「草むしり」がきっかけで樹木医に。和田博幸さんが、「桜守り」と呼ばれるまで

2021年3月25日

日本三大桜に数えられる、山梨県北杜市の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)。日本の三大桜名所のひとつ、高遠城址公園(長野県伊那市)。国の特別天然記念物、大島のサクラ株(伊豆大島)。

これら、日本を代表する桜の木々が満開の花を咲かせるたびに、ホッと胸を撫でおろす人物がいます。樹木医・和田博幸さんです。

全国各地の歴史ある木々や地域で親しまれている巨木、古木の保護、管理にあたる樹木医。この資格を持つ人は全国で約2800人おり、その一人として、和田さんは全国を駆け回ってきました。

樹木医が対象とするのは樹木全般ですが、そのなかでも和田さんは桜の名医として名を馳せています。これまで全国70か所以上で、裏方として桜の木々を見守り、ときに救ってきました。さらに、新たな桜の名所づくりにも携わっています。

日本の桜を陰で支える和田さん。その歩みは学生時代の「草むしり」のアルバイトから始まりました。

人生を変えたオファー

栄養食品化学研究室・時代の和田さん(左端)

1961年、群馬県高崎市で生まれた和田さんは、地元の高校を出た後、「化学と生物が好き」という理由で、東京農業大学の農芸化学科に進学。大学では栄養生化学の研究室に入り、試験管を振る毎日でした。

そんな和田さんと植物との出会いは、アルバイトでした。和田さんの地元の高崎市は自然豊かな土地だったこともあり、「山に行くと心地いい」という和田さんは、大学で植物愛好会というサークルに入りました。

そのサークルで代々受け継がれてきたアルバイトが、大手建設機械メーカー・コマツの社長、会長を歴任された河合良成さんの自宅の庭の手入れです。当時は良成さんのご長男の良一さん(コマツ社長)が庭主でした。1962年に河合良成さんの提唱で創設された公益財団法人「日本花の会」という植物愛好会に繋がりがあったのが縁で生まれた仕事でした。

和田さんも例にもれず、大学2年生のころからだいたい週に1度、日曜に目黒区内にある河合さんの邸宅に向かい、300坪もある広大な庭の草むしりをしました。

単純労働に思えますが、和田さんは「いま思うと、あのアルバイトがなかったら今の僕はないかもしれない」と語ります。

「雑草と雑草じゃないものを見分けて抜いたり、木が茂ったら枝を切るということをひたすらしていました。

そのなかで、植物と人、植物同士をどう共存させるのか、植物をどう人に見せたら喜んでもらえるか、それをどうやってうまく管理するか、そういったところはこのときにずいぶん学んだと思います。今でも、その庭のことを思い出すことがありますよ」

大学時代、実験室にて(和田さん・右)

ただ黙々と草を抜くのではなく、植物の見せ方や管理の仕方まで考えて取り組む。その姿勢が、目に留まったのでしょう。大学4年生のある日、河合良一さんが会長を務める日本花の会からオファーを受けます。

「草むしりのセンスがいいから、うちではたらかない?」

そのとき、既に研究職として2社から内定を受けていましたが、「これからもずっと試験管を振るのか……」とすっきりしない気持ちを抱えていた和田さんは、思い切って日本花の会ではたらくことを決めました。

「失敗するかもしれないけど、まだ若いし、やり直しがきくだろうと思っていました。

ちょうどバイオテクノロジーが流行り始めた頃だったので、ダメだったとしてもどうにかなるだろうし、仕事で植物をいじれるなんていいなと思って」

つまらなそうな仕事も面白く

和田さんの携わったプロジェクト「高遠城址公園」

日本花の会の主な事業の1つが、桜の名所づくり。希望する自治体などに桜の苗木を配り、新しい桜の名所をプロデュースするだけでなく、既に植えられている桜の保護や、枯れかけた桜があれば治療にあたります。

日本花の会は茨城県結城市に約8haの農場を持っており、年間約3万本の桜の苗木を生産しています。その歴史は長く、たとえば、いまから半世紀前に東京の明治神宮外苑に1500本の桜を植栽したのも日本花の会です。ちなみに、桜は野生種や園芸品種を合わせて約700種類はあるだろうといわれ、農場の中にはそのうちの約350種類の桜の木が植えられた桜見本園もあります。

植物について専門的に学んだことがなく、桜についてもほぼ知識ゼロだった和田さん。就職してからは、桜を植える土壌、植えた後の栽培管理、地域のコミュニティとの連携方法など、たくさんのことをイチから学んでいきました。

「日本花の会では、桜や植物についていろいろな研究をしています。僕が恵まれていたのは、研究テーマに合わせて、桜の分野で一流の先生たちの協力を得ていたこと。

僕は先生方のカバン持ちのような立場で末席に加えてもらったので、先生方から直接話を聞く機会が多かった。それがすごく自分の糧にはなりましたね」

樹木医の資格を得るには、7年間の現場経験が必要です。
駆け出しの時には、土壌を調べるために、真夏の炎天下で深さ1メートルの穴をいくつも掘るということもありました。当然、汗まみれ、泥まみれで、はたから見れば、ハードな肉体労働です。

作業をしている最中も、草むしりをしていた頃と同じく、和田さんは工夫を忘れませんでした。腕力に任せても、穴はうまく掘れない。どうやったら、効率的にできるのか。試行錯誤していると、そのうちに、腰を入れ、膝を使って掘ると、それほど体力を使わず、スピーディーに掘れるというコツがつかめてきます。

若かりし頃の和田さんにとって、そういう発見のひとつ、ひとつが喜びであり、楽しみでもありました。

「バカバカしいと思うようなことも、そういうふうに捉えないで、その作業の意味を掘り下げたり、こんなふうにしたらもっと新しいことが発見できるのではないかと、いつも考えていました。どうやったらつまらなそうな仕事が面白くなるのかを考えることが、楽しいんですよね」

和田さんの携わったプロジェクト「河合庭園」

桜の名所を作るコンサルタント

仕事を始めて数年経つと、主力メンバーとしてさまざまなプロジェクトに携わるようになっていきました。

桜の名所づくりの場合、まず、自治体から「桜の名所を作りたいから、それを計画してもらえないか」という依頼が来ます。それを受けて、日本花の会では、なぜそこに桜を植えるのかという基本的なコンセプト作りから関わっていきます。

ほかにも、検討することは山ほどあります。近所にソメイヨシノの名所があったとすれば、そこと同じ時期に咲く桜にするのか、時期をずらすのか。桜を植えるとして、人の目線の位置に咲かせるのか、見上げるような位置に咲かせるのか。

桜を見に来る人たちの動線もデザインするし、指定された土地を調べて、水はけが悪ければ土づくりから指導します。その多岐にわたる仕事はまさに、桜のコンサルタントです。

クライアントの意向と真逆の提案

和田さんが樹木医の資格を取得したのは、1991年。その数年前から携わり、今も関係が続く思い入れの深いプロジェクトがあります。

それは、長野県小布施町にある千曲川の堤防沿いに作った、桜堤(桜並木が整備された堤防のこと)。
当時の町長の考えのひとつには、開花の時期が異なる複数の種類の桜を植えたらいいのではないかというものでした。そうすれば、桜が咲いている期間も長くなり、より多くの人に桜を楽しんでもらえるという理由です。

しかし、現地を入念に調査した和田さんは、「一葉」という品種の桜だけを植えることを提案しました。
町長からは「桜の品種はたくさんあるのに、なぜその1品種だけなのか」と問い詰められたそうです。そこで和田さんは、こう説明しました。

「千曲川の堤防があるエリアは、すごく雄大な景色が広がっています。そこに、開花時期の異なる桜を植えてしまうと点々と咲いているように見えてしまって、その雄大な景色とうまくフィットしません。

僕らが選んだ一葉なら風景にも調和するし、管理的にもそれほど難しくない。それに、ゴールデンウィークの前半頃に開花するので、たくさんの人に桜を見てもらえます」

できる限りクライアントの意向を尊重するのは当然として、必要とあれば真逆の提案もする。それが、和田さんの仕事の進め方です。

最終的に町長も納得し、1997年と1998年の2カ年にかけて、小布施町の堤防沿いに約600本の「一葉」が植えられました。これで、めでたしめでたし……とはならないのが、植物相手の仕事の難しいところ。

植栽する際に大規模な土壌改良もして、自信をもって植えた一葉でしたが、それからおよそ20年間、あまり注目されませんでした。桜の木が若かったこともあって、当初の狙いよりもこじんまりとした印象になってしまったのが大きな要因です。

小布施町としては観光客を集める「名所」になることを希望していたから、その期待に応えられなかったことになります。

しかも、小布施町の発案で、一本、一本の桜には町民がオーナーについていて、「俺の木は、いつになったらちゃんと咲くんだよ」という不満の声も聞こえてきたこともあって、和田さんは「心が折れかけました」。

ところが、5、6年前から突如として、和田さんが思い描いたような見事な桜が咲くようになり、あれよあれよという間に、人気スポットに。今では多くの人が訪れる、桜の名所になっています。

「ある程度は木が大きくならないと、見ごたえが出てこないんですよね。それには15年ぐらいかかるんですよ。今はずいぶん評判がいいので、今までずっと失敗したかなと思っていた仕事が、自慢の仕事になりました(笑)」

樹木医として最も大変な仕事とは?

和田さんの携わったプロジェクト「山高神代桜」

和田さんのもうひとつ重要な仕事が、古木の樹勢回復。簡単に言い換えると、古い木が元気に花を咲かせられるように治療することです。

樹齢2000年という言い伝えもあり、日本で最も古い桜の木と称される山高神代桜の樹勢回復は、一大プロジェクトでした。2001年に樹勢回復委員会が設立されてから、調査に足掛け2年、工事に4年を要しています。

このプロジェクトでは、日本花の会が樹勢回復委員会の事務局として、委員のメンバーや地元住民の調整役になりました。もともとは和田さんの先輩がメインで担当していたのだが、体調を崩してしまい、サポートについていた和田さんにその役割が回ってきたそうです。

山高神代桜の治療方針に関しては、調査の時点で病気になっている根が多いことが判明し、根の周りの環境を一気に変えてしまわないとダメということで委員会の意見が一致。

300トンの土を運び入れ、根の周囲の土をすべて入れ替える大工事となり、それが4年がかりとなりました。

樹木医としては、工事の規模が大きかっただけで、「ごくごく当たり前なことをやっただけ」。なによりも大変だったのは、人間相手の交渉でした。

「僕たちは予算を管理しながら、一番有効性の高いことに優先順位を置いて、プロジェクトを進めていきました。でも、委員会には先生方や地元の方もいて、それぞれ意見が違いますし、なかには採用されない意見もありますよね。委員会のなかで意見が割れたり、決裂しないように丁寧に交渉するのが、骨が折れました」

大切な木をみんなで守る

地元の方への現地説明会の様子

樹木医というと常に山のなかで木々と向き合っているイメージがありますが、意外なほどに地道で、コミュニケーションスキルも問われます。

山高神代桜のプロジェクトでは、工事が終わった後にも重要な話し合いが行われました。肝心の桜の木が、見事に花をつける年もあれば、そうでない年もあり、調査の結果、夏場の水不足が原因だとわかりました。

そこで、和田さんから、地元住民に対して「できれば夏場に水をあげてほしい」と求めたのです。

「委員会からすると、工事の間は地元から桜をお預かりしていて、工事が終わったら地元にお返しするという感覚でした。

でも、地元の人には、この桜は樹木医さんにお預けしたから、もうあまり関係ないという雰囲気があったんですよ。それはよくないし、桜のためにもならない。そのため、協力を呼びかけました」

その結果、地元住民は「それぐらいだったらやるよ」と快諾。夏場の水やりが始まって以来、ずいぶんと木が元気になったそうです。

「地元の木は地元の人が面倒見るというのが原則で、足りない部分を僕らがお手伝いする。その関係をしっかりと伝えておかないと、いくらお金をかけて工事をしても、長持ちしません。大切な木をみんなで守りましょうという雰囲気作りも必要なんだと学びましたね」

できるだけ大勢の人を巻き込む

全国70カ所以上で大小のプロジェクトに携わってきた和田さん。そのたびに、新たな発見や学びがあると言います。それはきっと、どんな現場でも、どんな仕事でも「いかに面白くするか」を考えて、工夫を忘れなかったからでしょう。

樹木医のなかには、和田さんのように全国を飛び回って大きなプロジェクトに携わる人もいれば、地元に根差して地域の樹木のケアをしている人もいます。

東京を拠点にする和田さんは、遠方には頻繁に顔を出せないので、地方でプロジェクトを始める時は、地元の樹木医にも声をかけ、役割分担をして仕事を進めています。

「私は、できるだけ大勢の方を巻き込みながら仕事をするのがいいなと思っているんです。なぜかというと、『植物ってこんな面白いんだよ』『この仕事は楽しいんだよ』ということをいろんな人に知ってもらいたいから。

できるだけ多くの人たちと関わることで、樹木医だけじゃなく、市民にも、植物や環境に興味を持ってもらうことにつなげたいと考えています」

昨年、日本花の会を退職し、特任研究員としてはたらくかたわら、フリーランスとしても活動する和田さん。最近は新しい仕事の依頼も増えていると言います。樹木医になってよかったですか? と尋ねると、大きく頷きました。

「もう40年ぐらいこの仕事をしていますが、すごく良かったですね。植物や樹木にことはもうライフワークなので、これからも楽しくやっていこうと思います」 

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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