4児の父・木山裕策、39歳の会社員から『home』で紅白出場。甲状腺がん闘病も。

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今回取材したのは、優しい声で家族への愛を歌った「home」が2008年に大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦にも出場した歌手、木山裕策さん(56)です。実は木山さん、39歳でデビューし、そのあとは約12年間会社員と歌手の二足のわらじを履き続けた異色の経歴の持ち主でもあります。
小さいころから歌うことが好きだったという木山さん。39歳でデビューするまで、どんな人生を歩んできたのでしょうか?自身のキャリアと人生、そして「はたらく」ことへの想いを、率直に語ってくれました。
レコードショップの店員さんに、歌を歌ってCDを探してもらっていた幼少期
──木山さんが最初に音楽に触れた時のことを教えていただけますか?
私が幼いころは、まだレコードプレーヤーの時代で、気軽に音楽を聴ける環境ではありませんでした。でも、母が自宅で美容室をやっていて、そこに大きなステレオがあったんです。母が好きだった映画音楽やシンガーソングライターの加藤登紀子さんのレコードなどを、美容室のステレオで大音量で聴いていたのが、音楽に触れた最初の経験です。
自分で初めてレコードを購入したのは、たしか小学校高学年の頃だったと思います。松山千春さんの『起承転結』というアルバムをテレビで聴いて「いいな」と思った曲がありまして。でも、タイトルが分からなかったから、レコードショップの店員さんの前で歌ってCDを探してもらいました。
──歌うことは、昔から好きだったのでしょうか。
そうですね。物心ついたころから、息をするような感覚で歌っていました。でも、人に聞かれるのが恥ずかしくて、部屋にこもって一人で歌うことが多かったです。
──大学卒業後は、歌手ではなく脚本家を目指されたと聞きました。なぜ、大好きな歌ではなく、そちらの道を選んだのか、教えていただけますか?
プロの歌手を見て、「こんなふうにうまく歌えたら幸せだろうな」という憧れはありました。でもそれはステージに立ちたいというより、「うまく歌えるようになりたい」という気持ちだったんです。
当時は物を書くのが好きだったこと、そして映画が好きだったことから、映画と物書きの両方に携われる、脚本家の道を選びました。
本格的に脚本の勉強をするために、大学卒業後は就職活動をせずに1年間塾講師としてはたらいて資金を貯め、24歳で長年住んでいた大阪を離れて上京しました。昼間は広告代理店でアルバイトをし、夜は脚本家の学校に通う生活を4年ほど続けましたね。

「自分には才能がないのか……」初めての挫折を経験
──就職せずに夢を追うことに迷いはなかったのでしょうか?
当時は「いい大学を出ていい会社に就職すること」が良しとされていたから、周りからは「大学まで出て、いったい何を考えているんだ」と言われましたね。でも、この道を選んだのは、自分なりに自身の性格を分析した結果。あのころの会社員は、年功序列、終身雇用が当たり前でしたが、どうしても自分が一つの会社で40年も勤め上げる姿が想像できなかったんです。
当時は独り身でしたし、「変わった生き方しかできない自分は、結婚もしないかもしれない」とも思っていましたから。安定よりもリスクを取れた、というのもあります。
──しかし、28歳で脚本家の卵から、会社員にキャリアチェンジしています。きっかけはなんだったのでしょうか?
いくつか要因があります。まず、脚本家の学校で学びながら、何度もコンクールに応募したけれど、まったく結果が出なかったこと。「自分には脚本の才能がないのではないか」と自信が揺らいでいました。そんな時に妻と出会い、まだ学生だった27歳で結婚。翌年には長男が誕生しました。自分の才能への疑いと、家族ができたという現実。「かなうか分からない夢を追いかけるだけじゃ、家族を守っていけない」と、会社員になることを決意しました。
ただ、当時の私は28歳。大学を卒業した同期の中には、管理職になる人も出てくるような年齢です。そんな時期から闇雲に会社員としてはたらき始めても、ブランクは簡単には埋められません。
そこで注目したのが、当時まだ黎明期だったインターネット業界でした。『リクルート』がデジタルメディア部門で求人を出しているのを見つけたときに、「これなら未経験でも追いつけるかもしれない」と考え、1998年に入社しました。
──ご自身の状況を客観的に分析された上での選択だったのですね。
この時、「脚本家の夢はかなわなかった」と挫折感も味わいました。でも、自分を客観的に見る視点は、いろんな立場から物事を見る脚本の執筆で培われました。今だからこそ言えることですが、人生に無駄な経験は何もないんですよね。
夢をかなえた同期の活躍を見て、「やってやる」と誓った日
──リクルートに入社されてからの話も聞かせてください。
会社員になってからは、仕事と家族中心の生活を送っていました。35歳までに3人の子どもに恵まれ、忙しいけれど充実はしていましたね。夢だったマイホームも購入し、「夢を追いかけてばかりいる自分には無理だ」と思っていた“普通の生活”を手に入れて、心から満足していました。

──しかし、その矢先にがんが見つかります。
36歳の時に、会社の人間ドックで甲状腺がんが見つかって。当時はまだ、がん=死の病というイメージが強かったから、目の前が真っ暗になりましたね。さらに、もし命が助かったとしても、手術の結果によっては「声」を失うかもしれない、と……。
「やっと普通の幸せを手に入れたと思ったのに、どうして……」と、とにかくショックでした。でも、手術当日の朝に、転機となる出来事があったんです。
──どんな出来事だったか教えていただけますか。
病室のテレビを見ていたら、脚本家の学校の同期だった友人、薬丸岳さんが江戸川乱歩賞を受賞したというニュースが流れてきて。「彼は、あきらめずに自分を信じ続けたから夢をつかんだんだ。なのに自分は……」と、いろいろな感情でぐちゃぐちゃで、その瞬間が人生で一番落ち込みました。
でも、次に込み上げてきたのは強烈な悔しさでした。このままなんの覚悟もなしに手術を受けたら、意識を失っている間に声を失っているかもしれない。そんな結末だけは絶対に嫌だ、と。それで、「もし手術がうまくいったら、今度こそ自分を信じて、“何か”を成し遂げてやるんだ」と強く思いました。
──その「何か」とは、脚本ではなく歌だったんですね。
「声を失うかも」という危機に直面してあらためて、心の奥底にあった歌への想いが溢れ出しました。結局、どんなときも歌うことは私の一部だったんですよね。
子どもたちに見せるのは、失敗しても立ち上がって前に進み続ける大人の姿だ
──そして手術は無事に成功し、「声」も残りました。
はい。術後の経過も順調で、手術から3週間で職場復帰も果たしました。でも、もとの生活に戻ると、「この歳で、また夢を追っていいのだろうか?」と迷いが生じてしまって……。
夢がかなう保証はもちろんありません。しかも今度は、守るべき妻や子どもたちがいます。手術直前のギラギラした気持ちは忘れられないけれど、現実を考えると不安のほうが大きかったですね。
──そんな葛藤を跳ね除け、38歳のときに歌手デビューをかけたオーディション番組に出演されます。出演を決意した経緯について、教えていただけますか。
4人目の子どもを授かったことが大きかったです。この子が大きくなった時に、「お父さんは、あなたが生まれたから夢をあきらめた」なんて夢のないことを言いたくないし、知られたくない。そう思ったのが、大きな理由でしたね。
それでも不安は拭えなくて、家族には内緒でオーディションに応募したんですよ。最終審査はテレビ放送があったので、出演が決まったときに初めて打ち明けました。審査当日は、家族全員で応援に来てくれましたね。
──ですが、オーディションの結果は不合格でした。
不合格の結果が出た瞬間、子どもたちが号泣してしまって……。自分が落ちたこと以上に、「自分の夢を優先して子どもたちを悲しませるなんて、とんでもないことをしてしまった」とショックでした。結果も不合格でしたし、歌手の夢はあきらめよう、と思いました。
そんな矢先、オーディションで私を推してくれた作曲家の多胡邦夫さんが、なんと関係者に掛け合い、再挑戦の機会をつくってくださったんです。自分の才能を信じてくれる人がいるのは、すごくうれしかったですね。

ただ、一度落ちているのに。しかも子どもたちに情けない姿を見せてしまったのに、再挑戦していいのかとまたも悩みました。
──そんな木山さんに対して、多胡さんからは印象的な言葉が送られたそうですね。
「子どもたちに見せるべきなのは、勝つ姿じゃない。負ける姿こそ見せるべきだ」と。
──負ける姿、ですか。
ええ。「大人は簡単に『勝て』と言うけれど、現実は甘くない。大切なのは、負けた後にどうするか。人のせいにして後ろ向きに生きるのか。それとも、かっこ悪くてもあきらめずにまた挑戦するのか。身近な大人が頑張り続ける後ろ姿を見せることこそが、子どもたちが強く生きていく力になるんじゃないですか」と、躊躇する私の背中を押してくれました。
私は、バブル景気の時代に社会に出たバブル世代という背景もあって、それまでは「失敗してはいけない」「レールを外れてはいけない」と思って生きてきました。でも、失敗を経験した人のほうが優しくなれるし、次に成功する確率も上がる。失敗は次に活かせばいい。多胡さんの言葉で、そう考えられるようになったから、二度目の挑戦に踏み切れました。
家族のため、自分の成長のために選んだ、会社員と歌手の二足のわらじ
──そして二度目の挑戦で、見事歌手デビューを果たします。その後、50歳で会社員を卒業して独立するまでは、約12年間会社員と歌手の「二足のわらじ」を続けられました。その理由を教えていただけますか。
一番は、4人の子どもを育てるという「父親」としての責任感からです。安定した収入は不可欠でしたから、歌手デビューをしたからといって、すぐに会社を辞めるという選択肢はありませんでした。
──両立は大変だったと思いますが、ご自身にとってどんな意味がありましたか?
平日は残業も多い管理職として、そして土日は歌手として日本全国を動き回るのは、もちろん大変でした。でも、会社員としてチームで目標に向かって切磋琢磨し、土日は好きな歌を歌う。このバランスが、当時の私にはすごく心地良かったです。

──会社員時代の経験は、現在の歌手の活動にも活きていますか?
とっても活きていますよ!たとえば、会社では「ノーと言わない」を意識していました。無理だと思っても、まずは「やってみます」と引き受ける。ただ、そのときに闇雲に引き受けるのではなく、上司と交渉して条件を整えたり、周りを巻き込んだりするようにしていました。やるための方法をみんなで考えて実行する。この考えは、いろいろな職種・立場の方と一緒に番組をつくり上げる機会が多い、今の歌手活動に大いに活きていますね。また、ファンの方も老若男女さまざまで、皆さんとの距離感にも管理職時代に学んだ、部下とのコミュニケーションや謙虚さが反映されているのかなと。年齢や役職を重ねても、若い人から気軽に相談される存在であり続けたいと、常に人との距離感を意識してきましたから。歌手活動をしている今も、ファンの方や一緒にお仕事する方が壁を感じないような関係性でいることを大切にしています。

「努力すれば夢は必ずかなう」とは絶対に言えない。でも、努力は裏切らない
──そして50歳を節目に会社員を卒業し、歌手として独立する決意をされました。
「まだ健康で声も出る50代のうちに、歌中心の生活に挑戦したい」と思ったんです。経済的な不安はありましたが、子どもの教育資金の目処は立っていたから決断できました。
──晴れて独立された直後にコロナ禍に見舞われましたよね。多くのエンターテイメントが自粛を余儀なくされましたが、木山さんにも影響はありましたか?
はい。予定していた仕事はすべてキャンセルとなり、「今度こそダメかも」と思いました。でも私には、脚本家をあきらめとき時も、がんになったときも、オーディションに落ちたときも、なんだかんだ乗り越えてきた経験があります。
まずは今できることをやろうと、YouTubeを始めたり、オンライン上でいろいろな人に会ったりして。1年ほどは厳しい状況が続きましたが、その後徐々に仕事が増え、今では歌手活動はもちろん、音楽だけでなくキャリア、闘病、子育てといったジャンルでの講演依頼もいただくようになりました。
──さまざまな経験を経た現在、木山さんにとって「はたらく」とは何か教えていただけますか?
お金を稼ぐためだけでなく、自分を成長させるために不可欠なものだと考えています。仕事を通して困難に挑戦し、周りと協力して乗り越える経験が、自分を豊かにしてくれるんです。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
「努力すれば夢は必ずかなう」とは言いません。夢を実現するには努力以外、運などの自分ではコントロールできない要素もたくさんありますから。でも、なかなか結果が出なかったとしても、あきらめないでほしい。努力した経験は、必ず人生のどこかで役に立ちます。
大切なのは、結果に縛られず「自分がどう生きるか」。描いていた通りに進まなくても、もう一度挑戦しようとする、そのプロセスの中にこそ、生きがいややりがいが見つかるのだと思います。自分を信じ、失敗する自分も許しながら、夢に向かって挑戦し続けてほしいです。
私もまだまだ挑戦の途中ですし、きっとこれからも失敗すると思います。それでもあきらめずに頑張り続けることで、人生がより楽しく、豊かになっていく、と今は考えています。

(「スタジオパーソル」編集部/文:仲奈々 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:小野澤藍)

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