58歳の教頭先生が、カープの編成部に。異業界への挑戦はなぜ実現したのか
定年間際で飛び込んだプロ野球の世界
58歳にして高校の教頭先生から、子どものころの憧れだった広島東洋カープの球団職員の一人となった土井 一生(どい かずお)さん。
土井さんが所属するのは、チーム戦力の底上げを計る『編成部』。ほかのチームの戦力分析や選手の動向などを探ったり、自チーム選手のさまざまなデータを集約解析してチームの戦力アップを図る、重要な役割です。
定年間際でまったくの異業界に転身し、カープでの新たなキャリアをスタートした裏側には、どんな人生模様があったのか。土井さんにお話を聞きました。
“へそ曲がり”だった少年時代
土井さんが生まれ育ったのは、佐賀県にある人口7,000人ほどの田舎町。
「小学生の男子の遊びといえば、野球か相撲かのどちらかでした。野球をしていると、みんなが巨人選手の真似をする中で、自分だけがカープの三村(敏之)選手とかの真似をしていました」
1970年代、プロ野球といえば巨人一色。周囲の友だちも巨人ファンばかりでしたが、そんな中で土井さんがカープを好きになった理由はというと……。
「私の志向が、ちょっと人とは違うと言いますか、少しへそ曲がりなところがあって(笑)。どんなに一生懸命やっても、なかなか勝てないのが、当時のカープ。負けながらも全力を尽くす選手たちの姿に、何か魅かれるものがあったんだと思います」
プロ野球が大好きな土井少年でしたが、それを将来の仕事にしようとは思えなかったそう。小学生の時に授業で書く『将来の夢』についての作文も、一向に筆が進まなかったと言います。
「『プロ野球選手になりたい』と、当時の小学生がよく書くありきたりなタイトルをとりあえず付けてはみるのですが、ちょっと遠い夢に感じたというか、まあ、昔の小学生の将来の夢No.1はプロ野球選手でしたからね。
悶々と作文用紙の前で悩んでいた時、その姿を父親に見られてしまい……。『何がプロ野球選手だ!そもそもテーマが悪いから書けないんだ!』って、激しく怒られました」
土井さんの父親の職業は、教師。非常に厳格だったこともあって、土井さんは「高校、大学を出たら安定した仕事に就け……というようなプレッシャーを、子どものころから強く感じていた」そうです。
そんなレールを敷かれた人生への反発心からか、「当時は、父親と同じ教師だけには絶対になりたくなかった(結局は同じ道を辿ることになるのですが…)。ただ、父が学校のみならず地域でも信頼され、また家族のために心血注ぐ姿を見ていて、実は内心尊敬していたのです」と話します。
生徒と一緒に悩み、ともに成長した教員時代
小学校から高校までは地元の学校に通った土井さんでしたが、高校卒業後、4年間だけ上京させてほしいと父親に頼み込み、東京の私立大学の工学部へと進学しました。
「大学に入って勉強を重ねていく中で、数学という学問のすばらしさに気付きました。しかし、中学や高校では、数学はあまり人気がない科目。数学の面白さを、もっと伝えたいと感じたんです。『数学で勝負してみたい。教師として、数学を教えたい』と思いました」
大学を出てからは、1年の臨時教員の期間を経て、佐賀県の公立中学校・高校の数学・電気科の教師として赴任。教師として一生をまっとうする気持ちで、教壇に立ち続けました。教師生活では、『できる子』よりも『頑張っている子、悩んでいる子』のことを気にかけていたそう。
「できる子は、放っておいてもできる。それならできない子の力になりたいと、当時は考えていました。でも、教師生活を続けていくうちに、どの子にでもそれ相応の悩みや葛藤があるのだということに気付きました。そもそも『できる』『できない』という視点そのものが間違っていました」
土井さんは、人の悩みや、相手が求めているものがなんなのかを感じ取るには、話を聞く自らの姿勢がとても重要で、それはどんな仕事や立場にも通ずる大切なことだと言います。
「人の話を真剣に聞くこと。話を聞いている最中に、その答えを頭の中で考えていてはダメ。まずは最後まで話を聞き、相手が心から欲しているものは一体何なのかを理解して、そこから必要な答えや情報を返すこと。聞く力は、現在の職場でも大切にしていることです」
子供たちと同じ目線で一緒に悩み、解決の道を探していく教師生活。土井さん自身も多くのことに気付き、成長してきました。
失意と決意
30年以上の教師生活を続けてきた土井さんですが、実は、カープに転職する前に、一度だけ転職活動をしたことがあります。
「40~50代にかけて、学校の現場を離れ、12年間教育委員会で仕事をしていたことがあります。生徒ではなく大人が相手となる仕事に、“やりがい”というものへの気持ちが迷走していたのかもしれません。ぼんやりと、別の教育の場に挑戦できないかと考えるようになりました」
転職サイトの求人情報をなんとなく眺めていた土井さん。そして53歳の時、初めてある求人に応募しました。
「募集年齢は50歳までとありましたが、まあ出すだけ出してみようと書類を郵送してみたんです」
その求人とは、観光や調理系の専修学校で、情報系の授業を行うという仕事。筆記試験、面接、模擬授業と話はトントン拍子に進み、最終試験の後には校内の見学までさせてもらい、土井さんにとってはとても魅力的な学校だと感じたうえに、「これは案外採用してもらえるかも」と思ったと言います。
しかし、2週間後に届いた結果通知には並んでいたのは、「不採用」の文字でした。
「正直、勝手に期待を高めてしまっていただけに、ショックでした。明確な理由はわかりませんが、不採用を告げられたという事実そのものよりも、何か自分というものが社会からNOを突きつけられたような気になって少々落ち込みました。同時に、当時よく報道等で耳にした『就活生が何社も不採用になると人格否定されたような気持ちになる』という言葉が垣間見れるような気がしました。
翌年度、学校へ転勤となり転職への気持ちは薄らいでいたのですが、今度は、定年後には何か新しいものに挑戦できたらという気持ちが出てきました。業種がまったく変わったとしても、何か挑戦させてくれるところがあれば、その時はチャレンジしてみよう、と」
運命の電話
その後、定時制高校の教師として教鞭を執っていた土井さん。58歳の時、再び転職のきっかけが訪れます。
時間がある時に、時々ぼんやりと眺めていた転職サイト。ある時、思いがけず『広島東洋カープ』の文字が、土井さんの目に留まります。
「これは!と思いましたね。そこに載っていたのは、グッズなどの販売管理の求人でした。ただ、自分は経理や簿記などの経験も資格もなかったので、縁遠い話だと感じました」
そうは思いつつも、求人への応募は、誰もがワンクリックで行うことができます。相手にされるはずないだろうと思いながらも、軽い気持ちで応募のボタンをクリックしたそう。
そして応募から数週間経っても、自身の予想通り、球団からの連絡はありません。応募したことすら忘れていた、ある日。土井さんの携帯電話に、突然球団から電話がかかってきました。
「『然るべき者から改めてお話をしたいので、時間をとって電話ができる日時を決めたい』という、前振りの連絡でした。後日、再度お電話をいただいたのですが、出だしで『販売管理の募集は、ちょっと土井さんには当てはまらないということになりましたので、そこはちょっと残念ながら』と告げられました」
わざわざ不採用の連絡をかけていただいたという気持ちで、その時は淡々と話を聞いた土井さん。しかし、次の言葉で話は急転します。
「『実は、土井さんのご経歴を見てたら、数学の統計学の知識を活かして、投球、打球の計測とかデータの分析とかやっていただけるんじゃないかと思って』って言われて。そこで、ぶったまげましたね、正直。えっ!ちょっと待ってください。それ本当の話ですか⁉って」
球団から土井さんへの打診は、チーム戦力分析のための新システムの導入にともなう、数値解析の仕事。統計学は、土井さんの得意分野でした。
「思ってもみなかった話です。定年を過ぎるまで別の世界に飛び込む気はあまりなかったのですが、子どものころに憧れたカープからの話には、やはり心が動きました」
電話の中では「現在の仕事の都合もあるだろうが、いつから広島に来られるか」といった話まであったそう。季節は春、新学期が始まった直後の電話でした。
「4月の新学期がスタートしてすぐに辞めますというのは、学校の現場や教育委員会、生徒、保護者にも迷惑がかかりますから、少し猶予がほしいと思い『学校は1学期という区切りがあるので、7月に1学期が終わって8月に引き継ぎ。猶予を考えると9月からでもいいですか』とお伝えしました」
その電話から数日後、土井さんは誰にも告げず一人で広島を訪れ、球団事務所で面接を受けました。その場で入社条件も提示され、『これは採用してもらえるのでは』という感触があったそうです。
佐賀に戻った土井さんは、数日後に内定の電話連絡をもらい、カープへの転職を決意。そして、家族に自分の心を打ち明けます。
「私はビールを飲みながら、台所で料理をしている妻の背中に向けて『実は、カープの面接を受けて、採用が決まった』と、そこで初めて転職活動をしていたこと、カープに転職をしようと思っていることを、一気に告げました。
妻は、『はあ?!』と驚いた声を発してからは少し沈黙しました。固唾を飲んでいると『いいよ、なんとかなるよ。どうせあと少しで定年退職だしね。私も広島に遊びに行けるし』と言ってくれたのです。佐賀で生まれ育ち、ずっと佐賀で過ごしてきた妻にとっても、少し世界が広がる話だったのかもしれません」
家族の許諾を得た土井さんは、学校にも退職の意向を伝えました。
「教員が年度途中で辞めることは、病気等以外ではなかなかないことなので、申し出るには結構勇気がいりました」
しかし、校長は冷静な対応で、土井さんの気持ちをしっかりと聞いてくれたのこと。
「異例のことなので、教育委員会に対しても多々手順が必要なんですが、私の意向に沿えるように取り計らっていただき、校長には感謝しかないです。
生徒たちには『君たちは卒業して次の進路に到達する。毎年それを見届けるのが自分の夢だったけれども、ごめんなさい。その夢を半ばにして、先生は新しく見つけた自分の夢に走ることにしました』という話をさせてもらいました。
生徒からは『頑張ってください』と声をかけられましたね。思えば、長い教師生活で生徒から『頑張ってください』と言われたのは初めてだったかもしれません」
安定した職種から定年間際での転職について、多くの人が応援してくれる中、変わり者の目で見られたり、なにか問題でもあったのかと、距離を置いて話をされたりすることもあったそう。しかし、土井さんにとってのこの転職は『憧れに近づく転職』。胸を張って、新たな一歩を踏み出しました。
数値と、人の想いを融合して
子供のころからの憧れであり、58歳からのスタート地点として選んだカープでの仕事は、2021年9月から始まりました。
「最初は、これまでやってきた仕事の流儀が、全部ひっくり返り戸惑うことも多々ありました。一つひとつの仕事に時間がかかってしまい、迷惑もかけたと思います。しかし、職場のみなさんに丁寧にフォローしていただけて、本当に感謝しています」
現在は2022シーズンに向けて、新たな統計・分析手法を導入するテイクオフ段階。キャンプやシーズンが始まれば、ピッチャーの球速や投げたボールの回転数、バッターがスイングした軌道やスピードなどの計測値から導き出される有用な情報をスコアラーに伝え、裏方としてチームを支える土井さんの仕事が本格的に始動します。
「解析した数値を、選手個々の想いや感覚と融合させて、より有用なデータにしていきたいと考えています」
人と向き合い、話をして、数値だけでは成しえない人間味のある分析やアドバイスをする──。土井さんは、教師時代に大切にしてきたことを、これからのカープでの仕事に活かしたいと意気込みます。
また、子どもたちの悩みをともに考え歩んできた経験から「若い選手の将来を見据えた、生きる力を育む手伝いをできたら」という、さらなる目標も持っているそう。
2月1日、各球団は一斉キャンプインを迎えます。
58歳のルーキーは、プロ野球の世界でどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。
(文:石川淑直 写真:福角智江 *撮影時のみマスクを外しています。)
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