ロリータと看護師の2つの仕事。「私の人生の主役は私」好きなことを“世間”に明け渡さない

2023年10月5日

レースとフリルがたっぷりあしらわれたピンクのドレスに、何重にも重なるふわふわのパニエ。大きなリボンが付いたボンネット。千葉県にある自宅の一室には、いわゆる「ロリータ服」が所狭しと並びます。そのコレクション数はなんと1000着にも及び、6畳の部屋を埋め尽くすほど。

持ち主は、青木美沙子さん。

2009年に外務省より、ポップカルチャー発信使、別名「カワイイ大使」に任命された、日本を代表するロリータモデルです。いままで訪問した国は25カ国。世界中を飛び回り、日本カルチャーの一つであるロリータファッションについて世界に発信をしています。現在は、有名ロリータファッションブランドとコラボした商品開発を手掛けるなど、インフルエンサーとしても活躍中です。

そんな華やかな活躍の一方、歴20年のベテラン看護師としても活動をしています。現在、時間の割合的には少ないものの、看護が必要な人の自宅に伺う「訪問看護」の仕事を継続しているそう。

大好きな2つの仕事を貫いてきたはたらき方や、偏見にさらされながらもロリータファッションを愛し続けてきた青木さんにお話を伺います。

小6まで人形遊びに夢中

「幼いころは『姫ちゃんのリボン』や『セーラームーン』などのアニメが好きでした。普通の女の子が魔法で変身するというストーリーに憧れがあったんですよね」

幼少期から、かわいらしいものが好きだった青木さん。そんなアニメとともに熱を上げていたのは「人形遊び」。小学校中学年を過ぎると、周りの友達はゲームや外遊びに移行。しかし青木さんは小学校6年生ごろまで、人形遊びに夢中だったといいます。

「人形にアニメの主人公のような華やかなドレスを着せるのが楽しくて仕方なかったんです。
当時は小学生。もちろん、自分が着るドレスは持っていなかったので、『素敵なドレスを着て変身し、主人公になる』という体験を、人形あそびで再現していました。
引っ込み思案な自分が唯一輝けるときだったので、当時の私にとっては大切な時間で、
小学校6年生ごろまで、こっそりと続けていましたね」

得意なことが見つからず、抱いた劣等感

そんな小学生時代から、“世界観”が一変したのは中学時代のこと。定期的に行われるテストや部活、先輩・後輩との関係性……。新しい経験が怒涛のように押し寄せ、青木さんもその波に飲み込まれていきます。

「中学校に入ると、テストや受験で順位付けされるなど、『世の中の戦い』に足を踏み入れますよね。学校で教えてもらう科目のなかでは得意なことが見つからず、だんだんと『私なんて……』と劣等感を持つようになってしまったんです」

勉強に部活と慌ただしい毎日のなかで、青木さんは忙しさと劣等感に苛まれ、幼いころに持っていた「主役になりたい」「お姫様になりたい」という願望を忘れていったと言います。

そのころ、青木さんが夢中になっていたのは看護師が主役のドラマ。手に職を持ち、社会的な信用が高い看護師の仕事に魅力を感じた青木さんは、看護科のある高校への進学を決意します。水泳のインストラクターとしてはたらく母の姿が、はたらく女性のロールモデルとなっていたことも、進学へと背中を押したそう。
しかし、その時はまだ中学生。若くして人生の指針を決めることに恐怖心はなかったのでしょうか。

「その時にはすでに、看護を専門的に学べる学校に行くという選択肢しか私の中にはありませんでした。人より秀でたものがないと感じていたので、『ダラダラと目標もなく高校に通うのはもったいない。なにか少しでも人と違うことができるようにならなくちゃ』という気持ちもあったように思いますね」

「私にはコレだ!」ロリータ服との出会い

強い意志で看護師への道を目指し始めた青木さん。日々勉強に励み、見事に第一志望の看護科のある高校に合格を果たします。

「中学生までは勉強やスポーツで成果を出すことが人から評価を受ける軸でしたが、高校に入ると『オシャレかどうか』という軸がそこに加わりました。SNSがない当時のオシャレのお手本は、雑誌が中心。ファッションの勉強のために、かじりつくようにして『青文字系』の雑誌を読み込みました」

また、時は「読者モデル」の全盛期。高校生や大学生の一般の女の子がスカウトされ、雑誌のモデルになる……というストーリーは、多くのオシャレな学生たちの憧れの的。青木さんも例に漏れず、読者モデルになることに憧れ始めます。

こうと決めたら、目標へのコミットメントは本気なのが青木さん。お気に入りの古着屋で購入した青文字系のファッションを身に着け、友人とともに原宿のスカウトスポットを何往復も歩き続けました。そんな週末を10カ月ほど続けたある日、ついに雑誌のスカウトが!努力が実り、晴れて雑誌に写真が掲載されました。

「載ったのは小さな写真でしたが、あのときは本当にうれしかったですね。そのスカウトを皮切りに、毎週撮影に呼んでもらうようになりました」

雑誌の撮影をきっかけに、青木さんはその後の人生を変える運命の出会いを果たします。いつものように、ストリートファッション紙『KERA(ケラ!)』の撮影に参加した17歳のときのこと。

撮影当日、割り振られた衣装はふりふりのフリルがついたロリータ服。特に予備知識もなく、いつものように袖を通した瞬間、胸を貫かれたような衝撃が走りました。

「鏡を見た瞬間、『お姫様になっている!』と思ったんですよね。フリルやレースが贅沢にあしらわれたドレスは、まさに小学生の時に人形に着せていたドレスのよう。そっと胸の中に封印していた『お姫様願望』がかなったことの感動に、胸がいっぱいになった瞬間でした」

ロリータファッションは、当時のコンプレックスだったアトピー肌を隠してくれたり、モデルとしての自身の持ち味を引き出してくれたりしました。ロリータ服をまとった青木さんを見たスタッフから「かわいい!」という声が上がり、みるみる自分に自信が湧いて来るのを感じたといいます。心身ともに、自分自身に最もフィットするファッションを見つけた瞬間でした。

「私にはロリータファッションだ!」着れば着るほどロリータファッションに夢中になっていく青木さん。新しい洋服を着用させてもらえる撮影は、毎回楽しくて仕方がありませんでした。ロリータ愛が自然と雑誌の紙面から溢れ出たのか、青木さんが登場したページは毎月の人気ページランキングに食い込むようになり、ロリータファッションを生み出す国内のメゾンから「モデルとして自社の服を着てほしい」との声がかかるようになっていきました。

ロリータモデルか、看護師か

青木さんは、仕事をきっかけにロリータファッションに傾倒。心からロリータを愛し、プライベートでも身に着けるようになっていきました。

しかし、読者モデルの仕事が順調な一方で、短大に入ると青木さんが一番葛藤をした時期を迎えます。

ある時、ボンネットと呼ばれるヨーロッパ貴族が身につける華やかで大きな帽子を被って短大の授業に参加。するとツカツカと歩いてきた講師から頬を叩かれました。看護の現場は、常に生死と隣り合わせということもあり、服装や爪の長さ、頭髪に至るまでさまざまな規定が設けられています。そんな環境下で派手なロリータ服を身に着けた姿が、「講師の目には不真面目に写ってしまったのかもしれない」と青木さんは振り返ります。「どんなときも自分の好きなファッションでいたい」という気持ちが叶わないことで、心がしぼんでいきました。

看護師になるためには、実際の現場での実習や国家資格のための勉強など、ハードな道のりを乗り越える必要があります。青木さんも志をともにする同級生と励まし合い、試練に立ち向かいましたが、どうしてもつらいこともあったそう。

「実習中の人間関係にも悩みました。朝から仕事が舞い込んでバタバタとしてしまい、うっかり先輩に挨拶をしそびれて一日中無視をされることもありました」

一方で、モデルの仕事は順風満帆。撮影に参加すれば大好きなロリータファッションを着られる上「かわいい!」と自分の存在を肯定してもらえます。そんなモデルの世界と、厳しい上下関係がある看護師としての世界の乖離に「私はなぜこんなにつらい思いをして夢を追っているんだろう」と思ったこともあったといいます。

その時、青木さんを短大の卒業まで導いたのは、「いつかモデルの世界を捨てなければいけない」という気持ちでした。当時は「複業」という概念も言葉も、あまり一般的ではない時代。「一つの仕事を極めていくことが素晴らしい」という風潮がありました。

さらに読者モデルとしての仕事だけでは生計を立てていくのは難しく、周りの読者モデルたちも学生を卒業したら別の仕事をすることを視野に入れて活動していたそう。青木さん自身も、自立をするために看護師として一人前にならなければと奮起していたそうです。

「当時は『看護師が兼業するなんてとんでもない!』と言われる時代でした。看護も、モデルの仕事も、大好きで頑張りたかったけれど、『いつかはロリータモデルの仕事を捨てなければいけないんだろうな』という葛藤がありましたね」

看護師がロリータを支えた

短大を卒業後、国家資格に合格した青木さんは、中学生のころからの夢だった正看護師としてのキャリアをスタートします。医療現場の中でも過酷と言われる大学病院に5年間勤務し、昼も夜も懸命に患者さんのケアに勤しみました。人の生死に直結する仕事ということもあり、プレッシャーも大きかったといいます。

はたらき始めてからも漠然と「モデル活動はいつか辞めるんだろうな」と思っていた青木さん。しかし、夜勤という勤務体系があったおかげで、意外なことにモデル活動を継続することができました。夜通し看護師としてはたらいたあと、昼に撮影に向かうなど、体力的には大変な部分もありましたが、看護師の仕事を続けたことにはメリットもあったといいます。

「看護師としてはたらくことで生活の基盤をしっかりと整えられただけではなく、ファッションを楽しむ余裕ももつことができました。ロリータファッションは、トータルコーディネートで楽しむもの。インナーや小物、アクセサリーなども揃える必要がある上、当時は手頃な価格のロリータ服がなくすべてが高額。一式揃えるだけで10万円ほどかかるファッションでした。正看護師として勤務をして経済的に自立したことで、たくさんのロリータ服やアイテムを手に入れることができるようになったんです!このころがまさにロリータを極め始めた時期でした」

青木さんの実家には6畳の「衣装部屋」があり、当時から集め続けているロリータファッションのコレクションが所狭しと並びます。そのコレクションは、集め始めてからほぼ処分をしておらず、製造元のメゾンに現存しないものも多いとか。「映画撮影で使用したい」とレンタルの依頼が来るほど希少なものもそろっているそう。

看護師という職は、青木さんにとって、好きなことを「好き」と言い続けることや、好きなものを好きでい続けるための「自由」も与えてくれました。

カワイイ大使が世界を駆け回る!

大学病院の看護師としての仕事が9割、ロリータモデルとしての仕事が1割という割合で活動をしている最中、青木さんに大きな転機が訪れます。外務省から連絡があり、日本のポップカルチャーの広報活動を行う「ポップカルチャー発信使(通称:カワイイ大使)」に任命されたのです。

カワイイ大使の任命期間は、1年間ほど。海外を飛び回り、カルチャーイベントやお茶会に参加して、ロリータファッションを通して日本のポップカルチャーを発信することが仕事でした。

青木さんは、その時、勤めている大学病院で中堅の立場になっていました。看護師としての激務と、海外での活動が多いカワイイ大使の両立は物理的に不可能。どうしてもカワイイ大使の仕事に取り組みたかった青木さんは思い切って大学病院での勤務を辞め、時間に融通の効きやすい訪問看護師にはたらき方を変えました。

そこからは、フランスやアメリカ、中国やメキシコなど10カ国25都市を駆け巡り、分刻みのスケジュールでロリータファッションの魅力を伝え続けました。世界のあらゆる国で、「カワイイ!」という日本語が聞こえてくるのは不思議な気持ちだったと言います。そして現地のロリータに会うたびに、ロリータ文化がその国に根付きはじめていることに喜びを感じました。

外務省からの委嘱といえば、「日本の、ひいては世界のロリータ代表」としてのお墨付きをもらったようなもの。そんな状況でも、青木さんは看護師としての仕事も諦めませんでした。

「看護師とロリータの仕事は、心の満たされる部分が違うんです。ロリータの仕事は、自分がソロで表に立ち、主役となって評価される仕事。看護師の仕事は、あくまで患者さんが主役。チーム一丸となって患者さんの健康状態を良くするという目標があります。2つの居場所があることにより、私の心のバランスがとれているように感じます」

青木さんにとって看護師の仕事も、本当に大好きなもの。看護師の仕事をしている最中はロリータモデルの仕事を忘れ、ロリータモデルの仕事をしている最中は看護師の仕事を忘れます。2つの仕事をもつことが人間的な視野を広げたり、心の安定剤になっていると、青木さんは語ります。

Instagramフォロワー14.5万人 ロリータのカリスマに

長年、ロリータモデルと訪問看護師の2つの顔を持ち、活動を続ける青木さん。最近ではSNSの興隆により「インフルエンサー」としても活躍の場を広げています。SNSでの発信にも力を入れており、Instagramのフォロワーは14.5万人を超えたほか、中国のSNSの総フォロワー数は100万人を超えました。

現在はお茶会を開いたり、イベントに参加したりして、世界の隅々までロリータという文化を届けようと奔走しています。

インフルエンサーとしての仕事でほかに大きな割合を占めるのは、商品のプロデュース業。5~6ブランドから依頼を受け、企業と一丸となってロリータファッションアイテムの開発を行ってます。いままでやってきた看護師、ロリータモデルとはまったく毛色の違う仕事。一度失敗をしてしまったらなかなか声がかからなくなる可能性があるプロデュース業について「正直、プレッシャーもあります(笑)」と青木さんは言います。

いままでモデルとして活動している時は、アイテムを可愛く見せることだけにフォーカスしてきました。しかしプロデュース業となると『売り上げ』という概念がついて回ります。毎週、売上報告を見る瞬間はとても緊張しますね。どんなふうにすれば売れるんだろう、というマーケティング視点を持って商品を作ったり、PRを工夫するようになりました」

ロリータを愛する人々の心を鷲掴みにする商品を、次々と生み出す青木さん。コラボを熱望する企業が増えており、最近では手頃な価格で衣料品を販売する量販店との協働が話題になりました。

『まっすぐロリータ道』(光文社)

プロデュース業をはじめとして、声がかかった仕事は基本的にはお断りをしないことがモットーだといいます。プレッシャーを感じつつも、なぜ仕事を引き受けるのでしょうか。

「ロリータはとてもニッチな業界。未だに『お菓子しか食べないんでしょ?』などという偏見にさらされることや、『なにその格好!』など街中で心無い声をかけられることがあります。『純粋に好きな服を着ているだけなのに』と、その度に本当に悔しい思いをしていて……。ロリータ服は売れることを証明したり、自叙伝を出版して活動や考えていることを理解してもらったりすることで、世界のロリータの文化的地位や知名度、価値を高めたいんです」

「自分は世界のロリータを背負う人間」という自負があるからこそ、青木さんはプレッシャーやアンチコメントを跳ね除けて、さまざまな仕事にチャレンジし続けているのです。

世間にある「べき」にとらわれない

2023年6月、青木さんは40歳の誕生日を迎えたことを機に、「年齢で区切る目標」を立てることや「○○だから○○するべき」という考えから卒業しました。

「『○歳までに○○する』とか『○○だから✕✕してはいけない』という考えに縛られるのは、自分の好きなものやしたいことを世間や社会に明け渡していることに近いと思うんです。年齢を基準にして目標を達成できなかったり、守れなかったりすると自分の気持ちも落ち込んでしまう。それって、本来は感じる必要のない気持ちだと思います」

「○○だから○○するべき」という社会の規範にとらわれず、好きなものにまっすぐに向き合った結果、青木さんが本当にやりたいことは「身体が動くまで看護師としてはたらく」ということと「一生ロリータの仕事にかかわり続ける」ということの2つだったといいます。

「自分の人生は自分が主役です。だから自分が『好き』と思うものを大切にしていきたいし、それぞれの人が大切に思うものが、周りの人からも尊重される世の中であってほしいと思います」

青木さんは今日も、大好きなふわふわのパニエととびきりかわいいワンピースで、こよなく愛するロリータのために世界中を駆け巡ります。

(文:市川みさき 写真:山本真央)

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ライター市川みさき
1991年生まれ。栃木県出身。アパレルECサイト運営会社にてCSとマーケティングを担当したのち、2022年にライターとして独立。ビジネス系媒体や美容従事者向けオウンドメディアでの取材・執筆をメインに活動中。猫とエッセイが好き。

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ライター市川みさき
1991年生まれ。栃木県出身。アパレルECサイト運営会社にてCSとマーケティングを担当したのち、2022年にライターとして独立。ビジネス系媒体や美容従事者向けオウンドメディアでの取材・執筆をメインに活動中。猫とエッセイが好き。

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