「モテたい」一心で美容師になった平林景さん、『車椅子でパリコレ』の夢を実現するまで。

2024年9月6日

2022年9月、鮮やかな色の巻きスカートやモードなデザインのパンツを身にまとい、車椅子に座ってスポットライトを浴びるモデルたちの姿が世界的な注目を集めました。その舞台は、フランス・パリにあるパリ日本文化会館のランウェイ。車椅子に乗ったモデルによるショーは、言わずと知れた世界規模のファッションショー・パリコレ(パリ・コレクション)のファッションウィーク期間中に開催されました。

このショーの発起人は、「障害の有無や性別、年齢を問わず、誰もが着られる機能的な」をコンセプトとするブランド『bottom’all(ボトモール)』を展開する、日本障がい者ファッション協会の代表・平林景さん。

ショーの冒頭、自ら黒の巻きスカートを身にまとい、車椅子に乗って登場した平林さんは、「障害のある人にとって衣服の機能性はとても重要。けれど、機能性にこだわると、デザインの格好良さは二の次になってしまいます」とスピーチ。「障害の有無に関わらずオシャレを楽しんでほしい」というメッセージを観客に訴えかけました。

ファッションの力で偏見や不平等が残る社会を変えていこうとしている平林さん。その根本にあるのはあくまで、「ワクワクしたいという自分本位な思い」なのだとか。多くの困難を乗り越え、パリのランウェーに立つまでの歩みを平林さんに伺いました。

「モテたい」一心で美容師になるものの、夢を諦めざるを得なかった

生まれも育ちも大阪の平林さん。子ども時代を振り返ると、通信簿に決まって「落ち着きがない」と書かれていたほど活発だったといいます。90年代のビジュアル系バンドブームの影響もあり、中学生になると自分でもバンドを始め、派手なファッションや髪の色を楽しんでいたのだそう。

「バンドとファッションに夢中で勉強はほとんどしなかったのですが、やりたいことを尊重してくれる親からは、あまり怒られた記憶がないんですよ。オシャレが好きだったので、中学を卒業するころにはすでに『美容師になりたい』と決めていました。理由は単純で、美容師はモテると思ったから。本当にそれだけです(笑)」

専門学校を卒業し、美容師としてはたらき始めてからは、好きな服を身にまとい、オシャレをしながらはたらける環境を楽しんでいた平林さん。仕事の忙しさも、技術を磨くために夜遅くまでレッスンをすることも苦にならなかったものの、仕事を続けるうちにある「壁」にぶつかります。パーマ液やカラー剤を使い続けたことで持病のアトピー性皮膚炎が悪化し、仕事を休まなければならないほどに肌が荒れてしまったのです。

「アトピーがひどくなるたびにお休みをもらうことが続いていたんですが、美容師としてはたらき始めて3年目の頃、悪化したアトピーが全身に広がってしまって。仕方なく退職し、1年ほどアルバイトをしながら食いつないで、また別の美容室に再就職したんです。でも、結局またアトピーがひどくなってしまい、さすがに心身ともに限界がきて……美容師の仕事自体を辞めることになりました」

それまで、美容師以外の仕事の経験はゼロ。自分に何ができるのか悩んでいた平林さんに、予想外の転機が訪れます。前の勤務先である美容室の店長から、「専門学校の講師をしてみないか」と声がかかったのです。

「店長の知り合いの方が美容系の専門学校を立ち上げて講師をされていたんですが、当時、その学校の姉妹校が大阪にできるタイミングだったんです。正直、自分に適性があるかどうか未知数だったのですが、次の仕事も決まっていなかったですし、ぜひやってみたいと答えました」

「凡人でも世の中って変えられる」と気付いた教員時代

採用面接を経て、美容系の専門学校の教員としてはたらき始めた平林さん。人に何かを教える経験ははじめてだったものの、仕事を通じて生徒たちと向き合ううちに「教員は意外と向いているかも」と思うように。

「そもそもぼくはあんまり指先が器用じゃなかったんです。美容師時代も技術を言語化して考えないと理解できないタイプで、『感覚的に学ぶ』というようなことはできませんでした。しかし、それは人に技術を教える上で、思いのほか役に立ちましたね。不器用な子がどうすれば技術を身につけられるのか、理屈で教えることができるので」

教育者として順調にキャリアを積み上げていく中で、平林さんに再び転機が訪れます。きっかけは、発達障害のある子どもたちと接するようになったこと。当時の療育(発達支援)は、できること・できないことがはっきりしている子どもに対し、苦手を克服することを強いるようなものになっていると感じたそうです。

「嫌なこと、苦手なことばかりを延々やらされるのって『ほぼ罰ゲームやん!』と思ったんですよね。ぼくは自分のやりたいことや長所を尊重してもらえる環境で育ってきたから『自分はこれが好きだから』『これが得意だから』という軸さえ持っていれば、仕事でも人生でも道は開けると身をって知っていました。だからこそ、凸凹が激しい子どもたちの短所ではなく、長所を伸ばすスクールをつくりたいと思うようになったんです。

当時勤めていた学校法人の理事の方々にそんなスクールを立ち上げたいと提案したところ、受け入れてもらえまして。当時のぼくの配属先であった学校法人が運営する大学内で東京未来大学こどもみらい園』という形で新たに施設を立ち上げ、その責任者を務めることになりました。また、同じ施設内にフリースクールがあれば発達障害のある子たちが安心して進学していけるのではないかと、続けて大学の校舎内にフリースクールも立ち上げました」

当時、大学が主体となって発達障害のある子どもの支援施設を立ち上げるのは前例がないことでした。スクール立ち上げ時には、平林さんの下に取材が殺到したといいます。

「新しいものをつくることへの「ワクワク」に目覚めちゃいましたね。もちろん、スクールのカリキュラムや講師の採用、広報の方法などを一から考えるのは大変な仕事だったし、それまでの専門学校での実務経験も活きたと思います。でも、ぼくは自分の能力って基本的に高くないと思っているんです。

なので、『こんな人間にもまったく前例のないことができるんだ』と驚いたのが率直な気持ちでした。世の中を変えているのって、意外とぼくみたいな凡人かもしれないな、と。」

「オシャレな福祉施設では良い療育ができない」という偏見を超えて

その後、大学が運営する施設やフリースクールに子どもを通わせたくても、金銭的な問題でそれが叶わない人たちが多くいることに問題意識を感じた平林さんは、2017年に14年間勤めた学校法人を退職し、福祉の枠組みを利用した放課後デイサービス「みらい教室」を立ち上げます。

「より安価に発達障害のある子どもたちの長所を伸ばせる場所をつくりたい、という思いがありました。ただ、福祉施設をつくることは初めてことだったので、100人ほどの保護者の方に『どんな施設に子どもを通わせたいですか?』とヒアリングしたんです。すると9割以上の方が『明るくてオシャレな施設が良い』と。それってめっちゃ大事な要素やな!と思いました。当時は明るくて華やかな雰囲気の放課後デイサービスって本当に少なかったんです」

保護者の意見も参考に、スタイリッシュな施設をつくる構想を練り始めた平林さんでしたが、一部の福祉関係者にそれを話すと、こんな言葉を投げかけられたといいます。

「『オシャレな施設なんて考えている暇があったら、療育の内容にこだわりなよ』と。でもそれって変ですよね。だって、オシャレな療育施設に良い療育が提供できるわけがない、と思っているわけですから。療育にこだわるのは当然のこととして、さらに気分が上がるような場所をつくりたいと考えていたのですが、『チャラチャラするな』なんて言われて、衝撃を受けました」

専門学校の教員としてはたらいていたときも、モード系ブランドのスーツを着ながら授業をするなど、ファッションへのこだわりは手放さなかった平林さん。オシャレな服装や空間が人を惹きつけることを知っていたからこそ、ファッショナブルな施設をつくることは、子どもたちにとってはもちろん、人手不足が続く福祉業界にとってもプラスだと確信していました。この時、平林さんの頭に浮かんだのが「逆転の発想」という言葉。ネガティブな要素をポジティブに変えていく。今後のアイデアの指針となる発想が生まれた瞬間でした。

「放課後デイサービスを『障害があるから通わないといけない施設』ではなくて、『障害があるからこそ通える施設』にできたらめっちゃ良いやん!と思ったんです。ハンデがあるから通わなきゃいけないではなく、ハンデがあるからこそ通える。そんな場所がつくれれば、絶対に人気になるはずだという確信がありました」

明るくスタイリッシュな内装の「みらい教室」はそれまでの放課後デイサービスの常識を覆すものだった

結果、「みらい教室」は人気を集め、3年で4店舗まで拡大。経営も安定し、平林さんは次なる挑戦に向けて走り出していきます。

ゼロから服作りを始め、悲願のパリコレへ

「みらい教室」が軌道に乗り始めた2019年、平林さんは友人との何気ない会話の中で、大きな衝撃を受けます。それは「パリコレのランウェイって、車椅子のモデルの人はいまだに歩いたことがないらしいよ」というものでした。

「これほどグローバルだとかボーダーレスだとか言われている時代に、ファッションの最高峰であるパリコレに車椅子の人が出ていないなんて馬鹿げてる、と思いました。もし、車椅子のモデルが最先端のファッションを身にまとっている様子を世界に発信できれば、障害というものに対するネガティブなイメージ自体をひっくり返せるんじゃないか、と」

目標の実現に向け、すぐさま動き出そうと考えた平林さん。パリコレへの出場を見据え、日本障がい者ファッション協会を立ち上げたのは、なんとその翌日のことでした。

「すぐに行政書士に電話して、『パリコレに出て世界を変えるんです』って何度も説明したんですけど、なかなか分かってもらえなくて。3回くらいは同じセリフを繰り返したと思います(笑)」

当時、洋服づくりの経験やアパレル業界とのコネクションは一切なかった平林さんでしたが、ゼロから仲間や支援者を集め、数年の時間をかけて準備を重ねていきました。車椅子ユーザーの方などへのヒアリングを重ねるうちに、身体障害のある人特有のファッションの悩みがあることが分かってきたといいます。

「実際に制作することになった洋服のアイデアは、ある半身麻痺の車椅子ユーザーの方とお話ししたことがきっかけになって生まれたものなんです。

その方はオシャレが好きだったけれど、車椅子ではお店の試着室に一人で入れなかったり、着たいと思っている服がひとりで着られなかったり、人の手を煩わすのが嫌で『オシャレはもう諦めたんや』と言っていました。それなら、体が動かしにくい人でもひとりで簡単に着られて、簡単にオシャレになれる服を作ろう、と。

ズボンの着脱に困難を感じる人が多いという当事者の声を聞いたこともあって、巻きスカートであれば車椅子に座ったままで簡単に着られるはず、と思いつきました」

平林さんが目指しているのは、障害のある人でも着やすいオシャレな洋服が、手軽な価格で簡単に手に入る世の中。まさに逆転の発想から生まれたアイデアでした。

洋服を低価格で普及させるためには、障害の有無や性別、年齢なども関係なく、どんな人であっても着られる洋服をつくるべき。また、男性の車椅子ユーザーの中には「スカート」と名前のついた洋服を着ることに抵抗を感じる人もいるかもしれないという懸念もあり、すべての人(all)が着られるボトムス(bottom)、という意味を込めた『bottom’all』という製品名を考案。そのままブランド名としました。

『bottom’all』の巻きスカートを身につけた平林さん。コーディネートを投稿するSNSは一躍話題に。

『男性がスカートなんて穿くのは変だ』という偏見を取り払う意味も込めて、ぼく自身がモデルになって写真を撮ったんです。世の中を変えるためには身近な偏見を覆していくところからだよな、と思って。当時は偏見と闘っていくための「戦闘服」と呼んでいました。でも、日常的に巻きスカートを履くようになると、動きやすいし、夏は涼しいし、足は長く見える。『これ、普通にめっちゃ良いやん!」と、ぼく自身の偏見が覆りました(笑)」

『bottom’all』の制作を始めてから、平林さんはスカートしか穿かない生活を送るようになりました。毎日違ったスカートを着こなす様子をSNSにアップすると、「格好良い」というコメントが多数集まり、国内外のメディアからも注目を集めるようになりました。そして2022年には念願が叶い、『bottom’all』はパリコレへの進出を果たしたのです。

2022年パリコレのランウェイを飾った『bottom’all』のコレクション

もしも、下着よりオシャレなおむつができたら?

パリコレへの出場という大きな目標を達成した平林さんですが、現在はまた、新たな目標を見据えてチャレンジを始めたばかり。次なるチャレンジは、なんと「おむつ」。身体障害のある方と話していたときに、「オシャレな服を作ってもらうのもありがたいけど、実はもっと深刻な問題があるんです」と打ち明けられたのがきっかけでした。

「現在のおむつってデザイン性が考慮されてないんですよ。若い人の場合、おむつ姿を友達に見せるのが嫌で旅行に行けないという方もいるほどです。『せめて下着と変わらないくらいのデザインのものがあったら良いのに』という声を聞いて、自分が作るべきだなと。

おむつは白じゃないとダメっていうのはただの思い込みですよね。機能性が変わらなければ、外側はスタイリッシュでも良いわけですから。それに、もし下着よりオシャレなおむつがあったらみんな穿きたくなるんじゃないですか。だって、機能性なら普通の下着を上回ってるんですから。漏らしても良いので、飲み会の日に履いてたら気楽ですよ(笑)」

平林さんが昨年からSNSで発信しているスタイリッシュなおむつのアイデアは、すでに多方面の注目を集めています。現在はオシャレなおむつのコレクションを紹介するファッションショーを企画中で、開催されれば世界最大規模のショーになる予定だといいます。

平林さんが製作中のおむつのプロトタイプ (Photo:Kohei Oka)

平林さんが新しいことに次々とチャレンジし続けられる理由は、どこにあるのでしょうか。最後にそう尋ねると、すこし意外な答えが返ってきました。

「ぼくはワクワクに抗えないんです。学校を立ち上げるときも、車椅子でパリコレに出ることを考えたときも『こんなものがあったら世界が変わるんじゃない?』と考えるとワクワクに頭が占拠されて、社会に提案したくてたまらなくなってしまう。

『社会貢献活動』なんて言ってもらえるんですけど、そんな高尚なものじゃないんです。もちろん、不便を解消したい、喜んでほしいという気持ちはありますけど、根本にあるのは『ワクワクしたい』という自分本位な気持ちなんですよ。『モテたいから美容師になりたい』と言っていた頃とそこまで変わらないのかもしれません(笑)。

でも、いまのぼくにはたくさんの仲間がいます。これが実現できたら世の中が変わるかもしれない、というアイデアに人は自然と集まってくる。みんながいるおかげで、ひとりでは到底できないことがいつの間にか実現しているんですよ」

「ワクワクするもの」を追いかける素直な探究心で、イノベーションを起こし続ける平林さん。ファッションの力で世の中の偏見を取り払い、新たなオシャレを生み出す平林さんのチャレンジは、これからもまだまだ続いていきます。

(取材・文 / 生湯葉シホ 写真 / 山元裕人)

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ライター生湯葉シホ
東京都在住。Webメディアや雑誌を中心に、エッセイやインタビュー記事の執筆をおこなう。2022年、『別冊文藝春秋』に初めての小説「わたしです、聞こえています」掲載。『大手小町』にて隔週でエッセイを連載中。

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ライター生湯葉シホ
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