町中華の息子→歌舞伎町No.1→通販で1日2億円。それでも城咲仁が厨房に戻った理由。

2025年9月9日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

今回お話を伺ったのは、元歌舞伎町No.1ホストの城咲仁さん。実家のラーメン店「丸鶴」を飛び出し、極貧生活の経験を経て、トップホストに君臨。その後も芸能界での挫折、テレビショッピングでの再起、そして「丸鶴」の味の継承など、その歩みはまさに波乱万丈です。

何度も困難に直面しながら立ち上がってきた城咲さんに、不屈の精神を持った人生の歩み方と、自分らしく生きるためのヒントについて話を伺いました。

実家を飛び出してはじまった極貧生活「キャベツをかじって生きていた」

――城咲さんのこれまでのキャリアについて教えてください。

もともと実家が「丸鶴」という町中華を経営していたんですが、ぼくはまったく継ぐ気がなくて、大学に行くのもまどろっこしく感じるほど早く社会に出たいと思っていました。

でも、高校の卒業が近づいてきたころ、それまで何も言わなかった親父が急に「店を継いでほしい」と言い出したんです。ぼくはただただ「冗談でしょ?」と。当時のぼくから見た親父は朝から晩まで身を粉にしてはたらき、休みの日もお店の仕込みをしていて、家族と過ごす時間なんてほとんどなかった。あんなはたらき方は、到底できないと感じていたんです。

それで18歳のときに親父と大喧嘩をして、最後は手紙だけ置いて、家を飛び出しました。親子の縁を切るくらいの覚悟でしたね。

――高校を卒業してすぐ家を出るのは大変な覚悟だったと思いますが、そこからの生活は順調でしたか?

いえ、とんでもない。最初はバーテンダーとしてはたらいていましたが、お金が全然なくて、本当にひどい生活でした。なけなしのお金でキャベツを一玉買ってきて、それを何日もかけてかじって飢えをしのいでいたくらいです。

お金がないから家賃を払うので精いっぱいで、電気もガスも止められて。「水道だけは止められたら終わりだ」と死守しましたけど(笑)。「俺は一人で生きていける」なんて偉そうなことを言って家を出てきたのに、現実は十分にご飯も食べられない状態。そのときの情けなさは今でも忘れられないですよ。本当にかっこ悪かった。

そんなある日、バーテンダーとしてはたらいていたお店のお客さんとのご縁がきっかけとなり、21歳でホストの世界に飛び込むことになったんです。

周りと「違う」ことを武器に。歌舞伎町No.1ホストの“自分らしさ”の活かし方

――未知なるホストの世界に飛び込むことを決意されたんですね。

実は20歳になったときに、バイト先の常連さんにホストクラブに連れて行ってもらったことがあって。そこで接客を受けて、「ホストってこんなにも紳士的なんだ」とイメージがガラッと変わっていたんですよね。

それに、ホストは頑張ったぶんだけ収入が上がる。「とにかくこの状況から抜け出したい」「腹いっぱい飯が食いたい」という、怒りにも近いエネルギーが常にあったぼくは、ここで高収入を得ようと意気込みました。そして、入社2カ月でNo.1になったんです。

――たったの2カ月でNo.1に!それは異例のスピードなのでは?

そのお店では前代未聞だったようです。でも、当時そのお店には、努力せずに現状に甘えている人がすごく多かったんですよ。指名もないのに待機席でタバコを吸って、ただ時間が過ぎるのを待っている。「なんて自分の人生を無駄にしているんだろう」と、もったいなく思えたんです。

チャンスが転がっているのなら自分で探しに行けばいい。そう考えて、まずは周りのホストと「逆のことをやろう」と決めました。

――逆、ですか?

当時の歌舞伎町のホストは、みんな似たような格好で、胸元までシャツを開けてチャラチャラしている印象の人が多くいました。だからぼくは、シックなスーツにネクタイをきっちり締めて、日焼けもせず、ピアスも開けなかったんです。周りと同じことをすると埋もれてしまうので、逆のことをすれば目立つだろうと。

さらに接客も差別化しました。足を組まない、お客さんの前でタバコは吸わない、ボディタッチもしない。そして何より大きかったのが、「色恋では勝負しない」と決めたこと。お客さんと体の関係も持たないし、お店の外で1対1で会うこともしない。自分を律するためにも、最初にマイルールを徹底的につくったんです。

そして、誰よりも早くお店に来ました。毎日、出勤の4時間半前にはお店に着き、街へ出て男女問わず、相手が1人でも団体でも、とにかく片っ端から声をかけていきました。「お疲れさまです、歌舞伎町のホストをやっている城咲と申します」ってね。

――相当な努力をされたのだと感じます。しんどさはありませんでしたか?

体力的にはキツかったですよ。遅くまでお酒を飲んで、翌日は体が震えるくらい体調を崩していても、お店ではそんな顔は見せられない。そんな状況を乗り越えられたのは、根底に「楽しい」があったからですね。お酒も好きだし、しゃべるのも好きだし、スーツを着て人を笑わせる“城咲仁”としてはたらくことがかっこいいと思えた。だから自然と努力できたんだと思います。

一度逃げてもやり直せる。城咲仁が「丸鶴魂」に見出したやりがい

――歌舞伎町No.1の座に上り詰めた後、28歳でホストを引退して、2005年には「元カリスマホスト」という肩書きで芸能界に進まれたのはなぜだったのでしょうか?

ある種の“恵まれすぎている恐怖”を感じるようになったんです。街を歩けば自分の看板だらけで、お客さんのほうから「お店に伺ってもよろしいでしょうか」と電話がかかってくる状況に、正直、少し気持ち悪くなってしまって。たまたま芸能事務所の方からお声がけいただいて、「次の世界へ行こう」と決断しました。

ただ、芸能界では大きな挫折も経験しました。ドラマ出演を巡るトラブルで仕事がどんどんなくなっていって、テレビショッピングの仕事以外はほとんどない時期があったんです。そのときは、生活のためにはじめて銀行で50万円をキャッシングしました。「この年齢でまたキャッシングか……」と落ち込みましたね。

――そんな不遇な時代を過ごされていたにもかかわらず、今やテレビショッピング業界でトップクラスのバイヤーになられています。どうやってここまでたどり着かれたのですか?

バラエティー番組に居場所がなくなっても折れなかったのは、「“あの時”に比べればまだ大丈夫だ」と思えたからですね。実家を飛び出してキャベツをかじっていたころに比べれば、まだマシだ、と。できれば不幸な経験はしないほうがいいですけど、そういう経験が後々の自分を強くしてくれるんだと思います。

バイヤーの仕事を始めたのは、タレント業をスタートしてすぐのころに依頼されたのがきっかけです。最初はタレントとしてテレビショッピング番組に出演していましたが、次第に商品の選定・企画・開発にも深く関わるバイヤーとしての役割も担うようになりました。台本に頼らず自分の言葉で商品の背景やストーリーを伝えるスタイルで、そこからずっとテレビショッピングの仕事は続けています。徐々に結果が出せるようになり、自分なりに試行錯誤をして1日2億円を売り上げたのがこれまでの最高売上額です。ホスト時代に学んだトーク力が、商品を売るときにも活きていますね。

――そしてキャリアを重ねる中で、再びご実家の「丸鶴」と向き合われたのはなぜだったのでしょうか?一度は反発して飛び出したお店に戻るのは、簡単なことではなかったと思います。

縁を切るつもりで家を飛び出したので、正直、最初はためらいました。でも、その背中を押してくれたのが「この味を残せるのって、あなたしかいないよね」という妻の一言でした。その言葉で、目が覚めんです。

社会に出て外食する機会が増えてやっと、あらためて親父の料理の味の良さに気付いて。この味を残さなければいけないかも、とも思い始めていた時期だったんですよね。

そこからお店に戻り、実際に親父と一緒に厨房に立ったときは感慨深かったですね。18歳で「やりたくない」と言って飛び出した場所に、47歳になって戻ってきた。遠回りはしましたけど、逃げずにちゃんと向き合ったから、また親父と肩を並べて厨房に立てました。父親と一緒にはたらいたその時間は何物にも代えがたいものでした。

59年間続いたお店は2024年12月に閉店しましたが、父親と一緒に厨房に立った約2年間で、その味は確実に受け継ぐことができました。親父が命を懸けてきた味を、ここで絶やすわけにはいかない。今は「丸鶴魂(まるつるソウル)」という名前で、看板メニューだった「丸鶴炒飯」を冷凍で販売しています。ぼくがこの味を、次の時代につないでいでいく番ですから。

59年の歴史に幕を下ろした町中華「丸鶴」の看板メニュー「丸鶴炒飯」はオンラインショップ「丸鶴魂」にて販売中。

はたらくとは「情熱を注げるもの」を見つけること

――城咲さんのお話からは、どんな状況からでも道を切り拓けるという希望を感じます。ただ、今の仕事に面白さを見出せず、「この仕事は自分に合っているのだろうか」と悩む若者も多いです。

「合っている」「合っていない」を考えすぎなのかもしれませんね。「自分に合っている仕事」なんて、そうそうないと思うんです。ぼくだって、今は仕事が充実していますが、世の中にはもしかしたら今よりもっと自分に合う仕事があるかもしれません。でも、そんな可能性をただ頭で考えるよりも、実際にやってみて情熱が湧くかどうか、夢中になれるかどうかのほうがずっと大事です。

現在はさまざまな商品開発や全国各地での講演活動も行っている

――「やりたいこと自体が分からない」という声もよく聞きます。

やりたいことを見つけるには、まずは何か行動を起こすのがいいと思います。たとえば、行く気のなかった会社説明会や興味のない業界イベントにも、誘われたならまずは行ってみる。案外そこにで答えがあるものです。ぼくは今でもさまざまな職種の人に意識的に会うようにしています。意外なところで新しい発見や学びがあるのでおすすめですよ。

それと、もし今の職場を辞めることを考えているなら、「まずはここで何か一つ成功しよう」と思って行動してみること。「今月だけはノーミスでやってみよう」「最後に上司から一言でも褒められてから辞めてやろう」と考えたほうが、気持ちの切り替えもうまくいくし、結果的に成功体験を持って次のステージに進めると思います。

――なるほど、辞めることすら前向きな成功体験にしてしまうんですね。最後に、「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするためにアドバイスをお願いします。

「はたらいている」という感覚を、一度取っ払ってみるのはどうでしょうか。「給料をもらうためにはたらく」じゃなくて、「24時間を楽しく生きる」に意識を向けるんです。生きるための1つのツールとして仕事がある、くらいの感覚でいいと思います。

ぼくが20代のときにホストで成功できたのは、やっぱり、楽しかったからなんですよね。

逆に言えば、情熱を感じられない仕事に100%の力で向き合う必要はないと思います。今の仕事に情熱が感じられないなら、仕事は3割ぐらいの力でこなして、自分が本当にやりたいことを見つける時間をつくったほうがいい。割り切って、「メシ食わなきゃな、電気代払わなきゃな。だから、はたらいておこうか」——このくらいの感覚で十分ではないでしょうか。

大事なのは、情熱を注げるものを見つけること。それが見つかって夢中になれれば、きっと楽しくはたらけます。

(「スタジオパーソル」編集部/文:間宮まさかず 編集:いしかわゆき、おのまり 写真提供:城咲仁さん)

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ライター/作家間宮まさかず
1986年生まれ、2児の父、京都在住のライター・作家。同志社大学文学部卒。家族時間を大切にするため、脱サラしてフリーランスになる。最近の趣味は朝抹茶、娘とXGの推し活、息子と銭湯めぐり。
著書/しあわせな家族時間のための「親子の書く習慣」(Kindle新着24部門1位)

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