乳がん余命宣告→76歳で神保町よしもとへ。78歳の若手ピン芸人”おばあちゃん”とは

2025年9月25日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

71歳で、日本を代表するお笑い芸能プロダクション・吉本興業が運営するお笑い芸人養成所、NSC(吉本総合芸能学院)に入学。76歳で若手の吉本芸人が挑む劇場のオーディションを勝ち抜き、史上最高齢で神保町よしもと漫才劇場の所属芸人になった、おばあちゃん。

昭和22年、戦後間もない日本に生まれ、物資も学びの機会も限られた時代を生き抜いてきた彼女。38歳で乳がんを患いながらも仕事を続け、78歳となった今もなお、芸人として全国の舞台に立ち、人々に笑顔を届けています。

数々の転機を力強く乗り越えてきたその歩みから、「自分らしくはたらく」ための大切なヒントが見えてきました。

「女に学問はいらない」と言われた時代がまだ残っていた

──おばあちゃんは、どんな時代に生まれ、どんな幼少期をすごされたのでしょうか?

私が生まれたのは昭和22年、戦後まもないころでした。貧しく、とにかく物がない時代でしたね。

うちは兄が一人、弟が2人の4人兄妹でしたが、実はそのあとにも弟が3人生まれているんです。でも、その子たちはみんな1歳になる前に亡くなってしまいました。当時は薬が手に入りにくくて、麻疹や肺炎などで命を落とすことが多かったようです。

食べ物も不足していて、お米に麦を2〜3割混ぜたご飯が食べられればいいほうでした。うちは食べ盛りの男兄弟ばかりで、のんびり食べていると私のぶんがなくなってしまうので、母からは「自分のぶんは先にしっかり確保しなさい」と言われて育ちました。とにかく先に自分の食事を取っていたのを思い出しますね。

でもね。当時の生活は、なんだかんだ楽しかったんですよ。

──楽しかった?

はい。苦しい時代ではありましたけど、どんなものでも家族みんなで分け合って食べる食卓は、団らんの時間で楽しかったですね。

──それでも、当時は女性が大学に行くのは当たり前ではなく、現代とは違う状況ですよね。

そうですね。特に女性は、大学に行くのが当たり前ではありませんでした。
私は小学生のころから、漠然と大学に行きたいと思っていて。身近に大学生の人がいたのもあってあこがれていたんですよ。

ところが母は、「女の子には学問はいらない」という方針で。ちょうど中学3年のときに、「受けるだけ受けさせてください。高等学校に通うとなれば奨学金が出ますから」と先生がわざわざ家に来てくださったのですが、母は「受かったら困るから、受けさせない」と。「ああ、だめだな。中学を卒業して就職しないと」と、あきらめざるを得ませんでした。だから私は中学を出て、すぐに就職しましたね。

──はじめての就職先では、どんなお仕事をしていましたか?

南極観測船に載せるレーダーや富士山頂に設置する特殊機器などを取り扱う、無線会社の事務職に配属されました。私は現場事務という立場で、部品の調達のスケジュールを調整したり、納期を確認したり。従業員のタイムカードの集計なんかもしていました。

ただ、仕事に取り組む中で「このままの仕事を続けていてはいけない、もっと学んで専門的な知識を身につけたい」と思うようになりまして。最終的には職業訓練校に通い、転職を決意しました。

──当時はあまり職業訓練や転職をする人が多い時代ではなかったと思いますが、それでも入学や転職を決断できた理由を教えてください。

女性がはたらき続けるには、専門的な職に就いていなければ難しい時代でした。特別な技術や、優れた知識がなければ、正社員として長くはたらくことが本当に厳しかったんです。

勤めていた会社は安定してはいましたが、社会全体が“女性”というだけで待遇があまり良くありませんでしたし、結婚すれば退職するのが当然とされていました。25歳を過ぎても会社に残っている女性は少なく、周囲からの風当たりも強かったですね。

だからこそ、自分の力で専門的な技術を身につけて、どこでも通用する人間になろうと決意したんです。

それに、子どものころから「ものの仕組みがどうなっているのか」を考えるのが不思議と好きで。「どうしてここに穴が開いているんだろう?」といったことを、よく考えていましたね。そんな好奇心もあって、職業訓練校では「トレーサー」と呼ばれる技術職の資格を取ることにしました。トレーサーとは、設計士やデザイナーが作成した図面や原図を正確に清書し、完成された図面に仕上げる技術者のことです。

ただ、職業訓練校を卒業した後は、親の紹介で結婚することになりまして、9年ほどは専業主婦をしていたんです。そこから仕事を再開したのは、33のとき。当時は子どもがほしかったのですがなかなかご縁には恵まれず、夫も出張が多く一緒にすごす時間をあまり取れなかったため、私自身も気持ちを切り替えて、もう一度仕事を始めてみようと思ったんです。

そこで職業訓練の経験を活かして、大手造船所の子会社の設計部に正社員として就職しました。そこからは31年間、64歳まではたらかせていただきましたね。

乳がん余命宣告→71歳でNSCへ。大好きな演劇を学びたかった

──造船所ではたらいて5年経った38歳のときに、乳がんを患ったとほかのインタビュー記事で拝見しました。

38歳になるまで、大きな病気は一度もしたことがなかったんですが、ある日、左腕にピリピリとしたしびれのような違和感が出てきたんです。次第に食事も喉を通らなくなり「これはおかしい」と思って保健所に電話したところ、「すぐに病院に行きなさい」と言われました。

当時は、がんの診断を本人に告知しないのが一般的だった時代でした。直接病名は告げられませんでしたが、病院から「ご家族をすぐに呼んでください」と言われたんです。あとから知ったのですが、夫は医師から「ステージ4で、1週間もつか、1か月もつか分かりません」という深刻な宣告を受けていました。私は8キロにも及ぶ胸の切除を行う大手術を受け、いったんは回復したものの、その後がんが転移し、6年の間に再発を2度経験します。

仕事を続けながら治療を受けていたのですが、抗がん剤の副作用が本当にきつくて、立っているのがやっとという日もありました。通勤の電車では手すりにつかまっていないと耐えられませんでしたね。会社では気が張っているから動けるんですが、駅で電車に乗った瞬間、一駅乗るだけでもうガクッと疲れが出てしまうんです。

そんな闘病生活を約5年間続けて、ようやく完治に至りました。この経験を通して、「人間、いつ死ぬか分からない」と、身をもって実感しましたね。

──完治された後も、64歳まで同じ会社ではたらき続けたんですね。

本当は60歳の定年で辞めたかったんですが、「人が足りないから」と言われて、定年後も数年はたらき続けました。でも、64歳のときに膝の骨が壊死してしまって。歩いていたら足がガクッとなってしまったんです。それでようやく辞めることになりました。

その後、膝の手術をしてプレートを入れ、ボルトで固定して……リハビリには2年ほどかかりましたね。

それでもね、65歳ごろから杖をつきながら、鎌倉や横浜など、神奈川県内の劇場をあちこちまわっていたんです。とにかく毎日、いろいろなところへ行っていました。

──膝が悪いのに、歩きまわっていたんですか!

そうなんです(笑)。横浜の劇場を観に行ったのがきっかけだったんですけど、実際に観たらもうすっかり演劇に惹かれてしまって。

やっぱり「生」の舞台っていうのはすごくいいんですよ!自然に涙が出て、感情があふれ出てくる。定年後から観劇が大好きになっていきました。

──その後、71歳で吉本興業(以下、吉本)が運営するお笑い芸人養成所・NSC(吉本総合芸能学院)に入られたそうですが、きっかけを教えてください。

学生のころから、みんなが考えてもいないようなことを口にしては笑っていたような気がします。中学校の先生に「そんなにいつも笑っているなら吉本に行きなさい」と言われたこともありました。部活でも演劇をしていましたし、思えば、それらが吉本に入る最初のきっかけだったのかもしれませんね。

実は定年後もシルバー劇団で少し活動していたんです。ただ、当時は劇団で使われる専門用語もよく分からなかったし、基礎もちゃんと学んでいない状態のままだったので、「次はきちんと基礎から学びたい、もっと演劇を知りたい」という想いがずっとあったんです。

そこから、演劇を学べる場所をいろいろ調べてみたものの、応募条件には「25歳未満のみ」と年齢制限があるところばかりで。運良く私の話を聞いた友人の息子さんが調べてくれて、友人がある日、薬の紙の裏に電話番号を書いたものを渡してきたんです。それが、NSCの電話番号だったんですよ。

当時は芸人になりたいというより、舞台用語を学びたいという想いでNSCに入りました。

──いざNSCに入ってみて、いかがでしたか?

NSCでは、若い人たちと一緒に授業についていくのが本当に必死でした。

羞恥心を捨てるためのダンスの授業があって、その中で腹筋を100回やらなきゃいけない場面があったんです。でも、私にできるはずがない(笑)。

しかもグループでやるんですけど、一人でも間違えると最初からやり直しになるんですよ。連帯責任の申し訳なさもあって、先生に「すみません、ちょっと私は……」と伝えたら、「じゃあ、そこで寝ていていいよ」って。それで、みんなが腹筋をしている間、私は横になって、横目でチラチラ周りの様子を見ながら授業を受けたこともありました。

そんな中でも、NSCでは若手の芸人さんたちがみんな優しくて、分からないこともていねいに教えてくれたり、助けてくれたりして。どうにか、みんなのおかげで無事に卒業できました。

NSCを卒業したあとは、普通はみんな吉本興業に所属してお笑い芸人として活動を始めます。でも、スマホも使えないしこれ以上若い人たちに迷惑をかけたくないと、私は卒業後も吉本の事務所に所属するための契約書を出さなかったんです。

すると吉本の社員の方が、「それだけの理由で契約しないの?」「じゃあ私たちが協力するから」と言って、契約書を一緒に書いてくださって。芸人として吉本興業に所属することになりました。まさか自分が所属できるなんて思ってもいなかったです。

「会いたい」と思ってもらえる幸せ。体が動くまで続けたい

──吉本興業に所属し、現在はどのようなネタやお仕事をされているのか教えてください。

NSCに講師としてお世話になった構成作家さんに、「おばあちゃんの場合は、人を笑わせようとしなくていい。自分が楽しんでやれば、それがちゃんと伝わるから」と言っていただいたんです。

それからは、自分の体験をベースに「シルバー川柳」としてネタをつくり、自分のペースで活動しています。

その積み重ねが実を結んだのか、76歳のときに神保町よしもと漫才劇場のオーディションで、選抜メンバーに選ばれたんですよ。劇場史上最高齢だったそうです(笑)。たぶん、“はじめて見るおばあちゃん芸人”という新鮮さやギャップのある面白さに加えて、私自身も楽しんでいる姿が見る人にも伝わったのかもしれませんね。

現在は劇場の選抜メンバーではありませんが、高齢者施設などから営業で呼んでいただく機会が多いです。

昨年、ある施設に伺ったときに印象的なことがあって。車椅子に乗っていて、話すことも動くこともできない方が、「おばあちゃんに会いたい」と職員さんにお願いして来てくださったんですよ。その方の近くまで行ってお顔を合わせた瞬間、それはもう本当にうれしそうな表情をされていて。思わず涙が出そうになりました。「ああ、私はこうして誰かに会いに行くために、この仕事をしているんだな」と、あらためて気付かされましたね。

だから、私の足が動く限りは、呼んでいただける場所にできるだけ出向きたいんです。78歳になった今も、地方営業などへたくさん行かせていただいています。

──戦後、女性がはたらくのが大変な時代に生きたおばあちゃん。今の若者に伝えたいことはありますか?

まず、「会社が悪い」「人のせいだ」と環境に責任を押しつけないこと。どんな状況でも、自分が努力していれば、いつか花が咲くときが来ると思います。

はたらけること、生きていられること自体がありがたいことなんですよね。若いうちはたくさん転んでも良いし、やり直しだってできます。

それに、年齢を重ねてからでも挑戦はできるんです。むしろこの歳になると、周りが呆れながらも応援してくれますよ(笑)。

一生に一度きりの人生ですから、遠慮せずに、自分のやってみたいことに挑戦してみてほしいですね。

──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?

はたらかないと食べていけない。でも、せっかくならはたらくことを「楽しく生きるための手段」として前向きにとらえてみてほしいです。

まずは、自分が夢中になれる好きなことを見つけてください。たとえば、本が好きでも、おしゃれが好きでも、おしゃべりが好きでも、なんでもいいんです。少しでも気になるなら、ちょっと突っついてみる。

そして、仕事でも趣味でも、何事も“楽しさ”を忘れずにのめり込んでみてください。どんな経験も無駄にはなりません。きっとどこかでつながっていきますよ。

(「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆  編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆)

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ライター朝川真帆
フリーランス取材ライター。住宅系コミュニティマネージャーとしても活動中。2021年、新卒でコンビニの会社に入社し、数年後結婚を機に上京・退職。2023年に取材ライターとして独立した。現在はキャリアや事例導入、グルメなどのジャンルをメインに執筆中。フジロックのファンサイト、フジロッカーズオルグでもライターとして活動中。管理栄養士資格を持っている。関西出身。

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