世界のトップシェフが求める漬物店。4代目女将が漬物を使った新感覚スイーツを開発するまで

2023年8月10日

フランスの3つ星レストラン「クリストファー・クーンタンソー」、「世界のベスト・レストラン50」で過去に4度、1位を獲得したデンマークの伝説的レストラン「noma(ノーマ)」、ラトビアの名店「ヴィンセント」。

名の知られた世界トップレベルのレストランのシェフが足を運ぶ小さな漬物店が、八海山の麓、新潟県南魚沼市にあります。江戸時代から同じ製法で漬物を作っている「今成(いまなり)漬物店」です。

今成漬物店で作るのは、奈良漬けが発祥と言われる「山家漬」。野菜と酒かす、砂糖の3つしか使っておらず、銘酒「八海山」の純米大吟醸の酒粕を飴色になるまで熟成させながら、錦糸瓜や巾着なすなど地元で採れた野菜を漬け込んでいます。

新潟県南魚沼市の恵が詰まった山家漬

2022年2月、地域の隠れた優良商品を対象としたコンテスト「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」で、同店で開発した酒粕に漬けたリームチーズを、もなかの皮に挟んだ「つけもなか(旧名称:辛党スイーツ*酒monaka)」が、地方大会を勝ち抜いた54組の中から最高賞の「グランドグランプリ」を受賞。

「漬物×もなか」という斬新なアイデアで商品を開発したのは、同店4代目の今成要子さんです。今成さんが考案した「つけもなか」とは、いったいどんなものなのでしょうか?

「かわいらしい見た目ながらも、味は酒のおつまみのような大人の味わいを追求した、渋いスイーツです。漬け床(漬物を漬け終わったもの)は、発酵の旨味が詰まっていておいしいんです、ほとんど捨てていたんですね。もったいないなと思って、そこにクリームチーズを漬けてみたら、すごくおいしくて。選りすぐりのクリームチーズを粕漬に2カ月ほど漬け込んで、もなかの具にしてみたんです」

コンテストの審査員からは、

「一口食べて、虜になった」
「酒に合いそう」
「スイーツなのに、漬物のシャキシャキした歯ごたえが新感覚」

と、絶賛の声が上がりました。

コンテストの試食用「つけもなか」

実家が漬物屋だったことから、学生時代から家業を手伝うようになった今成さん。「一つひとつ手作業なのでたくさん作ることができないのですが、それでも私たちの漬物を知ってもらえるきっかけになってうれしいです」と語ります。

実は今成さんは、40歳まで東京で出版社の編集兼事務、高級ブランドの販売員、派遣社員などさまざまな職種ではたらいており、将来家業を継ぐことはまったく考えていなかったといいます。

「今も店を継いだという感覚ではないんです。もちろん伝統の味を守りたいって気持ちはあるんですけど、最初から『継承』なんて、大それたことを考えていたわけではなくて……。2018年にテレビ朝日のニュース番組で『4代目』『漬物屋の女将』と紹介していただいて、そのまま周りからそう呼ばれるようになりました(笑)」

謙遜する表情を浮かべる今成さん。なぜ地元に戻り、この道を選んだのでしょうか?彼女の背景にあるキーワードは、「巡る」でした。

小説の世界にハマった文学少女

1971年に新潟県南魚沼市六日町に生まれた今成さんは、自身の幼少期を「マイペースな性格で、根っからの本好きでした」と振り返ります。

「母の本棚には文学や哲学の本がたくさんあって、そこの本を読むうちに、『知らない世界でおもしろい!』と思うようになっていました。中学に上がると図書館に行ったり、自分で本を買ったり、太宰治や同じ新潟県出身の坂口安吾など、純文学を読むようになって、『私から文学を取ったら死んでしまう!』なんて思うくらい、小説の世界にハマっていました」

幼少期の今成さん、弟さんとともに

地元の高校に入学後も読書好きは変わらずで、成績は良かったものの、周りよりものを覚えるのに時間がかかったそうです。大学進学を志すも、今成さんの世代は「第二次ベビーブーム」。子どもが多いことから大学受験の倍率がどこも高かったこともあり、志望大学は不合格に。2年間の浪人生活をすることになりました。

さぞ苦しい時期だったかと思いきや、「両親には申し訳ないと思っているんですが、本ばかり読んでいました(笑)」と今成さんは照れ笑いを浮かべます。「私はいろんな事を同時にこなせないし、人よりもやることが遅いから、ダメなりに時間をかけるしかないな」と、自分のペースで特に焦ることはなかったといいます。

10代の今成さん

上京して「毎日ハッピー!」

21歳で青山学院女子短期大学の芸術学科に合格し、上京。教授や同級生は、新潟県の山の麓から出てきた今成さんがめずらしかったからか、「よくぞ東京に来たね!」「なんでも聞いて」と気にかけてくれました。熱烈な歓迎に気恥ずかしさを感じながらも、おかげでのびのびと学生生活を過ごします。

短大では文学から絵画や彫刻、デザインなどを学びました。授業がない日は美術館や展覧会、歌舞伎やオペラなどを一人で観に行き、魅力的な場所にすぐ行ける都会に「もう毎日ハッピーで夢のよう!」と思ったそう。

短大を卒業後、お世話になった教授の紹介で、詩を専門とする出版社に就職。「文学が好きだから、仕事も楽しいはず」と意気揚々と出社しますが、「必ずしも好きなものを扱うことが、はたらきやすい環境になるわけじゃないんだな」と思うようになり、1年半ほどして転職を考えます。

ある日、一つの求人広告が目に留まりました。某高級ブランドがブテック販売員を募集していたのです。

「えっ、こんなにお給料もらえるんだ。人気のブランドだし、とりあえず受けてみよう」

さっそく応募すると、見事採用。のちに内定の競争採用倍率が300倍だったと聞き、今成さんはのけぞるほど驚きました。

接客業は天職だった

ほどなくして出版社を辞め、百貨店でブランドの販売員としてはたらき始めます。そこで、思わぬ才能を開花させることに――。

「接客業は未経験だったんですけど、おせっかいな気質も相まって、私の性格が活かせる場所でした。『こうしてあげたらいいんじゃないか?』『何かしてあげたい』という気持ちで接客していると、お客さまに『ここまでしてくださったの?』と喜んでいただけて……。それがうれしくて、もっと役に立ちたいと思うようになりました。社会人としての視野が広がったのは、このころでしたね」

当時の販売業務は朝から晩まではたらき詰めでした。体力的にハードでしたが、今まで接点を持つことがなかった顧客のさまざまな価値観を知る楽しさの方が勝り、がむしゃらに仕事を続けました。

社会人のころ、友人とともに

5年の時を経て、順調にキャリアを歩んだ今成さん。上司から「このままここに残って店長にならない?」と提案されますが、ふと我に返ります。

「素敵な同僚や魅力的な人も多いし、このままはたらき続けることも幸せかもしれない。でも、今まで知り合ったお客さまのように、自分がご案内している商品に対してお金を払えるくらいの自立した人間になりたい。そのためにもっと新しいことにチャレンジしなくちゃ!」

「はたらく、学ぶ」を繰り返す

今成さんは高級ブランドメーカーを退社し、失業手当を受けながら、「自分に足りないもの」を探すことにしました。ちょうどそのころ、今成さんは携帯電話を持ち始めます。

「30歳でやっと携帯電話を持つなんて、私ったらIT関連に疎いなぁ……」

そう思ったことから、ハローワークで見つけた職業訓練所のコースに参加し、エクセルやワード、パワーポイントを一通り覚えました。

その後、自治体や政府機関、一般企業で数カ月間ずつ派遣の仕事を始めます。正社員を選ばなかったのには、理由がありました。

「一つの仕事をとことん極める道もあったと思います。でも、私はどんどん新しい場所で挑戦したかったんです。今振り返ると、そういう人がいてもいいよねって思います。いろんなはたらき方を選んだ人たちが集まれば、大きなパワーになって、おもしろいアイデアがたくさん生まれますから」

行政の離職者支援の中で、派遣先との契約が終了したタイミングに職業訓練所で学ぶことを決意。今成さんは、MBAエッセンシャルコースやウェブデザインの講習を受けて「はたらく、学ぶ」を3回ほど繰り返しました。

きっかけは、子どもを授かったこと

社会という海で、すいすいと泳ぐ魚のようにさまざまな業種ではたらいた今成さん。40歳に差しかかった2011年春、ターニングポイントが訪れます。お付き合いしていた男性との間に、子どもを授かったのです。

まだ結婚は考えていなかったため、今成さんは戸惑いましたが、「せっかく私に宿った命だから」と、産むことを決意。相手と相談して、駆け足で入籍します。ただ、両者とも収入は安定しなかったことから、公団住宅に引っ越そうと考えますが、なかなか物件が見つかりませんでした。

そこで、今成さんは地元である新潟県に戻って出産、子育てをしながら、東京で住む場所が決まるまで、実家で暮らすことにしました。当時、今成さんは「すぐに東京に戻ろう」と思っていましたが、実家で暮らすうちに、気持ちの変化が起こります。

「子どもにとってどちらの生活がいいのかなって思った時、圧倒的に新潟だなと思ったんです。自然豊かな田舎のほうが、子どもはのびのび成長できると思いました。それに、若いころは苦手に感じるような、田舎ならではの人の目が近い環境も、子を持つ親にとってはすごく安心でありがたかったんです。子どもにとっても、いろんな大人と接点が多い場所の方がいいんじゃないかなと思いました」

のちに、夫とは数年後に離婚することになりますが、毎月新潟の実家に来てもらい、子どもと一緒に過ごしました。「彼も『ここで育てた方がいいね』と言ってくれて、自然な流れで地元に留まるようになりました」と今成さんは語ります。

我が子を抱く今成さん

豪雪地帯の保存食として

漬物という食べ物の存在が日本で初めて記録されたのは、奈良時代。野菜の保存食として生まれたと言われています。雪地帯の雪国・南魚沼市で酒を作っていた今成さんの曾祖父は、冬の間は作物が採れないことから野菜に不自由することがないようにと、酒粕を使った漬物を作り始めました。それが「山家漬」の原点でした。

今成さんは、漬物屋を始めた曾祖父の行動力に感銘を受けたといいます。

「毎年雪が5メートル以上も積もる南魚沼で、曾祖父は自分たちの食べる分だけではなく、 作った野菜を漬物に加工して都会に売って、この地域を潤す商材に仕立てました。そのおかげでシンプルな素材だけで作られた山家漬が生まれ、今も続いています。現代では余計な添加物を含んでいない食べものって貴重ですよね。販売の仕組みを考えた曾祖父は偉大だなと思いました」

江戸時代から使い続ける木樽を使っており、天然の酵母でおいしい漬物ができる

地元で生きていくと決めた今成さん。実家では母が3代目として漬物店を切り盛りしており、父は駅近くの薬局を経営していました。当初、今成さんは薬局を手伝っていました。けれど、漬物に大きな可能性を感じたことから、母をサポートしたくてうずうずしていたそう。

「子どものころには分からなかった、南魚沼の食の魅力にやっと気が付いたんです。食いしん坊の私は東京でいろんなものを食べてきたけれど、地元に帰って都会では口にできないお米や野菜のおいしさに驚きました。それに、『昔からやり方を変えない漬物作りを、私の生まれたこの家でやっていたんだ。ものすごい宝だなぁ』って。だから、もっとたくさんの人に喜んでもらえるように、何かできたらいいなと思ったんです」

600年以上続く旧家だったこともあり、家族や親戚は『家督は(今成さんの)弟が継ぐだろう』と思っていたようです。今成さんも子どものころからそう思っていましたが、弟が関西へ引っ越すことになったのを機に、今成さんが本格的に家業を手伝うように。そこから漬物作りを少しずつ学んでいきました。

催事販売にて、3代目の母親とともに(右)

「ナス漬けの味がする魚のソテー」から着想

2000年夏、今成さんにとって印象深い出来事がありました。山形県にあるイタリアンの名店『アル・ケッチァーノ』の奥田政行シェフが来店した時のことです。

「その時は私が不在で、母が漬物の蔵を案内しました。江戸時代から続く古い蔵ですからね。薄暗くて、木樽の中では酒粕が発酵してブクブクと泡が立っていて、何かが生きているような感じ。蔵の中は普通の人なら引くような光景です。私は『お母さんたら、あんなところにお通ししたわけ?』とその時は思ったんですね。ただ、奥田シェフはそれを見て『これがおいしいんですよね』と言って、ある話をしてくれたそうです」

今成漬物店の蔵

奥田シェフは海外の事例を紹介してくれました。 それは、海外の料理人がわざわざ日本と同じ漬物の桶をおいた発酵室を設け、ナスを浸した漬け汁に今度は生魚を漬けて、ナス漬けの味がする焼き魚を提供している、という話でした。

「漬け込んだ後の酒粕は、実は食べるとおいしいということは知っていました。だけど、使ったものを売るわけにはいかないから、止むなく廃棄していたんです。野菜を漬けて旨味が何倍にもなった漬け床に、別の食べ物を漬けることでもう一度楽しめる。その発想にハッとしましたね」

この話から着想を得た今成さんは、クリームチーズを漬けてみようと思い立ちます。国内外からチーズを数十種類ほど取り寄せては実験する日々。「母には『要子、自分が食べたいから取り寄せているんでしょう?』って怒られました(笑)」と今成さんは笑います。

根気よく続けるうちに、最も漬物の味を引き立たせるクリームチーズを見つけて、2018年に『クリームチーズの粕漬け』を商品化。ただ、クリームチーズの粕漬け自体はすでに漬物メーカーですでに作られている商品なだけに、「うちの漬物ならではの味だということを、どのように伝えればいいだろう?」と悩みました。

「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」で最高賞

2020年の春、転機がやってきます。

南魚沼市の市役所から、「市が主催であるイベントがあるんですけど、参加しませんか?」と連絡がありました。それは「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」でした。自社の新しい製品などを生み出して競い合うコンテストで、企画出しの段階で、商品化するためのセミナーに参加できるというものでした。

子育てに、家業の手伝いにと日々の忙しさで、アイデアを形にする暇がなかった今成さんでしたが、オンラインで受講できると知り、申し込みます。月1回、数時間は想像力を膨らませる時間を作り、地方大会の審査で1位を獲得。その間、参加者同士の交流会などもあり、励まし合いながら新商品をブラッシュアップさせました。

差別化を図るため、商品の見た目にも力を入れました。ネットで探した石川県金沢市の和菓子屋でカラフルなもなかを取り寄せ、クリームチーズの粕漬けに、地酒「八海山」に漬けたレーズンやハチミツと黒コショウ、錦糸ウリのかす漬けの具材を合わせた3種類を考案します。

完成した「つけもなか」は、「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」で最高賞を獲得。 日本の伝統食である漬物のおいしさを伝えられたことに、大きな喜びを感じたといいます。

「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」で最高賞を受賞

いろんな場所を「巡る」人生

2022年春、今成さんの考案した「つけもなか」は、過去の「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」」のすべてを対象に選考された、映像制作大手の「株式会社東北新社」の「東北新社賞」を受賞。この結果を受けて、同社が今成漬物店の1年間を追いかけたドキュメンタリームービーを撮影することになりました。

作品は「にっぽんの宝物JAPANグランプリ2022-2023」で上映予定

その最中、今成さんは自身の半生を振り返るきっかけがあったと言います。

「今まで自分のことを聞かれた時に、『流されて生きてきました』と話すことが多かったんです。それは、自信のなさから来るものだったかもしれません。でも、撮影で東北新社の中島信也さんにもそう話したところ、『そうじゃなくて、巡っているんです』と私の口癖を切り替えてくださったんですね。そうか、と腑に落ちた感じがしました。東京に行って、いろんな職を転々として、出産して、家業を継いで……。行き当たりばったりだと思っていた人生が巡っていると考えるだけで、とても大事で、おもしろいものに感じたんです」

そう話すと、今成さんは朗らかな笑顔でこう続けました。

「住んでいる町には今でも生き生きと地域に根付く食文化があって、私たちはまだまだその良さに気付けていないことが多いように思います。でも実はものすごい価値があるもので、大きな可能性があったりする。これからも私が育った南魚沼で、古きよきものを伝えていきたいと思います」

(文:池田アユリ 写真提供:今成漬物店)

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インタビューライター/社交ダンス講師池田 アユリ
インタビューライターとして年間100人のペースでインタビュー取材を行う。社交ダンスの講師としても活動。誰かを勇気づける文章を目指して、活動の枠を広げている。2021年10月より横浜から奈良に移住。4人姉妹の長女。
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インタビューライター/社交ダンス講師池田 アユリ
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