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100万本の大ヒット。異色の稲作ゲーム「天穂のサクナヒメ」がたった2人のインディーズから生まれたわけ
100万枚突破の異色ゲーム『天穂のサクナヒメ』
コロナ禍でステイホームが続いた2020年は、100万本の大台を超える大ヒットゲームが複数生まれました。
昨年リリースされたミリオンセラーゲームの中でも際立って異色の存在なのが、リアルな稲作をゲームに取り入れた異色のアクションRPG『天穂のサクナヒメ』。米作りに熱中し、農林水産省のホームページなどを参照にした攻略法を公開するユーザーも続出。農林水産省の政策統括官からインタビューを受けて、公式Facebookページにも掲載されました。
製作者は、「えーでるわいす」。その名を知らない読者がほとんどでしょう。それもそのはず、なんと、ふたりのクリエーターで運営されているインディーズサークルなのです。
インディーズは1万本売れたら大ヒットと言われるゲーム業界でミリオンセラーを達成し、今、大きな注目を集めているえーでるわいす。立ち上げたのは、プログラミング担当の「なる」さんです。
当初は会社員をしながら、ゲーム作りを始めたそう。そこからどのように道を歩んで、今に至るのか?どんな想いでインディーズゲームを作り続けているのか?なるさんにお話を聞き、その足跡を振り返ります。
ゲーム作りはすべて放課後に学んだ
なるさんは大阪の枚方出身。兄と姉がいて、物心ついた時には自宅にファミコンがあり、自然とゲームを始めていました。子どものころは兄、姉や学校の友人たちと遊ぶことが多かったそうですが、次第にひとりでじっくりプレーする時間が増えたと言います。
中学生の時、オリジナルのRPGゲームを簡単に作ることができるプレイステーション用ソフト『RPGツクール』に触れたことで、ゲーム作りに興味を持つようになりました。その気持ちを加速させるきっかけになったのが、文化祭。
「高校時代に、文化祭の出し物を紹介する映像を撮ったんです。それを作り切って発表した時、嬉しかったし、気持ちよかったんですよね。その時に、なにかを作る仕事に就きたいと思うようになって。子どものころからずっとゲームが好きだったので、ゲーム作りに興味を持ちました」
高校卒業後、ゲーム制作を学ぶ2年制の専門学校に進学。2000年代初め、日本のゲーム業界が世界のトップを走っていたころで、ゲームを作りたいという若者も多く、同級生はおよそ200人いました。
入学してから気付いたのは、「本当にすごいクリエーターは、現場にいる」ということ。学校のカリキュラムにも、講師陣からもそれほど刺激を受けず、授業に関心を持てませんでした。それでも学校に通い続けたのは、ひとりだけ、尊敬できる講師と出会ったから。その講師は放課後、「ゲーム作りたい人は来ていいよ」というフランクなスタイルで、イチからゲーム作りを教えていました。「そこですべてを学びました」と、なるさん。
卒業制作では、仲間たちと一緒に「かわいい女の子が、筋肉ムキムキの半裸のおっさんをハンマーで殴り倒していくゲーム」を作りました。そのチーム名が『えーでるわいす』。これが、今のサークル名の由来になっています。
会社員をしながら余暇でゲーム作り
専門学校を出た2003年、都内のゲーム制作会社に就職。会社では、すでに人気のある漫画やアニメの版権で製作されるゲームを作ることが多かったそうです。それで「オリジナルをやってみたくて」、自宅で趣味的にシューティングゲームを作り始めたのが就職から1年後。仕事が終わった後や休日に手を動かすようになりました。学生時代の友人とほかに数人が手伝ってくれましたが、ほとんど自分一人で作り上げました。
「本当に気楽に始めたので、だらだら作っていたら時間がかかりました(笑)」
3年後、『エーテルヴェイパー』と名付けたゲームが完成。当時は個人が作った「同人ゲーム」に勢いがあったころで、なるさんもゲームをCDRに焼き付けて、今も昔も日本最大の同人誌即売会であるコミックマーケット、通称コミケで手売りしました。同人誌や同人ゲームを取り扱う同人ショップも人気があり、全国展開しているショップに売り込んで、委託販売もしてもらいました。この1作目が、約7000枚を売るヒットに。
「ゲーム好きの間で同人ゲームが注目されていて、ほかにも売れた作品があった時代だから、リリースした時期も良かったと思います。すごく嬉しかったし、『エーテルヴェイパー』のヒットがあったから今もゲーム作りを続けています」
趣味的に作っていたゲームが予想以上に売れたことで、この後、ゲーム作りが本格化していきます。
会社を辞めて、ゲーム作りに専念
なるさんが2作目の制作に取り掛かっている時、共通の友人の紹介で知り合ったのが「こいち」さん。背景製作のプロで、グラフィックアートやCGを手掛けるこいちさんは、なるさんと同じくゲーム会社に勤めながら同人ゲームを作っていました。
なるさんからこいちさんに、2作目の背景の制作を依頼したところから、ふたりの関係がスタート。「一緒にやってみたら気が合った」こともあり、ふたりで組んで制作を進めるようになりました。
一方、会社では2006年頃からプログラムリーダーを任されるようになり、ストレスを感じ始めていました。「管理するのも、されるのも嫌い」だから、役割に惑わされずにゲーム作りに集中したかったのに、そうもいきません。
こいちさんとゲームを作っていると、「かなり本格的なモノが作れるぞ」という手ごたえがあったこともあり、いつの間にか、趣味で始めたゲーム作りに気持ちが傾いていたのでしょう。
2011年3月11日、東日本大震災が起きて会社が1週間休みになり、実家に戻ったなるさんは、会社を辞めようと決意。東京に戻った時に、辞意を伝えました。とはいえ、背水の陣というわけでもなく、「気楽な感じだった」と振り返ります。
「とりあえず一度、本気でチャレンジしてみようって。技術職なので、もしダメだったらどこかの会社に入ればいいやと思っていました」
その年の8月にリリースしたのが、『花咲か妖精フリージア』。妖精のフリージアが魔物や人間と戦うアクションゲームです。前作と同じくコミケでも手売りしましたが、この時は個人が作ったゲームを世界に配信できるアメリカ発のゲームプラットフォーム「Steam(スチーム)」で販売してみることにしました。それが功を奏しました。
「日本ではまだまだスチームの知名度も低く、日本のゲームがほとんど並んでなくて、フリージアは日本のゲームにおいてはかなり初期の参入と言っていいと思います。だから、スチームに出しただけで目立ちました。これもタイミングが良かったと思います」
スチームは当時から圧倒的にユーザーが多く、あらゆる嗜好のユーザーがいるので、スチームでリリースすることで、ある程度の反響が見込めます。『花咲か妖精フリージア』も海外での売れ行きが予想以上に良く、「個人で生活する分には十分な売り上げ」になったといいます。
えーでるわいす解散の危機
あえてインディーズとしてゲーム製作の舞台に飛び込んだのは、インディーズゲーム市場のポテンシャルを知っていたからでもあります。
「当時のゲーム業界で『同人は素人の遊び』と見られて相手にされていませんでしたが、僕は個人が作ったゲームでもいろいろ遊んでいたので、部分的には光るものがあるゲームも多いと知っていました。このゲームのこのシーンは、ゲーム会社でも作れないだろうということもあるんです。僕はそういう同人ゲームの光る部分を参考にして、えーでるわいすのゲームにもどんどん取り入れていました」
独立してからは会社員時代の貯金と2作目の売り上げで生活しながら、新作の開発を進めました。3作目は、まずゲームの世界観を決めて、どういう内容にしていくかを考えるところか始まりました。普段、こいちさんと一緒に作業をすることはなく、すべて遠隔でやり取りしていますが、この企画段階だけは顔を合わせて、ああでもない、こうでもないと話をしたそうです。通勤の必要がないので、公園やファミレスで話し合うこともありました。
およそ2年の制作期間を経て、2013年12月に発売したのは、アクションシューティングゲーム『アスタブリード』。このゲームについて、なるさんは反省を口にします。
「ゲームは、ストーリーありきで作る時もあれば、面白さ優先でストーリーを最後につけるパターンもあります。シューティングゲームはゲームシステムとメカニクスありきなので、後者の場合が多いんです。『アスタブリード』はストーリーありきで作ったのですが、シューティングゲームなので、キャラクター同士の会話を主体としてストーリーを語るのには向いていません。今にして思えば、相性の悪い組み合わせでした」
この制作者の後悔は、ユーザーにとってそれほど気になるポイントではなかったようで、『アスタブリード』は1、2作目より売れ行きが好調でした。しかし、大ヒットというわけでもなく、えーでるわいすの存続も怪しくなりました。
「ユーザーの反応も良かったんですが、会社を辞めて専業で続けていけるほど売り上げではありませんでした。発売してから翌年の春ぐらいまで、ふたりで『このままだと、あとどれぐらい活動できるのかな』『もう活動辞めようか』みたいな話をしていましたね。ただ、少しずつは売れていて、今すぐ辞めなきゃいけない感じでもないから、とりあえず次作を進めながら様子を見ることにしました」
プレイステーション4でメジャーデビュー
チーム解散の危機は、しばらくして回避されました。発売から半年以上たってから、何度か、ググっと売り上げが伸びるタイミングが訪れたのです。そのタイミングのひとつが、同年11月に登場したソニーのゲーム機プレイステーション4で遊べるPS4版ソフトが発売されたこと。ソニー側から制作の初期段階で「PS4で出してみませんか?」という誘いがあり、えーでるわいすのゲームが初めてメジャーなゲーム機でプレーできるようになったのです。
YouTubeにもアップされているPS4版のプロモーション動画では、冒頭に「シューティングゲームの新世代は、インディーから生まれる!」と記されており、期待値の高さをうかがわせます。
「PS4になってから、僕らのようなインディーズゲームをソフトに採用するようになったんです。個人で作ったゲームがPSで出せるという新しい時代の走りになれたのも、タイミングが良かったですね」
『アスタブリード』は、最終的に16万枚を売る大ヒット作になりました。その売り上げがすべて、最新作『天穂のサクナヒメ』の制作費に投じられることになります。
ゲーム史上稀にみる稲作ゲーム開発の理由
『アスタブリード』のPS4版が発売されたのが、2015年3月。それから5年8カ月の歳月をかけて制作されたのが、『天穂のサクナヒメ』です。
このゲームの特徴は、徹底的にリアルを追求した「米作り」にあります。田んぼの土を乾燥させ、肥料を混ぜる田起こしから始まり、田植え、稲刈り、収穫した稲を乾燥させる穂架掛け、脱穀など11もの工程が再現。機械を使わない伝統的な稲作の作業をユーザーはイチから体験することになります。しかも稲作の評価がパラメーターで数値として現れ、収穫した新米の味や香り、硬さなども格付けされます。
良い米ができると主人公のサクナが強くなり、敵キャラと戦うアクションパートを攻略しやすくなるため、ゲームを進めるためにはある程度真剣に米作りと向き合わなければなりません。アクション要素はあるものの、ゲーム史上稀にみる、本格的稲作ゲームでもあるのです。
なぜ、稲作に注目したのでしょうか?
「最初は町づくりゲームを考えていたんですけど、既にたくさんあるので正面衝突を避けて差別化を意識しました。町づくりゲームの場合、町を俯瞰した作りが多いんですよね。住人が2000人で、数字が増減するような。その逆のほうが特徴が出ると思って、主人公を数人の一家にして、それを細かく描いていく想定をした時に、農業シミュレーションのアイデアが出ました。さらにそこで作る作物もひとつに絞り込んだ上で、あり得ないぐらい作りこんだほうが、より面白い。最初の時点で世界観は和風と決めていたので、農作物、和風となったら米だろうと」
米作りは、なるさんにとって身近でありながら遠い存在でもありました。大阪の実家の周りには田んぼが広がっていて、その風景が子どもの頃から好きだったそうです。それなのに、米作りについてはほとんどなにも知りませんでした。その「当たり前にあるけど実は知らないという距離感」がゲームのテーマとして適していると思ったそうです。
知識ゼロの稲作をゲーム化するにあたって、なるさんはどん欲に学びました。市販のバケツ稲づくりセットを購入して、種まきから収穫まで200日間、毎日撮影。土壌の良し悪しを決める窒素、リン、カリウムの増減や、稲の成長に影響する気温、水温に関するものなど論文もたくさん読みました。それらをどうゲームに落とし込むかで、試行錯誤が続いたといいます。
「前例がないゲームだったので、参考にできるもの、イメージになるものがなくて、ゲームの形になかなかならなかったですね。今日は土壌のシミュレーションを作るぞ、これがどんな風にゲームに使われるのかわからんけど、みたいな。リアリティにこだわったほうが面白いと思ったけど、ゲームにするのは本当に難しかった」
作り手の想像を超えた遊び方
稲作をゲーム化するのは想像以上の難易度で、それが開発に5年8カ月かかった理由でもあります。終盤には『アスタブリード』の売り上げも尽き、なるさんは貯金が底をつく寸前、こいちさんは借金をしたそうです。
その苦労が、予想をはるかに超えて報われました。えーでるわいすの目標枚数が3万枚だったところ、リリースから約2週間で累計発行枚数が50万枚、今年5月末には100万枚を超えました。なぜ、ここまで支持されたのでしょうか?
「一言で言えば運ですね(笑)。ユーザーの遊び方も想定と違いました。ゲーム的に言えば稲作は面倒くさい要素なので、すぐに飽きるだろうと思っていたんです。でも、ずっとまじめに稲作を続けるユーザーが多くて、彼らの書き込みなどから一気にバズって広まりました。そこを狙ったわけではないので、やっぱり運でしょう」
『天穂のサクナヒメ』は今も売れ続けていますが、えーでるわいすは既に新作の制作に取り掛かっています。なるさんは「次は簡単に作れるゲームをささっと出すつもりだったんですけど、先日、『すでに簡単じゃなくなってるよね』と言われました」と笑っていました。
「素人の遊び」からゲーム業界で脚光を浴びる存在にまで駆け上がったなるさんは、これからどんな道を歩むのでしょうか?
「えーでるわいすのメンバーを増やしたり、制作のペースを上げることは考えていません。僕には作りたいゲームがいっぱいあるので、今までのように限界まで小さなサークルで一生作り続けたいですね」
(文:川内イオ 写真・画像提供:えーでるわいす)
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