「ここではないどこか」を求める人が、自分の存在価値を感じられる仕事とは

2022年2月2日

スタジオパーソル編集部が、世に発信されているさまざまな個人のはたらき方ストーリーの中から、気になる記事をピックアップ。
今回は、自分にとっての「はたらき方」について語る「#私らしいはたらき方」投稿コンテストで、入賞した記事をご紹介します。

執筆者は、フリーランスになって10年を迎えるベテランライターの小林みちたかさん。独立するまでは大手新聞社や制作会社で思うようなキャリアを歩めず、ついには仕事中に倒れてしまったそうです。そんな苦い過去を受け入れ、心が楽になる生き方を見つけるまでの話をnoteに投稿しました。

「ここではないどこか」を求めて彷徨った会社員時代

小林みちたかさんが就職したのは、就職超氷河期真っ只中の2000年のことです。
新卒で大手新聞社の営業職になり、社会人として順調なスタートを切ったものの、営業の成果が出ませんでした。
やがて不安が募り「自分には営業の適性がない」と判断してしまいます。その裏には、「新入社員ならではの幼さ、過剰な自意識、打たれ弱さ」などがあったといいます。

「ここではないどこかに、きっと自分の道がある」と、営業1年目の終わり頃には、転職がチラつき始めた。

ぼくは、一度、死んだ。より

転職への意欲は高まりつつも、楽しい同僚や高い給料などに後ろ髪を引かれてなかなか決断できなかった小林さんは、出版社の宣伝会議が主催する「コピーライター養成講座」に通うことにしました。

半年間の講座の最後に卒業制作があり、一等賞になると、実際のクライアントさんの広告キャンペーンにコピーが使用されるという特典があった。

私は、これに賭けてみることにした。

広告業界にいたこともあり、良質なコンテンツをつくれるコピーライターになれば、メディアの栄枯盛衰にかかわらず重宝されるはずだと踏んだのだ。

ぼくは、一度、死んだ。より

一等賞を取れたら広告業界へ転職を、ダメなら新聞社に残ろうと決めて臨んだ卒業制作で、なんと一等賞を獲得します。

実際のキャンペーンで自身のコピーが採用され、当時住んでいた名古屋の街中でもそのコピーを目にしたことで、大きな自信を得た小林さん。
それから転職活動を開始し、社員15人ほどの小さな制作会社に採用されました。

しかし、それは「地獄の始まり」でした。
残業時間が月200時間を超えているのに給料は3分の1に減り、企画やコピーは評価されず、ミスばかりしてしまいます。

人間関係もうまくいかず、
「お前みたいな奴が入らないような採用広告をつくらなきゃな」
といった辛辣な言葉をぶつけられ、心を閉ざしてお酒を煽るようになりました。

成果は上がらず、社内外の誰からも認められず、家に帰れず、常に睡眠不足。

「こんな人生なら早く終わって欲しい」とさえ思っていた。

ぼくは、一度、死んだ。より

それでも3~4年ほど仕事を続け、別会社の代表を任されることになります。
喜ばしい昇進のようですが、今の会社にそりが合わない人々をまとめた新会社で、面倒な経営を押し付けられる形での転籍でした。
小林さんが倒れてしまうのは、この後のことです。

複数の「死」に触れ、見えてきたもの

小林さんは慣れない経理や法務面の仕事に追われ、プライベートでは父親の看病までしていため、ろくに眠る時間も取れず徹夜を繰り返していました。

そんなある日のことです。

手を洗おうとした私の視界が突然、グニャリと変形した。巨人に首を捻られるような感覚の後、私は崩れるように、その場に座り込んでしまった。

左耳の聴力が極端に落ち、ずっと海の中にいるような耳鳴りが響いていた。めまいがひどく、片足立ちができない状態だった。

再発するようなら「メニエール病」だと言われ、悪魔的に苦くてまずいイソバイドという飲み薬を処方された。以後、今に至っても、極端に忙しくなると、めまいや耳鳴りに悩まされている。

ぼくは、一度、死んだ。より

小林さんは「私は、この時、事実上、死んだ」と言います。
当時は自己肯定感が崩壊し、仕事で褒められても喜べず、自己嫌悪の無限ループに陥っていました。

そのうえ体を壊したことで
このままでは本当に死んでしまうかもしれない
という強い恐怖に駆り立てられ、
一度死んだなら、生まれ変わろう
と制作会社を辞める決意をします。

その後、国際NGO団体に転職して途上国を対象にした支援活動の仕事を始めました。
それは自分の存在価値を感じられる仕事であり、やりがいに満ちていましたが、今度は母親の看病が必要な状況に。
小林さんは、自由の利くフリーランスのライターに転職します。

すると、思い出したくないほどつらかった制作会社時代の人脈から、いくつも仕事が発注されました。
同時に「制作会社でフリーランスのライターやカメラマン、デザイナーなどにたくさん会っていたから、自身も抵抗なくフリーランスの道を選べたのだ」と気づいたそうです。

フリーで10年生き残れた今を考えれば、つらかった制作会社時代のキャリアが、今の自分の身を助けているわけで、人生はわからないものだ。

ぼくは、一度、死んだ。より

そう振り返る小林さんにとって、もはや制作会社時代は今につながる大事な時期であり、つらいだけの暗黒期ではなくなりつつありました。

独立してから友人や父親の死を経験し、さらに意識が変わっていきます。

命はいつ潰えるか、わからない。

いつかやりたい。いつか行きたい。いつか会いたい。

そのいつかは、訪れないかもしれないのだと悟った。

自分の欲望をもっと優先しようと思った。

ぼくは、一度、死んだ。より

それからは自分の信念に従ってボランティアを続け、自著を出版し、「いつかやりたい」を着実に叶えていきました。
それは小林さんがようやく自分の心に素直になれた証でもあります。

過去がよかったのか悪かったのかは、今によって決まる。私の暗黒時代が、その後の私の身を助けているように。

矛盾に溢れ、正解はない。

それなら、あまり考えすぎず、意味を求めすぎず、今の自分の心に素直に従う方がいい。

自分にしか意味のないことほど、大切なことはないのだ。

ぼくは、一度、死んだ。より

人生に失敗や挫折はつきもので、だれも避けることはできません。
だったらどんなに苦い過去も今に生かすことで「失敗」にせず、「成長の糧」にしたほうが豊かな人生を歩めるはず。そうすれば、過去の自分を否定せず、受け入れることもできるでしょう。

失敗が多く遠回りばかりの人生だからこそ、仕事でも完璧主義にならずに「やりたい」という気持ちに素直になってみる──。そうすれば、小林さんのように心が楽になり、仕事も人生も楽しめるようになるかもしれません。

小林みちたか(ライター)
提灯屋の孫。『死を喰う犬(SHC)』(http://shc.co.jp/book/15228)で、わたしの旅ブックス新人賞を受賞。『震災ジャンキー(草思社)』(http://is.gd/BjrRhP)で、W出版賞草思社金賞。連絡先はmichitaka64[at]gmail.com

パーソルグループ×note 「#私らしいはたらき方」投稿コンテスト

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