適応障害の元会社員(30歳)が、「学校の教科書」に載る人気イラストレーターになった話。

2024年8月22日

30歳で営業職からイラストレーターに転身し、約4年で40社以上からイラスト制作の依頼を受けるようになった男性がいます。子ども向けの教材や書籍の表紙、駅の広告イラストなどを手掛ける、フジワラヨシトさんです。

フジワラさんは26歳からの約4年間、飲食店や酒販店で正社員としてはたらいていましたが、ある出来事を機に会社を退職。イラストレーターとして独立して約半年で、その温かみのある絵柄と汎用性の高さが企業や出版社のニーズを満たし、引く手数多の存在になりました。SNS総フォロワーは9万人を超えます。

フジワラさんはなぜ、イラストレーターになったのでしょうか?そのきっかけや、会社員時代に抱いていた仕事への葛藤について探ります。

1枚10円で描いていた似顔絵師が、会社員になるまで

——フジワラさんは現在、どのような媒体でどういった絵を描かれているのでしょうか。

企業広告や雑誌・Webメディア・ボードゲームのパッケージに使われるイラスト、ゲームのコンセプトアート(作品のコンセプトを表すイラスト)、プリプロダクション(映画やアニメの準備段階で使われるイラスト)など多岐に渡りますが、一番多いのは、子ども向けの教材や教科書に挿入するためのイラストです。

——4年前までは異業種の会社員だったそうですが、イラストはまったくの未経験だったのですか?

いえ、会社員になる前、21歳から26歳までの約5年間は「似顔絵師」としてはたらいていました。

小学生のころから「絵を仕事にすること」に憧れがあり、高校はデザイン学科へ進んでデザインとイラストを学び、大阪芸術大学で油絵を専攻したんです。

一方、大学では絵の専門技術は学べたものの、具体的に「絵を仕事にする方法」が分からず、このまま大学にいても自分の進む道は見出せないと思ったんですね。そこで、2年半で大学を中退し、路上で1枚10円で似顔絵を描いていました。実際には10円ではなく、同情心からか100円から1,000円くださるお客さんが多かったので、1日20枚前後描けばなんとか生活できました。

22歳のある日、路上を偶然通りかかった大学時代の友人に誘われ、大手テーマパークの似顔絵ショップではたらき始めたんです。テーマパーク故に、会話でお客さんを楽しませながら絵を描くことが求められたので、映画やアトラクションについて勉強しましたね。ただ、複数の似顔絵師が同じショップ内で似顔絵を描くので、歩合制だからこそ、たくさん描いている似顔絵師さんに嫉妬してしまったりして……。楽しくもあり、しんどくもある時期でした。

路上で描いていたころも合わせると、8,000人以上の似顔絵を描きました。

——なぜ、似顔絵師から会社員になられたのでしょうか。

25歳の時、大手テーマパークで一緒にはたらいていた似顔絵師の女性と結婚しました。第一子の誕生を機に、安定した収入を得るため、会社に就職したんです。

仕事を、“労働”から“はたらく”に変えるため

——会社員としては2社ご経験されたそうですが、1社目はどのような職種だったのですか?

最初に就職したのは、日本酒を中心に扱う居酒屋でした。冷蔵ケースの中に、全国各地の日本酒が60〜70種類並んでいて、それをお客さまがセルフで席へ持ち込むスタイルのお店でしたね。

肩書き上は主任でしたが、実際は店長のような役割を担っていました。

——絵の仕事から、異職種へ転職するのに抵抗はありませんでしたか。

私は日本酒が好きで、「日本酒に関わる仕事をしてみたい」と選んだ職種だったので抵抗はありませんでしたね。日本酒の知識が身に付いたり、お客さまと接したりするのも楽しかった。

ただ、24時が終業時間だったのですが、実際には、片付けなどをしていると終業時間に終わることはなく、終電を逃して、自転車で50分または徒歩で1時間半かけて帰る日が続きました。

第二子の出産に立ち会えなかったこともあり、「日中にはたらける仕事を」と転職したのが、主に飲食店に向けて自社でセレクトした日本酒を卸す、日本酒の販売店でした。

——2社目では、どんなお仕事をされていたんですか?

営業職として入社しましたが、立ち上げから間もない会社だったので、経営者以外の社員は私を含め2人だけ。実際には、営業のほかに自社のSNS運用や日本酒の配達も担当していました。

営業は未経験でしたが、教えてくれる先輩もいません。営業先の飲食店とのつながりも一切なかったので、配達ついでに1日20件前後の飲食店に飛び込み営業をして、少しずつ取引先を開拓していきました。

——未経験の職種で、教えてくれる先輩がいないのは大変ですね……。なぜ、その後イラストレーターを志したのでしょうか。

仕事自体はやりがいがありましたが、経営者の指示が二転三転して「結局、どう動けばよいのだろう?」と迷う日が多々あったことや、「営業件数」のように、その場で目に見える数字ばかりが評価されることにはしんどさも感じていました。

というのも、当時私は、営業先を効率的に回る仕組みづくりや日本酒に関する勉強、SNSの強化など、「長期的に見て結果につながる仕事」にも力を入れたいと考えていました。でもそれらは、「あまり意味がない」と言われてしまって。

2019年の年末、夜に眠れない日が続いて心療内科を受診したところ、適応障害の診断を受けました。後日、経営者に理不尽な一言を言われた時、もともとメンタルを崩していたこともあり半ば勢いで退職。

同じころ、「子育てでしばらくイラストを描けていなかった妻がこれで絵を描けたらいいな」とiPadを購入したんです。そのiPadで私も絵を描いてみたら、「やっぱり絵を描くのって楽しいな」と。会社員時代はまったく絵を描かなかったんですが、これを機にSNSに絵を投稿し始め、2020年2月にイラストレーターとして独立・開業しました。

営業職で辛かった時期を思い出して描いたというイラスト。Xに「また明日から頑張ればいいよ」とのタイトルで投稿すると、2,700件以上の「いいね」が付いた

——イラストレーターになるにあたって、後押しになったことはありますか?

営業職の時、日本酒の配達のために、神戸と大阪間を車で往復することが多かったんです。

運転中によく、著名なイラストレーターの方がイラストの描き方を解説するラジオを聴いていたんですが、ある日その方が、「(リスナーの)君たちが労働したくないのは知っている。でもそれなら、どうやって絵を仕事にするかを考えるしかないじゃないか」ということを仰ったんです。

あくまで私の解釈ですが、「労働」と「はたらくこと」は別物で、人から「ああしなさい、こうしなさい」と指図されて動くのは「労働」、自分発信で価値を創造するのが「はたらくこと」だと思っています。労働は、恐らく多くの人がしたくないですよね。

きっとその方は、労働を「はたらく」に変える方法を考えよう、という意味で仰ったのだと思うんです。この言葉に「そうだよな」と共感し、背中を押されたのを覚えています。

失敗したって、命が奪われるわけじゃない

——どのようにして、イラストレーターとして仕事を獲得していったのでしょう。 

最初はとにかく、再就職手当などの給付金を利用しながら、どんなに単価が安い仕事も引き受けるようにしました。

もともと趣味では「美少女」を描くことが多かったのですが、この分野はすでに多くのイラストレーターが参入しており、競争率が高く仕事につながりにくいと考えました。

そこで、自分の好みや個性よりも、汎用性の高さを重視。さらに当時、アメリカの画家・ノーマン・ロックウェル(1894-1978)の画集に魅せられ、「これだ」と思いました。彼は温かな画風でアメリカの市民生活を描いたことで有名で、絵からは、アメリカの人々の生活やストーリーがリアルに伝わってきます。そんなストーリー性のある画風を目指しつつ、イラストが多く使われる媒体とはなんだろう?と自分なりに洗い出したところ、辿り着いたのが「児童書」の分野でした。

汎用性とストーリー性、児童書にふさわしい温かみ……これらをミックスした作品をSNSに投稿していったところ、独立・開業して約半年で、企業や出版社からイラストの依頼をいただけるようになりました。

ちょうどコロナ禍に突入した時期で、オンライン上でイラストレーターを探すクライアントが増えていたのも大きいと思います。

2024年4月には、フジワラさんのイラストが掲載された教科書を小学1年生の娘さんが学校で使うことになった

——現在、イラストレーターとして4年目を迎えられたフジワラさん。これまで、業績は常に順調でしたか?

約1年で会社員時代と同等の収入を得られるようにはなりましたが、収入が減る時もあり、常に右肩上がりなわけではありません。でも今は、収入の安定よりも、心身ともに健康にはたらくことを大切にしているんです。

子どもたちにも、嫌々仕事をする自分より、楽しくはたらいている自分の姿を見せたいからです。

——会社員時代のフジワラさんのように、仕事へのしんどさやモヤモヤを抱えている若者にかけてあげたい言葉はありますか?

誰しも、学校や社会で生きる中でいろいろな価値観を植え付けられていると思います。「そんなやり方で上手くいくわけない」「そんなことしたって無駄だよ」……私は、イラストレーターになると決めた時、こうした自分の中の価値観をすべて引っ剥がそうと思いました。

すると、イラストレーターとしてのキャリアが拓けていったんですね。

だから、今モヤモヤしているのなら、思い悩んだまま留まるのではなく、まずは興味のある分野へと一歩を踏み出し、飽きるまでやってみたらよいのではないでしょうか。

自分のキャリアを歩むのに「絶対にこうしてはいけない」なんていう決まりはないし、失敗したって、命を奪われるわけじゃありません。

誰でも「今の仕事を続けたほうがいいのかな」「別の仕事をしてみたいな」と悩むことはあると思うんです。そんな時、直感で「こちらのほうがいい」と思う道ってありますよね。私は、この「直感」は8割方当たると思っています。

直感を信じて、だめだったらその時にまた考えたらいい。「やっぱりこの道が正解だった」と思えたのなら、その道を歩み続けるだけです。

(文:原由希奈 写真提供:フジワラヨシト氏)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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