産後うつから58歳で美ボディ女王へ「過食が止まらず、自分を責め続けてました」

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20年以上続けた華道・茶道講師から、50歳で栄養士へ転身。その後も宅建士や健康経営アドバイザーなど複数の資格を取得し、50代ではじめての起業にも挑戦した渡邊由美子さん。さらに50代後半からは本格的に筋トレを始め、「モデルジャパン2025岡山大会」クイーンクラスでグランプリを受賞するほどの美ボディを手に入れました。
一見華やかに見える渡邊さんの歩みですが、その裏には産後うつや摂食障害を乗り越えてきた波乱の経験があります。どんなときも新たな一歩を踏み出し続けてきた渡邊さんに、「はたらく」若者へ、年齢や状況を言い訳にせずにチャレンジするためのヒントを伺いました。
産後うつ・摂食障害。どん底から栄養士を目指すまで
──渡邊さんはどんな学生時代を過ごしていましたか?
中学・高校時代は剣道に熱中していました。家族で運動をする機会も多かったのですが、自分には怠惰なところがあると感じていて。「きちんとした環境に身を置かないと、ダラけてしまう」と思っていたんです。剣道部はとても厳格な雰囲気だったので、自分を律するにはここしかないと思い入部しました。
ただ、顧問の先生がとても怖くて、練習も想像以上に厳しかったです。特につらかったのが、冬に素足で行う寒稽古。当時は暖房もなく、足の感覚がなくなるほど冷たい体育館で、先生に向かって延々とかかり稽古をするんです。
竹刀で打たれる恐怖や、体力の限界で逃げ出したくなる中、「あと1回だけ、あと1回だけ」と自分に言い聞かせて挑んでいるうちに、限界を超えて力を出せるように。あの経験が「無理だと思っても、もう一度だけと思って挑戦してみる」という私の生き方の原点にもなっていると思います。
結果的に全国大会にも出場し、自分より勉強の成績の優秀な子たちからも一目置かれて自信がついたので、「100%以上の努力をして結果を出すと、自己肯定感が高まる」ということも学びましたね。

学生時代は部活とは別に茶道も習っていました。茶道には所作ごとに「利他の精神」や「命を尊ぶ心」といった意味が込められていて、一つひとつの型に集中して取り組むうちに「今この瞬間をていねいに生きている」と実感できるのが魅力でした。日常の喧騒から離れて心がスッと整うような感覚があり、まるでゾーンに入るような心地良さを覚えたんです。
──剣道や茶道などさまざまなことに打ち込んだ高校時代以降は、どんな進路を歩まれたのでしょうか?
大学に進学し、卒業後は家業が不動産関連だったこともあって、家業とは別の不動産会社に就職しました。ただ、はたらく中でやっぱり大好きな茶道を仕事にしたい気持ちが湧いてきて、2年で退職することに。その後は茶道と華道を学べる3年制の専門学校に進学しました。卒業して資格を取得したあとは、カルチャーセンターや公民館に直接足を運んで、「講座をさせてほしい」と飛び込み営業を重ねましたね。
──ほかの卒業生の皆さんも、茶道や華道の専門学校を出たあとは同じように営業をしてお仕事を始められるのですか?
いえ。そもそも当時は花嫁修行として通っている人が多く、茶道や華道を仕事にしようとしている人は少なかったです。仕事にすることを目指している人もいましたが、私のように卒業したあといきなり独立する人はほぼおらず、多くは専門学校の先生の助手になったり、憧れの先生に弟子入りしたりして経験を積む道を選んでいました。
ネットもない時代で同期もおらず、情報も限られていましたが、私は仕事にするつもりで専門学校に通っていたので「やるしかない」という気持ちで。周囲には若い先生もほとんどいなかったので、仕事を得たあとは歴の長い先生に負けないよう、どんなときでも毎日必ず着物を着ることや、華道の歴史や作法の意味合いなど資料をくまなく調べて準備することを徹底していましたね。そうして努力を重ねながら、結果的に20年以上、茶道や華道の先生として活動しました。

──その後、栄養学を学ぶために短大に入学されています。茶道や華道のキャリアからなぜ栄養の道へ歩むことになったのでしょうか?
第一子の出産のあと、産後うつと摂食障害を発症してしまったんです。摂食障害とは、食事を摂取することに問題が現れる病気のことです。私の場合は食欲が抑えられず、過食を繰り返していました。
「メンタルが弱いからだ」と自分を責め続け、なんとか病院の先生に薬を処方してもらいながら茶道と華道の先生を続けていたのですが、なかなか完治せず。その後、街中で見つけたメンタルトレーニングの教室に通い始めたのが大きな転機になりました。教室で出会った本を通じて、「感情が不安定になったり過食になったりするのは、決して意志が弱いからではなく、栄養不足による脳の危険信号の影響が大きい」と知ったんです。
そこから、栄養療法の血液検査を受けてみると、多くの栄養素が不足していることが分かりました。体の状態も感情も私の意志ではなく、栄養不足になっている体が危険信号を送り続けてくれていたんですね。検査結果を見たドクターにも「この数値ではつらかったでしょう」と言われ、ようやく自分の状態を理解してもらえた気がしました。
この経験を機に、栄養と精神の関係性を知り、「正しい知識を学ばないと、このままではもっと大変なことになってしまう」と危機感を覚えて。48歳で栄養士の資格が取得できる短大に進学しました。
首席卒業・宅建士合格・起業、すべてに役立った「目標設定」
──短大で栄養学を学んだことで、実際に体の変化はありましたか?
偏食をなくし、1日3回、栄養バランスのとれた食事を心がけて食生活を整えることで過食の欲求がなくなり、精神面も驚くほど安定しました。短大卒業から1年後には、症状が完全になくなったんです。
栄養だけでなく、メンタルトレーニングの教室で脳や心の仕組みも知ることができ、「自分の感情ややる気はコントロールできる」と学んだことも大きかったですね。
──メンタルトレーニングでは、具体的にどのようなことを学ばれたのでしょうか?
一番役立ったのは「目標設定技法」です。目標を具体的に設定することで、理想の姿に向けて「今やるべきこと」が明確になり、効率的かつ計画的に取り組めるようになりました。

たとえば、短大時代には「首席で卒業する」という高い目標を掲げました。そこから日々の課題やテストに向けて細かく計画を立て、一つ達成するごとに「ゲームクリア!」と自分を褒めて脳を「快」の状態にするんです。そうすると、もっとクリアしたくなって、目標を達成しやすくなります。
そんなメンタルトレーニングの学びも活かしながら、家事や育児の合間はすべて課題やテスト勉強に充てて努力を重ねました。家事や育児と勉強の両立がつらくて涙する日もありましたが、なんと本当に首席で卒業できたんです。
娘より若い学生が多い中での卒業式での表彰は、ほかの学生の親御さんに対して恐縮する気持ちもありましたが、それ以上に「やってやったぞ!」という大きな達成感がありましたね(笑)。
──その後、合格率約15〜18%とされる宅建士の資格も取得されているとのことですが、どんなきっかけがあったのか教えてください。
短大を卒業して栄養士としてはたらき始めて1年目の51歳のころ、親から「家業を少し手伝ってほしい」と頼まれたんです。宅建試験は年に一回しか実施されていないのですが、親から頼まれたときには試験がもう半年後に迫っていて。「この機会を逃すと来年も勉強することに……それは嫌だ」と思い、とにかく集中して勉強しました。
ここでもメンタルトレーニングで学んだ目標設定を活用し、「問題集のこの章からこの章までなん日までにやる」などと具体的な勉強の計画を立てました。海外旅行中の飛行機の中やビーチなど、空いている時間はすべて勉強に費やしましたね。その結果、なんとか一発で合格できました。
──宅建試験に合格されたあとは、どんなはたらき方をされていたのでしょうか?
合格後は栄養士としてはたらきながら、宅建士として実家の不動産業の会社を少し手伝うようになりました。一方で、父は建設業の会社も立ち上げており、しばらくしてから社長は別の方にお願いをしていたのですが、その会社が深刻な人材不足に陥ってしまいました。50年以上も続く老舗企業なのに、父は「もう終わりにしてもいい」などと言うのです。私はそれがさびしくて、なんとか会社を存続させるためにできることがないかを考えました。
そんなときに出会ったのが、「健康経営」という考え方です。従業員の健康を大切にすることでみんなが元気にはたらけるようになり、それが会社の活気や成果にもつながるというものです。「人的資本経営」という、人材を大切に育てることで会社の価値を高めていく考え方にも共感しました。
そこで、さっそく健康経営に関わる仕事を探す過程で「健康経営アドバイザー」という資格を見つけたんです。中小企業が健康づくりに取り組む際の相談役となって課題解決をサポートできる資格で、栄養士などの健康に関わる資格を持つ人も多く活躍していたことから「これだ!」と。私自身もメンタルや体調を崩すつらさを知っているだけに、これは企業をはじめ、そこではたらく方々やその家族や周りの人にとっても良い施策だと感じたため、2022年に資格を取得しました。
資格を取得したあと、父が立ち上げた建設業の会社の社長の方を説得して、実際に認定取得のサポートを始めました。すると、従業員や社内の雰囲気や風通しが格段に良くなり、はたらきやすくなったとの声をいただくように。結果的に人材不足は少しずつ解消し、経営の危機を乗り越えられました。
人手不足の中小企業は時間も限られているので、少しずつ社内の環境を整えていく必要があります。長期的にはたらきかけていくことで企業の利益につながっていくと思いましたし、家業だけでなくほかの苦しんでいる中小企業も支えたいという想いもあり、2024年にはじめて起業に踏み出しました。
──はじめての仕事で、さらに起業まで。不安はありませんでしたか?
起業といっても、店舗を構えるような赤字リスクの大きい形ではなく、必要な手続きを進めれば始められるものだったので、不安はそこまでありませんでした。「中小企業の経営を健康面からサポートしたい」という明確な目標を掲げた結果、延長線上に「起業」という選択があった、という感覚でしたね。
現在は課題を抱えている中小企業の方に健康セミナーや栄養指導を行い、企業の離職率改善や健やかにはたらける職場環境づくりに携わっています。栄養士やメンタルトレーニングの知識を活かして正しい情報を伝えることで、はたらく人たちの健康や意識が少しずつ変わっていくのを実感していますね。
58歳で美ボディコンテストも優勝!自分の幸せ=社会奉仕のワケ
──さまざまなキャリアを歩まれてきた中、『モデルジャパン2025岡山大会』クイーンクラス(50〜59歳の部)でグランプリを受賞されました。またどうして筋トレを始めることになったのでしょうか?

産後のダイエットを目的にパーソナルトレーナーについて運動を始めたのがきっかけです。産後うつになってからも、自分のペースで細々とジムに通っていました。忙しいときにはジムを休会することもありましたが、落ち着いたらまた再開し、やめることはありませんでした。行く前は面倒になることもありますが、筋トレ後はいつも心も体も軽くなると実感していたので、継続できたんです。
本格的な筋トレに力を入れるようになったのは、50代後半から。ジムに貼られていた「モデルジャパン」の大会ポスターを見て「面白そう」と思ったんです。トレーニングについては、それまでは明確な目標はなく、なんとなく取り組んでいる状態でした。でも、「大会に出る」と決めれば、体づくりにより一層身が入ると思って。

そこから週4回、1回2時間ほどのトレーニングを行い、体幹や有酸素運動も習慣化して一つひとつ努力を積み重ねた結果が、グランプリ受賞へとつながりました。モデルジャパンへの挑戦や筋トレを通して心身ともにより健康になり、普段の仕事にもいつも前向きな気持ちで取り組めるようになったと感じています。
──プライベートも仕事も、年齢や経験を問わず挑戦を続ける渡邊さん。「私なんかが」「もう遅いかも」と挑戦をためらう人へメッセージをお願いします。
今は人生100年時代といわれていますよね。私は今、58歳。よく「この年齢で挑戦するなんてすごいね」といわ言われますが、逆に「あと42年もあるんだから、やらないほうがもったいない」と思うんですよ。
たとえば60歳や70歳で引退して、そのあとの30年間をどうすごすのか。テレビを見ているだけで終わってしまうのか、それとも自分が好きなことに取り組んですごすのか。私は、最後の瞬間に「やっておけばよかった」と後悔したくない。だから、迷ったら「死ぬ瞬間にどう思うか」を考えて、とりあえずやってみるようにしています。
最初は、毎日1ミリずつ進歩すればいいんです。1年続ければ365ミリ。10年続ければ大きな差になります。小さなことでもいいから、毎日一つひとつ積み重ねて継続していくこと。それだけで未来は変わると思いますよ。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
人生は1本道だと思い込む必要はありません。私自身も、20年続けた華道や茶道から離れていいのかと悩んだ時期がありましたが、実際目の前には道はいくつもあるし、いつどんな道に行ってもいいのです。「こうでなければ」という思い込みや縛りがあるなら、それを一度手放して、身軽に一歩を踏み出してみてほしいですね。
そして、自分自身が幸せでいることも大切です。私自身、病気をしたときに家族がつらそうにしている姿を見て、「自分が幸せじゃないと、周りの人も自分も幸せを感じられない」と強く実感しました。
不機嫌な人がいると空気が重くなりますが、明るい人がいると周囲も自然と前向きになりますよね。自分が健康で、やりたいことに挑戦しながら幸せに生きることは、家族や大切な人、そして最終的には社会全体へいい影響を与えるはずです。まずは自分を幸せにできるよう、目標を立てながら自由に挑戦してみてください。
(「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆)

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