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題材は「妄想」。一度は挫折したボールペン画家・橋本薫が、再びペンを手にしたワケとは
ボールペンで創りだすモダンレトロな世界観
0.25ミリと0.5ミリ、2種類のペンを使い分けながら、モダンレトロなモチーフが、次第に浮き彫りになっていく――。ボールペン画家・橋本薫さんが表現する世界観は、どこまでも自由であり、どこかファンタジックなのが特徴です。
普段は出身地である神戸に居住する橋本さんですが、各地の商業施設とタイアップして、これまでに国内外で50回を超える展示会を開催。「会いに行ける画家でありたい」とのモットーから、展示会場には常時本人が在廊し、黙々と作品を描き続けています。
今夏、東京・表参道のAoビルで7月2日から8日間にわたって開催された展示会は、自らギャラリースペースをレンタルして催した初の単独個展。およそ170点の作品を持ち込んだこの展示会は、さまざまなメディアに取り上げられ、タレントやアーティストなど日ごろから親交のある著名人も多く駆けつけました。
「薫画伯」の愛称で親しまれ、華々しい活躍ぶりが目を引く橋本さん。しかし、今日に至る過程を追ってみると、そこには人知れぬ苦労と悩みがありました。
美術の名門校で味わった大きな挫折
「両親が共働きだったので、幼いころはいつも、おばあちゃんに面倒を見てもらっていました。カルタ遊びをしたり、チラシの裏に絵を描いたり。私の作風がレトロ調なのは、当時の経験が影響しているのかもしれませんね。いわゆる“おばあちゃん子”なのは、今も変わりません」
幼少時代をそう振り返る橋本さん。当時から絵を描くのは得意だったそうで、学校でもピカイチの実力を発揮していたのだそう。
「絵画なのか、それともイラストやデザインなのかは分かりませんでしたが、自分はきっと絵の道で生きていくことになるだろうなと、当時から確信していました」
そこで将来のためにより専門的に絵を学ぼうと、高校は美術の名門として知られる、兵庫県立明石高校へ進むことに。ところが、学区を越境してまで乗り込んだ高校生活で待っていたのは、大きな挫折体験でした。
「とにかく周囲のレベルが高すぎて、入学早々に愕然とさせられました。クラスメイトは皆、本気で美大を目指す人ばかり。ただでさえ私よりも才能のある人たちが最大限に努力しているのを目の当たりにして、『ああ、とても自分なんかが食べていける世界ではないんだな』と、すぐに思い知らされましたね」
それまで趣味で楽しく絵を描いていた橋本さんにとって、作品に点数をつけられ、優劣を突きつけられる環境は苦痛でしかなく、努力する天才たちとの差は開くばかり。橋本さんが苦笑交じりにこぼした「まるでイチロー選手が大勢いる中で野球をやらされているみたいでした」との言葉は、当時の心境を言い表す秀逸な比喩といえるでしょう。
絵の世界と決別し、会社員生活をスタート
とはいえ、学区を越境してまで進学させてもらった高校だけに、辞めるわけにもいきません。日々、劣等感が蓄積されていく苦しい状況のなか、橋本さんはせめて将来のためになることを学ぼうと、2年生のコース選択の際にビジュアルデザイン科を選びます。
そこでポスターデザインなどの基礎を身につけたほか、高価な画材のいらないアクリルアートを学んだことは、見逃せない収穫の一つでした。のちにボールペンアートというコストのかからない分野にのめり込んだのも、このアクリルアートの経験がヒントになっているのだと橋本さんは振り返ります。
しかし、高校時代はまだまだ苦難の最中。挫折体験をどこかで引きずり続けていた橋本さんは、どうにか3年間の高校生活をまっとうするも、その後は絵の世界と完全に決別してしまいます。
「一応、デザイン系の大学から合格通知をいただいてはいたのですが、とても美術を続けるモチベーションは湧きませんでした。今にして思えば、高校3年間で疲れ果てててしまったのでしょうね。結局、高校卒業後は進学せず、派遣で商業施設の受付などをやっていました」
絵のことを一切考えない生活は、それはそれで気楽で楽しかったと言う橋本さん。やがて地元企業で正社員としてはたらきはじめると、あっという間に10年の月日が流れました。
そんな彼女をアートの世界に引き戻したのは、ある行きつけのバーでの出来事がきっかけでした。
「その店の周年祝いに、何を贈ろうかと頭を悩ませていたところ、バーテンダーさんの似顔絵を描いてプレゼントしてはどうかと思いつきました。もう10年も絵筆を握ってなかったのに自分でも不思議ですが、きっと花を贈るよりも喜んでもらえるに違いないと、突然ひらめいたんです」
これが、その後の人生を左右する大きな転機になりました。
10年ぶりに取り戻した創作意欲
果たして、似顔絵を受け取ったバーテンダーは大喜び。作品は店を訪れる多くの客の目にとまり、たちまち神戸の繁華街の一角で大評判になりました。
「神戸は狭い街なので、あっという間に私の絵が広まって、ほかの店からも『うちも似顔絵を描いてほしい』と、次々に声をかけられるようになりました。界隈で“画伯”と呼ばれはじめたのもこの時期で、これがいまの薫画伯というニックネームにつながっています」
「自分の絵がこんなに多くの人に求められるなんて――」。そんな新鮮な感動をおぼえた橋本さんは、舞い込む似顔絵のオファーにできるかぎり応えようと、仕事の合間をぬって次々に作品を完成させていきます。
そして、自分が描いた絵が店の軒先に飾ってあるのを見つけると、なんともいえない喜びで心が満たされる。平穏で平凡な会社員生活に物足りなさを感じていた橋本さんにとってそれは、心を充足させる尊い経験でした。
そんなある日、あるジャズバーのオーナーに似顔絵をわたした際、こんな言葉をかけられました。
「薫さん、こういう芸事はきちんとお金をとらなければ駄目だよ」
お金のために描いたわけでも、お金になると思って描いたわけでもなかったからこそ、これは思いもよらない言葉でした。結局、押し切られるようにいくらかの対価を受け取った橋本さんは、当時の心境を次のように振り返ります。
「これが絵を描いて報酬をもらう、人生初の経験でした。金額云々ではなく、自分が描いた絵を評価していただけたことがすごくうれしくて……。今でも心に強く残っている、忘れられない出来事です」
絵を描くことの楽しさを思い出しつつあった橋本さんは、この体験によってさらなる創作意欲を取り戻していきます。
はたらきながら描きためた100点の作品
人から頼まれる似顔絵ではなく、インスピレーションを開放して自由な作品を描きたい。そう考えはじめた橋本さんは、まず100作品を描きためようと決意します。
「アートの世界で身を立てるのは、決して簡単ではないと十分に思い知っています。でも、作品が100点あれば、展示会のような催しができるかもしれない。漠然とそう考えて、とにかく暇さえあればペンをにぎっていました」
誰に頼まれたわけでもない自由作品を100点。はたらきながら成し遂げるのは並大抵の労力ではなかったはずですが、「この時期はとにかく描くのが楽しかった」という橋本さんは、水を得た魚のごとく創作に没入します。ボールペンアートに目をつけたのも、ペンとコピー用紙さえあれば昼休みなどの空き時間に描き進められるからでした。
そして、およそ半年の時間を費やして迎えた2016年10月。100作品を描きあげたタイミングで企画したのが、「成りあがり鯛展」と題したはじめての展示会でした。
「はじめて私に報酬をくれたジャズバーのオーナーさんにお願いして、店内に絵を展示させてもらったんです。近所の友人知人や飲みに来たお客さんが見てくれればいいなという程度に考えていたのですが、いざふたを開けてみると、大勢の方が私の作品を見に来てくれてびっくりしました」
心酔するアーティスト、矢沢永吉さんにあやかって命名されたこの展示会には、地元神戸の人々はもちろん、SNSを通じて橋本さんの作品を目にした人たちが次々に来場。なかには青森からわざわざ足を運んだ人もいたほど大盛況で、これが橋本さんにとって大きな転機になりました。
もう一度、夢に人生を賭けてみたい
「神戸には保守的なムードがあって、“なりあがりたい!”なんて野心を全面にだすと、奇妙な目で見られがちなんです。きっと内心では、美大も出ていない人間が何をたいそうなことを言っているのか、と思っていた人も多いでしょう。でもこのとき、結果的に多くの人に作品を見ていただけたことが励みになり、もう一度絵の世界に自分の人生を賭けてみようと、本気で決意するきっかけになりました」
高校時代に失った自信を取り戻させてくれたのは、自分の作品を楽しそうに鑑賞する人々の笑顔でした。そして、自分の作品に人を笑顔にする力があるのであれば、画家として生きていく夢にもう一度全力を投じたい。そんな想いがふつふつと橋本さんの胸中に湧き上がります。
大きな挫折を味わった高校時代から、ちょうど10年。情熱を取り戻した橋本さんは、会社勤めを続けながら創作に没頭します。
2017年に入ると、やはり神戸の飲食店に場を借りて、「おめで鯛展」や「夢み鯛展」など次々に展示会を開催。さらにはこの年、早くも海外進出を実現させ、マレーシアでも展示会を催しています。
「実のところこれは、コンプレックスの裏返しでした。美大を出ていない私が自信をもって画家としてやっていくには、なんらかのかたちで箔をつけなければならないと考え、それなら海外で経験を積むのが手っ取り早いと考えたんです。ちょうど、会社の仕事でマレーシアにツテがあったので、使えるものはなんでも使わせてもらおうと、現地の人を頼って展示会開催に漕ぎ着けました」
2017年から2018年にかけ、橋本さんは展示会やワークショップなど、実に30回ものイベントを実施しています。会場もマレーシアのみならず、シンガポールやタイ、さらにはフランスのパリまで、まさにグローバル。
これほど精力的に活動できたのも、思いがけずつながったご縁に助けられてきたからだと橋本さんは語ります。
「マレーシアで展示会をやらせていただいたカフェが、たまたま現地の伊勢丹の人々が多く訪れる場所だったんです。そこで『うちでも展示会をやりませんか』と声をかけてもらい、シンガポールやタイの伊勢丹での展示会が実現しました」
さらには自らメールで飛び込み営業をかけて、フランス・パリのジュンク堂の展示会まで実現。「海外で存在感を高めて、知名度を日本に逆輸入させる作戦でした(笑)」という橋本さんの戦略は、着々と実を結んでいきます。
絵を一生の仕事にするために退職を決意
こうした商業施設とのタイアップで催される展示会では、作品の売上げに対して何割かのマージンを会場側に支払うのが一般的。つまり、絵が売れなければ渡航費や滞在費の分、赤字になってしまいます。
しかし、そんな不安をよそに、海外でも橋本さんの作品は好評を博します。絵が売れるほど会場にも儲けがでる仕組みも手伝い、橋本さんのもとには次々に展示会の企画が舞い込むようになりました。
そして活動開始から2年後の2018年。橋本さんは会社を退職し、ボールペン画家として独立を決意します。
「幸い、どうにか食べていけるだろうという手応えはありましたし、専業画家になることを当面の目標にしていたので、迷いはなかったです。何より、会社員時代は心の片隅にずっと、“このままではいけない”という焦りがありました。だから不安よりも、ようやく進むべき道に戻れたという喜びのほうが大きかったですね」
退職という選択は、何がなんでも絵を描いて食べていくという、強い決意の表れでもありました。メディアで「美人画家」ともてはやされる橋本さんの活動は、はたから見れば華やかに見えますが、水面下では泥臭い営業努力を続けているのも、そんな決意の表れでしょう。
商業施設に飛び込みで展示会を提案し、開催が決まれば新聞やテレビなどありとあらゆるメディアにリリースを打つ。さらに知人や関係者には、びっしりと文字が手書きされた案内状を送ります。
「地方で展示会を行なう場合、移動は基本的に深夜バスばかり。早朝に目的地で降りて、漫画喫茶で時間をつぶして会場が開くのを待つのもざらです。もともと根が貧乏性というのもありますが、躊躇なく新幹線を使うようになったのは今年に入ってからですよ(笑)」
現在、橋本さんの活動が多くのメディアに取り上げられ、各地からイベント開催のオファーが絶えないのも、そうした陰の努力の賜物なのです。
活動を支えたのは「ご縁の数珠つなぎ」
橋本さんの作風は、当初から一貫してモダンレトロ調。繊細なタッチで緻密にデコレーションされた作品群は、一見ではボールペンで描かれたものとは思えません。
また、作品によっては思わずニヤリとさせられるユーモアが取り込まれているのは、「関西人のさがですね」と橋本さんは笑います。
「私の作品には題材というものが明確にはないんです。強いていうなら妄想が題材で、暗い絵は描かないことだけ、自分の中のルールにしています。どうせ描くなら、見ている人に心から楽しんでいただきたいですからね」
独立から4年。いまでは展示会での活動だけでなく、お酒のボトルのデザインを手掛けるなど活動の幅は広がっています。ここまでを振り返って、「コロナ禍で海外に出られなかったのは誤算でしたが、概ね満足しています」と橋本さんは語ります。
「結局、すべては縁が縁を呼ぶことからはじまっていて、自分がいかに幸運で、多くの人に助けられているかを日々実感しています。ご縁の数珠つなぎで今日までやってこれたようなものなので、サポートしていただいている皆さんには本当に感謝しかありません」
あるときなどは、そんな橋本さんの活動に着目して取材にやって来たテレビのカメラマンから、「僕の奥さんが東急ハンズに勤めているんだけど、よかったらそちらでもイベントをやってみませんか」と声をかけられたことも。これにより、東急ハンズ三宮店(※現在は閉鎖)で3度の展示会が実現しました。
「これがきっかけで、札幌から博多まで全国の東急ハンズでの展示会行脚はいまもつづいています。本当は今年、海外で勝負をしようとスケジュールをあけていたのですが、コロナでプランが頓挫してしまったので、東急ハンズさんには本当に助けられました」
また、今夏に東京・Aoビルで初の単独個展が実現したのも、活動の場を海外ではなく東京に求めたからこそ。結果、この個展がこれまで以上の反響を得たことで、橋本さんは「いま、自分にささやかな波が来ているのを感じています。この流れは逃したくないですね」と、静かに闘志を燃やします。
おばあちゃんになっても描き続けたい!
東京で勝負したい。今年は勝負の年にしたい。橋本さんの口からは、たびたび「勝負」というフレーズが聞かれます。これは、一度はこの道を挫折した身ゆえの、ルサンチマンに突き動かされての言葉のようです。
「アートというのは趣味に留めるか、それともメジャーを目指すのか、あるいは今の私のようにB級のままずるずると活動をつづけていくのか、大まかに3通りだと思っています。私の場合は、再びこの世界に戻ってきたからにはもう、メジャーを目指すしかないでしょう」
きっぱりとこう言い切るのには、理由があります。それは、ある地域で展示会を行なった際に出会った、人気絵本作家の姿がきっかけでした。
「その絵本作家の方と食事をしていたら、店のスタッフさんが次々に『Tシャツにサインしてください!』と集まってきたんです。さらにその様子を見たほかのお客さんまでが、『うちの娘がファンなんです』と集まってきて……。そこにいる誰もが笑顔でいるのを見て、なんだか猛烈にうらやましくなってしまったんですよ」
たくさんの笑顔の中心に作家がいることに、あらためてアートが持つ価値を実感したという橋本さん。
「とはいえ、こうして1人で作品を運んで設営して展示会をやるスタイルは、体力的にいつまでもつづけられるものではないでしょう。少しずつやり方を変えていく必要があり、いまはそのための基盤づくりの時期だと思っています」
10代のころのように無闇な夢を見ることはありません。じっくりと地に足をつけ、それでいて情熱的に、橋本さんは次のステージを見据えています。これも高校時代の挫折体験と、アートから離れた10年があったからこそ。
将来のことは誰にもわかりません。それでも、橋本さんは迷いのない笑顔でこう語ります。
「ここまできたらもう、おばあちゃんになっても絵を描きつづけたいですね。そしてかなうのであれば、メジャーな画家になってこれまでお世話になった人たちを喜ばせることができれば、これ以上幸せなことはありません」
“なりあがりたい!”という強い想いを胸に携え、薫画伯は今日も精力的にペンを走らせています。
(文・写真:友清 哲)
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