かつて日本最大の駄菓子屋問屋街だった日暮里で、たった1軒になっても「大屋商店」を守り続ける理由

2022年1月13日

お店に入ると、優しくて気さくなおばちゃんが「あらいらっしゃい」と迎え入れてくれる。そこには色とりどりのお菓子やジュース、おもちゃがあって、限られたお小遣いの予算内に収まるよう、必死に計算してそれらを手に取っていく……。子どものころ、そんなわくわくキラキラとした気持ちで、駄菓子屋さんに通ったという方も多いのではないでしょうか。

今回お話を聞いたのは、そんな駄菓子屋さんにお菓子を卸す東京 日暮里の駄菓子問屋「大屋商店」の店主、大屋律子さん。昭和16年生まれ、80歳の大屋さんが東京へ出てきた65年ほど前、日暮里には160軒もの駄菓子問屋があり、賑わいを見せていました。そんな日暮里も、現在営業を続ける駄菓子問屋は「大屋商店」1店舗のみ。なお駄菓子を求めてやってくるお客さまのために店舗に立ち続ける、大屋さんと「大屋商店」、そして駄菓子や業界の今に迫ります。

焼け野原から始まった駄菓子問屋街。最後の1件を守る大屋さん

――初めて「大屋商店」に伺ったのですが、とてもキレイなビルに入っていて驚きました

そうでしょう。約15年前に日暮里駅前が再開発になってね。このビルが建つと同時にこちらに移ったんですよ。もともと戦後は、この近辺にはなんにもなかったんです。第二次世界大戦でぜーんぶ焼けてしまって。そこから少しずつ人が集まって、一番賑わっていたときは駄菓子屋にお菓子を卸す駄菓子問屋が160軒くらいあったのよ。

――なぜ焼け野原だった日暮里に、駄菓子問屋街ができあがったのでしょうか?

うーん、なんでだろうね、もうね、何もないからみんなで集まって何かやるしかなかったんだと思いますよ。駄菓子問屋街なんて言ってもね、今あるような「駄菓子」を扱っているお店がたくさんあったわけじゃないんです。あめ屋、せんべい屋、饅頭屋、柏餅屋……。地方から果物を仕入れて、りんごやみかんを扱っている店もあったね。

でも残っているのはうちだけ。どうしても高齢化問題があったり、後継者がいないからお店を辞めるしか道がなかったりしたんでしょうね。うちは息子の嫁が上手に切り盛りしてくれている。ありがたいですよ。

――大屋さんご自身はいつごろからこのお仕事をされているのですか?

私はね、住み込みではたらく働くために、15歳で日暮里に出てきたんだよ。集団就職って知ってる?戦後、地方に住んでいる人は集団で東京で就職をしたの。もともとは栃木の山のほう出身なの。出てきた当初は大屋商店ではなくて、別の菓子問屋ではたらいていました。その後、近所にあった「大屋商店」の店主と結婚して、それから58年、ずっと一緒にこの店を守ってきました。旦那は5年前に他界しましたが、今も「おばちゃん、おばちゃん」と店を訪ねてくれるお客さまがたくさんいるのがうれしくて。私はこの先もずっと、この店を続けていきたいと思っていますよ。

壁には大屋商店2代目店主だった旦那さんとの写真が並ぶ

以前とは変わった「駄菓子問屋」のありかた

――現在は一般のお客さまが「懐かしの味の大人買い」を求めてやってくると伺いました。

そうね。今は大半が一般のお客さま。おっしゃるように「大人買い」をしにいらしてくださる方もいるけれど、結構多いのは保育園や学童の先生。子どもたちのおやつを買いにきてくれるんですよ。ここならまとめ買いができますからね。

駄菓子って、小分けでスーパーやコンビニでも買えるようになったでしょう?でも人数が多いところで渡したいのなら、卸し用の大袋が役に立つわけ。最近は病院で注射を頑張った子どもへのご褒美とか、自治体が開催する小さなお祭りで使いたいって購入されていく自治体の方もいらっしゃいます。ほかにも福祉の方、子ども食堂とか……。

――今、街の駄菓子屋さんに卸しているのはほんの一握りなのでしょうか?

そうねえ……。今は残念ながら、駄菓子屋さん自体を畳む方が多くて。卸している駄菓子屋さんは、もう十軒あるかないかになってしまいましたね。そのうち、私の代からずっとお取り引きがあるのは1軒だけ。そのほかは仕事を引退して駄菓子屋始めました、とか。

駄菓子はほとんど利益が出ないものだから、駄菓子屋さんは身銭を切って経営しているところも多いんですよ。東京で「街の駄菓子屋さん」ってほとんど見かけなくなってしまったでしょう? 皆さんが見かけないということは、私たちの卸し先もなくなってしまっているということ。

少し昔の話をするけれど、全盛期は500軒ほどのお取り引きがあったんですよ。もう寝ずに仕事したの。営業時間は朝4時~21時。当時は関東全域からお客さまが来てたんだけど、群馬や栃木のお客さまなんて朝4~5時には「すみませーん、駄菓子仕入れに来ました」って来るのよ。早朝に仕入れて、群馬や栃木に帰って午前中から売り始めるにはそうするしかないのよね。だから駄菓子問屋はそれより早くから店を開けていないといけない。

夜もね、親が駄菓子屋をやっている息子や娘が、親に頼まれて仕事帰りに仕入れに来るのよ。だから19時、20時くらいまでは店を開けていなきゃ……。そりゃ全然寝られないわね(笑)。

――お店に仕入れに来てもらうほかに、配達もしていたのでしょうか。

自転車にリンゴ箱を取り付けて、お菓子を山ほど入れて。紐でくくってもうあちこち回っていましたね。日暮里付近はもちろん、上野や北千住あたりも行っていたかな。そんなことしているから、私は子育てがあまりできなかったんです。田舎からおばあちゃんを呼び寄せて、育ててもらったに近いですね。

1959年の日暮里の地図には、所狭しと駄菓子問屋が並んでいた

――印象に残っている思い出はありますか?

たくさんありますよ。昔はここら辺は繁盛していたから、商店街の人たちやお客さまと大勢でよく旅行に行ったのよ。バスを何台も貸し切って、バスには「日暮里駄菓子問屋」って貼り付けて。160軒あった問屋、全部が店を閉めていくの。このあたりの問屋さんはみんな家族経営だったから、大所帯よね。それでお客さまも一緒に、東北や名古屋、関東の観光地を回りました。

本当に皆さんよくしてくださったんです。あと、昔は店に立っているだけで「リツコちゃん、これお食べ」ってお客さまが差し入れしてくださってね。今はなかなかない話だけど、そうやってよくしてくださったからこそ、私はお客さまに返していきたいの。

コロナ禍でも、店を閉めなかった

――コロナ禍で外出自粛が続く中でも、「大屋商店」はお店を開けていたと伺いました。

お店は開けていたけれど、もちろんお客さまが来なくてね。そりゃそうよ、みんな外へ出ないんだから。その代わり、馴染みのお客さまがみんなお電話をくれました。「落ち着いたら行くからね」「本当は行きたいんだけどね」「おばちゃん、コロナにかからないようにね」って。お店は暇だったけれど、電話が忙しかったコロナ禍でしたね。

やっぱり、長く続けているからこそ、たくさんのお客さまがこれまで通ってくださっているわけだし、大屋商店を閉めるわけにはいかないという気持ちでやっています。

――コロナのことは除いても、駄菓子店の経営は、全国的に厳しい状況にあると言われていますよね。

そう、さっきもちょっと話したけど、駄菓子屋は儲からないから。お金のある人が身銭を切ってやる分にはいいけれど、そうじゃないところは、ほとんどお店を畳むという選択をしていますね。もちろん後継者問題もありますし。それは駄菓子屋だけじゃなくて、駄菓子の製造元もそうなんです。製造元の後継者問題で工場そのものを畳まざるをえないところも多くて、皆さんが子どもの時に食べていたものが製造終了していた……なんてことがたくさんあると思います。大きい工場はまだいいけれど、駄菓子工場は家族経営だったり、おじいちゃんおひとりで回されていたりと、小規模事業なことが多い。だから今後も先行きは不透明ですよね。

それでも私は、いろいろな工夫をして生き残りたいわけです。今はハロウィンやクリスマスといった、お菓子が活躍するイベントがありますから、一般のお客さま向けにそういうセットを作ってみたり、息子嫁がインスタグラムをやってくれていたり。生き残りたいなら、今の生活様式に合わせて、駄菓子の売り方もどんどん変わっていかなきゃいけないね。

――大屋さんが「大屋商店」を続けていく理由はどこにあるのでしょうか。

一人でも駄菓子を求めて「大屋商店」まで足を運んでくれるお客さまがいるのなら、それに応えたいという気持ちからです。大屋商店のお客さまはこの近辺の方だけじゃなくて全国にいらっしゃいますから、そんな方々がわざわざ日暮里まで来てくださっているんだから、「大屋商店」は開けていなきゃ。

あとはやっぱり、天職だと思うんです。お菓子を売っているのがとても楽しい。昔と仕事の仕方はずいぶん変わってしまったけれど、お店を訪れてくださる皆さんとお話できるのも、新しいお菓子の話に花が咲くのもうれしいね。子どもや孫を連れてきて3代にわたって通ってくれる常連さんも多くて、やっぱりお客さまに寄り添ったお仕事なんだなとうれしくなります。

これからも、誰かに必要とされる限り、「大屋商店」を守っていきたいですね。

だがし・おもちゃ問屋 大屋商店
東京都荒川区西日暮里2-25-1-203
TEL:03-3801-2530
FAX:03-3801-2540
営業時間 9:30~16:30
定休日 月曜日、第3火曜日
Instagram:https://www.instagram.com/dagashioyashop/

(文:山口真央 編集:高山諒(ヒャクマンボルト) 写真:Ban Yutaka)

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