長に助言をしたんです。そのときはバブルが崩壊し、主人も病気を患っていたため、会社が混乱していた時期でもありました。主人を公私ともに支える人がいた方が良いと思ったんでしょうね。私の実家はお菓子の問屋を営んでいたので、幼少期から母が商売をしている姿を見ていたこともあり、はたらくことに抵抗はありませんでした。
ですが、銀座テーラーは特に男性服を販売する仕事だったこともあり、当時、女性社員は事務員一人しかいませんでした。
──圧倒的に男性が多い環境で、しかも入社したのは社長の夫人となると、当時の社員から抵抗などはなかったのでしょうか?
そうですね、確かにどう仕事を頼んでいいものか、当時の社員の中には戸惑いがあったのかもしれません。実際に入社から3カ月経っても仕事は一向に回ってきませんでした……。
ですが、バブル崩壊とともに銀座で周りの洋服屋が淘汰されていく中、じっとしていても数字は落ちていく一方。
「生き残るためには、やらねばならぬ」という心境で、自ら営業に出ることを決意したんです。地図を持ち、名簿を作り、車で一軒一軒、門前払いを覚悟で営業をしました。正直なところ、買うか買わないかも分からない方々にスーツを売りにいくというのは、なかなかつらいものがありましたよ。
──銀座テーラーの経営が持ち直したきっかけはどんな取り組みだったのでしょう。
営業をして2年経ったころ、私は「レディース服の方が提案しやすいなあ」と考えました。女性である自分にはそちらのほうが馴染みがありますし、今までスーツを購入してくださっていた男性の奥さまや秘書の方にも買っていただけたら、同時に何着も売ることができます。
ただ、やはり社内からは「なぜレディースを作らなくてはいけないのか」「余計な口出しはしないでほしい」など、反対の声も挙がりました。今まで男性服を作っていた職人たちにレディースを作ってもらうのも一苦労でした。
──既存の社員の方々をどうやって説得されたのですか?
売り上げを上げるしかない、と思って結果を出しました。「10着分とってきました」と言えば誰も何も言わなくなる。経営に携わってからも、会社にとって何がプラスになるのかを必死で考え、決断を繰り返していました。
アメリカ一周旅行で養った「決断力」
──ご自身の決断を信じ、孤独な環境でも行動を続けてこられましたよね。決断力が身に付いた背景には、どんな原体験があるのでしょうか?
大学卒業後にアメリカを一周する旅に出たことが大きく影響していると思います。当時はまだ海外旅行が当たり前ではなく、特に女性の一人旅は珍しい時代でした。不安もありましたし、実際に予期せぬアクシデントに見舞われることもあった。それでも、世界を見てみたいという想いが勝ったんです。
旅は知らない土地に身を置き、誰にも頼れない状況で「今日はどこに行こう」「これから何を食べよう」など自分で決めなくてはいけない。経営者も同じように決断の連続です。その経験が今の私の基本を成したのかもしれません。
──世界を見てみたいと思ったきっかけは何だったのでしょう。
アメリカへ旅行する前に大阪万博でVIPコンパニオンを務めました。コンパニオンというのは今の意味合いと違い、国際的な催しなどで、来賓の案内や展示の説明をするお仕事。特に万博のコンパニオンは憧れの職業でした。私の仕事は国際連合館で各国からいらっしゃるVIPの方々に館内を案内するというもの。
私にとって万博は世界に開く窓でした。世界各国の方々とお話をしている中で「もっと世界を見てみたい」という意識が芽生え、日本の外に出て、今までしたことのない経験をしてみたいという好奇心を持つようになったんです。
──好奇心を持ち果敢にチャレンジしているのが印象的です。その性格は幼いころからだったのでしょうか?
そうですね、活発な子だったと思います。男子がクラスの級長、女子が副委員長をするのが定例だったのですが、私は副委員長を任されていました。学芸会では主役をしていたりもしましたね。
──当時は、団塊世代の真っ只中ですよね。
はい、子どもの人口が多く、私が通っていた中学校は1学年に15クラスもありました(笑)。あまりに子どもの数が多かったので、高校は生徒を受け入れる器が足りず、高校浪人が出ると言われたほどでした。
成績が優秀でないと高校に入れなかったので、中学時代は人生で一番勉強に時間を費やしたと思います。学校から帰宅したら一度眠り、18時から0時まで机に向かうという生活を毎日繰り返していました。
競争社会だったため、人一倍努力しなければ、先がない時代だったんですよね。結果的に、地元の進学校に入学することができたのですが、あのとき必死になって努力できたことがその後の自信につながったのだと思います。
苦難も、幸せも、誰にだって訪れる。今こそ「明日の予習」をしよう
──数々の逆境を乗り越えてきた鰐渕さんのモチベーションは何だったのでしょう。
会社の業績が私自身の生活とつながっていたので「やらねばならぬ」という使命感は当然ありました。それに加えて、「なんとかなるわ」という楽天的な性格もあると思います。とはいえ、「棚からぼた持ち」という言葉がありますが、ただぼた餅が落ちてくるのを待っているだけではだめですよね。ぼた餅の下に自分で歩いて口を持っていかなくちゃいけない。
もちろん、これまでめげそうになることは何度もありました。泣き声を聞かれたくなくて、浴室でひっそりと泣いたこともあります。でも、苦難は誰にでも訪れる。それと同じようにお天道さまは誰の上にも昇ります。私は幸せと不幸はいつでも一体になっていると思うんです。今日悲しいことがあっても、いつかどこかで必ずうれしいことも起こると信じています。
──最後に、「スタジオパーソル」の読者へ向けて、逆境を乗り越えるアドバイスをいただけますか。
私はくじけそうになったとき、ある言葉に出会いました。
“勇気をもって崖淵に立ちなさい。彼は遂に意を決して前に進み絶壁の上に立った。ギリシャの神アポリネールは軽く彼の肩を押した。すると、彼は大空に羽ばたいていった”
(レッド・バーンズ教授/NY大学の講演より)
人生に行き詰まったときも、アポリネールのように必ず背中を押してくれる存在がいるはずです。それが私にとってはスーツを作る職人であり、家族でした。
誰かが待ってくれているから頑張れたんです。皆さんも、周りの人への感謝や応援に気付けると良いかもしれませんね。
そして、今コロナ禍で大変な状況にいる方も多いと思います。そんなときだからこそ、前もって準備できることは、しっかりやる。学校の勉強でも予習しておけば、より先生の話がよく分かりますよね。こんな現代だからこそ「明日の予習」をしておくことがより大切になってくるのではないでしょうか。
(インタビュー・文/いちじく舞 編集/高山諒+ヒャクマンボルト 撮影/松田凪)
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