28年で黒字は1度… 札幌の絵本専門店がそれでも営業を続けられる理由
札幌市街から車で約20分の住宅街にある絵本専門店、「ちいさなえほんや ひだまり」。この店を1994年から営むのは、青田正徳さん69才です。
活き活きと絵本の魅力を語る青田さん。その飾り気のない笑顔からは想像もつきませんが、ひだまりの売上が黒字になったのは、なんと28年間でたったの一度。閉店の危機も幾度となくありました。
青田さんは、過去に15年間、出版社の販売代理店で営業として児童書を売っていた経験を活かし、42才のときにひだまりを開業しました。店の棚に並べる絵本選びにかける情熱が評判を呼び、青田さんの熱心なファンが絶えません。
どんな名作でも絶版になる現実
週に1度はかならず大型書店へ足を運ぶ青田さん。実費で新刊を購入し、その中から本当にいいと判断したものが、ひだまりの店頭に並びます。その数、約2500タイトル。青田さん自身がそのすべてを把握し、お客さんに合う絵本をパッと紹介できるよう、それ以上はタイトル数を増やさないようにしています。
青田さんが思う「いい絵本」の条件は3つ。
1つ目はオリジナリティがあること。2つ目はリアリティがあって、たとえつくり話だとしても筆者の原体験や想いが感じられること。3つ目はヒューマニティがあり、最後には心が温かくなることです。青田さんは、「そうした絵本は、世に出まわっている絵本の2割しかない」と語ります。
「昔とは、“いい絵本”の基準が異なってきていますね。今は絵本の内容よりも、“売れる”ことが第一。インターネットが主流になって、SNSで拡散されることや、子どもの興味を引くことだけに注力した絵本も増えました」
また、大型書店に並ぶ絵本は、その多くが出版社から送られてきたもの。それらもやはり“売れそうな”絵本で、それらは目立つように平積みされます。棚刺しの絵本ももちろんありますが、お客さんは、目を引く平積みから選んでいきます。
一方、書店で売れ残った絵本は、一定期間を経ると出版社へ返却されます。出版社も不況の中、売れない絵本を出し続けるわけにはいきません。その結果、「名作」と呼ばれてもおかしくない絵本が、次々と絶版になっていくのです。
「絵本の魅力は、作る人だけでは読者に伝えることはできません。きちんと選んで、売る人が必要です。そうした意味で、私は最後の仕事を任されていると思っています」
青田さんのお財布には、1000円札が1枚だけ。売り上げが入っているはずのレジの中も月末にはいつも空っぽに。前月に仕入れた絵本の支払いに、小銭まで使い切るからです。ですが青田さんは、「はんかくさい(※)でしょ?」と笑いながら、お金のことなんて忘れてしまったかのように、楽しそうに一冊一冊の魅力を語ります。
※北海道弁で「あほらしい」の意。
絵本を見たこともなかった幼少期
青田さんが絵本に魅了されたのは27歳のとき。幼少期は自宅に絵本が一冊もなく、読み聞かせもされたことがなかったといいます。
1952年、北海道オホーツク管内の遠軽(えんがる)町の農家に生まれた青田さん。8人きょうだいの末っ子で、両親と祖父と祖母も入れて12人で暮らしていました。
夏休みには4人の兄たちと、川で魚すくいをして遊びました。大きな魚が採れると「よくやった!」と両親が大喜びするほど、生活は貧しかったといいます。
一方、苦しかった記憶はありません。それは、年の離れた末っ子として大切に育てられた実感があるからだといいます。兄や姉が中卒ではたらく中、青田さんと一つ上の姉だけは、高校へ進学させてもらえたのです。
卒業後は遠軽を出て、札幌でパン工場やミシンの営業職に就きました。結婚して娘も生まれ、青田さんは漠然と、子どもや福祉関係の仕事に就こうと考えます。両親やきょうだいへの感謝をなんらかの形で世に返したいと思ったのです。
そうして就職することになったのが、児童書出版社の販売代理店でした。営業マンとしての当時の青田さんの日課は、昼休みに絵本を数冊もって喫茶店に入り、ランチのあとに読み漁ること。取引先である幼稚園や保育園に売る絵本を吟味するためです。読みながらクスッと笑ったり、感情移入して涙したり……、次第に絵本の世界にのめり込んでいきました。
当時1才だった長女に、松谷みよ子さん作の『いないいないばあ』(童心社)を読み聞かせたときのこと。「いない、いない、ばあ!」と言うと長女は大笑い。何度読んでも、百発百中で笑ったのです。そこで青田さんは気付きました。「絵本って、子どもにとって楽しい世界なんだ」
自分で声に出して読んで、いいと思った絵本だけを顧客に届ける。青田さん流の販売スタイルは、こうして確立されます。その選書の質の高さゆえ、取引先の園長たちからも絶大な支持を得ていきました。
資金ゼロ、退職金ゼロ、妻は猛反対
勤続15年目、42才のとき。青田さんは、札幌に唯一あった絵本専門店が閉店することを知ります。その専門店は、青田さんも足しげく通った店。店長に話を聞くと、少子化でお客さんが減り、もうやっていけないのだと言います。人口が170万人(当時)いる札幌の中心部でさえ、絵本店が生き残れない……。青田さんは絶望的な気持ちになりました。
それと同時期、市街から車で30分ほどの住宅街にある喫茶店兼ギャラリー「あ・うん」から、「お店でお客さんに絵本の話をしてもらえないか?」と依頼があります。いいですよ、と承諾した青田さんは、当日15人前後のお客さんの前で熱く語りました。すると数日後、女性店長からこんな提案がありました。
「ギャラリー前のスペースが空いている。ここで絵本を売ってみては?」
札幌の絵本専門店がなくなる。喫茶店の一角が借りられる。この2つが青田さんの中で一つになり、心に火がつきました。「私が専門店をやろう」と。
とはいえ、資金はゼロ、退職金もゼロ。当時は店を開くのに担保として1,000万円以上の不動産が必要でした。さらに長女は高校入学を控え、お金のかかる時期。妻は猛反対しました。
「妻は保育士で、絵本のよさは十分知っていました。でも、それとこれとは話は別。店を開きたいのはあなたの気持ちでしょ?、と」
反対したのは妻だけではありません。
「取次(出版社から絵本を仕入れ、書店に卸す会社)もぎりぎりまで『本当にやるのかい?』と契約を渋っていました。当然ですよね、中心部でも厳しいのに、郊外でやろうというのですから」
けれどこのときの青田さんは、とにかく前しか見えていません。その背中を押したのは、「あ・うん」の店長でした。
「喫茶店と家、合わせると1,000万円になるから大丈夫。保証人にもなる。やりなさい」
こうして1994年の4月、青田さんは勤めていた児童書出版社を辞め、「ちいさなえほんや あ・うん」を開業したのです。
「絵本専門店」の再誕
1000冊の絵本とともに迎えた開店日。驚くことに、開店を祝う花が続々と届きました。その数約40個。送り主の大半は、前職で取引のあった園長たちでした。
さらに喫茶店「あ・うん」は、北海道の著名な写真家である故・平野禎邦(ひらの・よしくに)氏の作品をギャラリーで展示していたことから、当時札幌のマスコミから知られる存在でした。そこに絵本専門店が再誕するということで、開店前日には新聞社の取材が、約1週間後にはテレビの生中継が訪れたのです。「ちいさなえほんや あ・うん」は大盛況。毎月100人前後のお客さんで賑わいました。
順調なスタートをきったものの、1年も経つと、気になる点が出てきました。喫茶店「あ・うん」は小さな店でしたが、ときおり親子連れで混み合います。青田さんは「自分がいるせいで、喫茶店のスペースが減っているのでは?」と、申し訳なく感じるようになりました。
43才のとき、近郊にアパートを借りて店を移転。「ちいさなえほんや ひだまり」として再出発しました。たった一人での配達、仕入れ、伝票記入、パッキング……。帰宅は毎日、深夜1時を過ぎました。
妻の考えは変わらず“反対”でしたが、かつて「いないいないばあ」に大喜びした長女は、青田さんを陰で応援。帰宅するとだいたい、「ご飯は炊飯器のジャーの中。お風呂も沸いています」と娘の字のメモが置いてあったといいます。
翌年の1996年、手狭なアパートから、一軒家に店を移します。念願だった、畳みの上で寝転がって絵本を読める空間もつくりました。
しかし、経営はピンチに陥っていました。
「絵本の販売について何も知らないまま、とにかく売りたい絵本をどんどん仕入れていたら、在庫過剰になってしまったんです。毎月、送られてくる請求書をみて真っ青。本当に、素人もいいところでした(笑)」
絵本の仕入れは、末締め翌月支払い。クレジットカードと同じです。
「普通の人なら翌月の支払いを考えながら仕入れると思いますが、私は感情先行型なので、それができなかったんです」
唯一の救いは、出版社が支払いを2カ月先に伸ばしてくれたことでした。ひだまりの販売実績が認められたのです。ただそれでも、店は火の車状態でした。
250万円の請求に青ざめる
開業から5年目のある日。請求書を開くと、そこには約250万円と書かれていました。青田さんは「もうダメだ……」と青ざめました。「さすがにもう支払えない」
青田さんの脳裏に、閉店の2文字が浮かびます。ところが、ふと思い出したのです。当時青田さんの知人に、保育園の設立資金を集めている人がいて、その債券を2万円分購入していたことを。青田さんは債券の証書を引っぱり出し、こう思いました。
「この方法ならなんとかなるかもしれない」
突然店をたたんだら、「あ・うん」の店長も常連客も、園長たちもがっかりする。「なぜ言ってくれなかったの?」と言われるかもしれない。それなら最後に、やれるだけやってみようーー。
青田さんは当時、「北海道新聞」の夕刊で、絵本にまつわる連載をしていました。その次号分の原稿に、ひだまりの実情を綴ったのです。すると編集者が自宅に飛んできて、こう言いました。
「ひだまりさん、そんなに大変だったんですか!?これは取り上げましょう」
翌月、ひだまりの現状は、北海道新聞の朝刊に大きく掲載されました。1口1万円の「ひだまり債」への協力依頼とともに。
その日から、電話が絶え間なく鳴り続けました。
ある電話は、「新聞を読んで、ひだまりという絵本専門店があることを知りました。絵本は娘が小さいころによく読み、思い出が詰まっています」と、見知らぬおばあさんから。
またある電話は、「結婚祝いにいただいたお金があるので、10口10万円を支払いたい。子どもが生まれたら買いに行きます」と、若い女性から。
青田さんが週に2〜3回ランチに訪れていた喫茶店のママは、封筒に10万円を入れて持参してくれました。「私の個人的なわがままでご迷惑をかけて申し訳ない」と謝る青田さんに、「何言っているの、やりなさい」とママは言ったそうです。
「うれしくて毎日泣いていました。びっくりしたのは、常連だった近所のお母さんグループの一人の方が、一人1000円を40人分集めて、4口4万円持ってきてくださったことです。当時はまだ自宅で子育てに専念しておられる方が多かったので、3000円以上は難しいけれど、1000円なら家計から出せるからと。もう泣きましたよ、お母さんすごい! って」
このとき、「絵本の力を再認識した」という青田さん。「普段気付かないだけで、絵本は暮らしのなかに根づいている。大切にしている人がたくさんいるんだ」
ひだまり債は、総額480万円、約200人から集まりました。購入者は3分の1が会ったことのない方、3分の2が常連客。圧倒的に女性が多かったといいます。
前職の上司からは、「そんなにたくさんの人に迷惑をかけるなんて」と叱られました。けれど青田さんは、ある確信めいたことを感じていました。「絵本は単なる商売とは違う。世の中の経済の仕組みとは別なところで、大きな母性のようなものに守られている」と。
ミラクルは続きます。それから3年後の2002年、HBC北海道放送の「朝ビタTV」に、月1回出演していた青田さん。番組内で絵本を3冊紹介したところ、電話が50件ほど立て続けに鳴り、飛ぶように絵本が売れました。28年間で唯一黒字になったのは、この年のことでした。
ひだまりを守る責任がある
では、それ以外の年はどうやって暮らしてきたのでしょうか。青田さんに伺うと、きょうだいや金融公庫などからお金を借り、なんとか生活しているといいます。
ですが不思議と、青田さんとひだまりからは、悲観的な空気を一切感じません。そのわけを尋ねると、青田さんはこう答えました。
「多分、私自身が楽しいからではないでしょうか。それに、店主が『もういやだ!』と投げやりになって絵本も減っていく店なんて、誰も来たいと思いませんよね?」
閉店危機は、2012年にも訪れました。インターネットの普及によるコンテンツの多様化と、少子化の影響を受けたのです。すでに銀行からはお金を借りられない状態。ですがこのときも、常連の母親たち、そして絵本作家さんがひだまりを支援しました。その額45万円。母親たちと作家さんが、3万円の絵本セットを合計15セット購入したのです。
青田さんが作家さんからも支持されるのは、青田さんのおかげで絶版にならずに済んでいる絵本があるから。ある絵本は、全国的には売れないものの、青田さんが勧めることで年に200冊ほどが売れているのです。ひだまりの壁には、そうした作家さんがお礼にと描いた原画が、ところ狭しと飾られています。
青田さんにこれからの夢を伺うと、「実現は無理だと思うんですけど……」と前置きをして、こう答えてくれました。
「6LDKくらいの大きな家を借りて、絵本やおもちゃ、わらべうた、幼児教育を全部体験できる空間をつくってみたいですね。今は感染対策で置いていませんが、ひだまりにも以前はシュタイナー教育のおもちゃを置いていたんですよ。子育て中の方たちが、『ここに来ればなんでもある』と思えるような、ゆるやかなコミュニティをつくるのが夢です」
絵本は青田さんにとって「生きること」と同じ。コロナ禍で閉店も覚悟したといいますが、30周年までのあと2年は、ふんばろうと決めました。
「本当に不思議と、28年間やってこられました。大変な時にはかならず手を差しのべてくださる方がいたんです。先日も20年来のお客さんがいらして、突然20万円分の絵本を買って行かれて……。こうして支えてくださる方たちに応えるためにも、私にはひだまりをのこす責任があります」
衰退する絵本産業の中、札幌に絵本専門店の灯をともし続けたい一心で、存続の危機を乗り越えてきた青田さん。
彼がこんなにも多くの人に応援される理由は、絵本の力だけではないでしょう。それはきっと、自身の衣食住を忘れるほど絵本を愛し、どんな逆境も最後には笑い飛ばしてしまう青田さんに、「また会いたい」と思う人が絶えないからかもしれません。
(文・写真:原由希奈)
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