「1番おいしいパン屋」でなくても勝てる。わざわざが年商3億円を達成した理由

2023年12月1日

環境や健康に配慮した商品だけが並ぶコンビニ

長野県東御市内を走る県道166号沿いにある、コンビニ「風」のお店。2023年1月13日にオープンしたそのお店「wazamart(わざマート)」に入ると、巷のコンビニとの違いがひと目でわかります。

たとえば、食品。冷凍ケースには、福岡県柳川市の農家が自家栽培した果物とこだわりの食材を使った椛島氷菓のアイスキャンディーが並んでいます。乾麺の棚には岐阜県美濃加茂市の桜井食品がつくる国産小麦100%、植物性原料のみを使用したラーメンが置かれています。

日用品にも、このお店のこだわりが窺えます。北海道の環境大善が開発した天然成分100%の消臭剤「きえ~る」、東京の松山油脂が手掛ける植物由来成分を用いたスキンケアブランド「Leaf&Botanics」など。1200に及ぶ店内すべての商品が環境や健康に配慮したもので占められているのです。

さらにユニークなのは、わざマートの隣りにある「よき生活研究所」。天井が高く広々とした空間に、座り心地が良さそうなソファやイスが配置されています。ここは1日3,000円、午後だけなら2,000円で利用できるスペースで、わざマートで購入した商品をキッチンで調理して飲食するのも可能。

よき生活研究所の中心に位置するキッチンスペース。広くとられたフリースペースでは、一日滞在して仕事をする人もいれば、書棚の本を読み耽る人も、昼寝をする人もいるそう

わざマートとよき生活研究所を開いたのは、平田はる香さん。同じ東御市にある牧原台地の山の上、標高約700メートルの場所にパンと日用品の店「わざわざ」を開き、年商3億円を超えるまでに育て上げた経営者です。彼女が短期の売り上げ目標に左右されず、本当に良いと思える商品だけを扱いながら事業を拡大することができたのはなぜなのでしょうか?

「わざわざ」が掲げるスピリットは、「すべては誰かの幸せのために」。その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

「仕事場」に飛び込んだ中学2年生

1976年、東京で生まれた平田さん。0歳で両親が離婚し、3歳の時、家庭の事情で祖母、父親、兄と4人で静岡県浜岡町に移り住みます。かつて建設会社を営んでいた祖父の資産を受け継いだ父親は、株式投資で生活費を稼ぎながら、生涯を孔子の研究に捧げました。平田さんの兄も物理学者をしているというから、探求型の家系だったのでしょう。

その血を引く平田さんは、子どものころから「なんで?」を連発する子どもでした。父親と兄はそれを受け止め、理路整然と回答してくれました。それが「普通」だったので、学校でも友だちや教師に同じように質問を重ねました。

「学校ではニコニコと愛想もいいんですけど、納得できないことはめちゃめちゃ問い詰めるような子どもでした。家庭の普通は世間の普通だと勘違いしていたので、変わった子だと思われていましたね」

「父や兄と同じようにコミュニケーションができる誰か」を学校の外に求めた平田さんは、中学2年生の時、近所の焼き鳥屋に「お手伝いさせてください」と頼み込みます。

片付けや掃除の手伝いをさせてもらうことになった平田さんは、自宅でも学校でも教わらない話を職場の大人たちから聞いて、好奇心の花が開きました。それから高校を卒業するまでの間、ゴルフ場のボール拾いから喫茶店の接客まで10種類ほどアルバイトを経験したと言います。ところが、そのうちにどこの職場でも同じような人間関係の問題があり、「どこも一緒だな」とはたらくことへの情熱は冷めていきました。

独学で切り開いたプロDJへの道

高校2年生の時、父親ががんで倒れ、「余命半年」の宣告。高校卒業前には手術が成功して生還するのですが、余命宣告がきっかけで、平田さんは高校卒業後、全寮制のホテルに就職する道を選びました。特に大学で学びたいことはなく、闘病生活を支えるのにはお金がかかるからという理由でした。

しかし、数々のアルバイトを経て仕事に冷めていた平田さんは、研修3日目で退職。父親の手術が成功して無事に生還したこと、すぐに会社を辞め気まずかったこともあり、好きだったファッションを学ぼうと東京のスタイリスト専門学校に進学します。その学校は現役のスタイリストが講師で、実習は広告や雑誌の撮影現場でした。そこで、再び幻滅します。

「当時は本当に酷い人がいて、カメラマンやスタイリストのアシスタントがパワハラを受けているのをよく見ていました。自分にはできないと思いましたね」

同じころ、クラブに通い始めていた平田さんは、技術とセンスで数百人、数千人をハッピーに踊らせるDJの仕事を「最高!」と感じていました。そこで自分もクラブで楽しみながらプロを目指すようになりました。それも、独学で。

「DJの世界も師弟関係の中で仕事を学ぶのが一般的だったのですが、自分にはその上下関係は無理だと分かっていました。それで、クラブでDJのプレイを見たり、友だちに教えてもらうことにしました」

クラブのDJというと、ド派手な音で観客を盛り上げるイメージがありますが、平田さんが好んだのはミニマルテクノという比較的地味なジャンル。その界隈にはさまざまなバックグラウンドを持つ物静かなオタクが集っていて、中には研究職についていたり、後にNASAの職員になった人もいたそうです。探究心の強い平田さんにとってウマが合う人たちが多かったことも背中を押しました。

「好きなことを追い求めるのは、もう辞めよう」

DJのプレイには、正解がありません。だからこそ、どこまでも追及できます。平田さんはぐんぐん腕を上げ、数年もすると主催するイベントも盛況になりました。その一方で、知名度が上がるにつれて現実を突きつけられます。

「かなり上達して、人気が出てきたと思っても、上には上がいるんですよ。私が練習しても絶対できないことを、簡単にやる人たちがいるんです。そういう才能を持つ人が何人もいて、自分の才能のなさに気付きました」

27歳の平田さんは悟ります。自分は、勉強では一番になれない。専門学校でも、圧倒的にセンスがいい人たちがいる。DJだったら……と思ったものの、それもダメだった。ということは、何かの才能で突き抜けるのは無理なんだ、と。そして、ここで腹をくくります。

「好きなことを追い求めるのは、もう辞めよう。自分にできることをしよう」

きれいさっぱりDJを辞めることにした平田さんは2004年、長野県に住んでいたパートナーとの結婚を機に長野に引っ越し、そこから「できること」に舵を切ります。

DJ時代、インターネットにも夢中になり、自力で腕を磨いてホームページの制作やウェブデザインができるようなっていました。その実績をもって地元企業にアプローチしたところ、即採用。会社員として勤め始めると、わからないことは自分で調べ、任された仕事を着実に仕上げる存在として評価を得ます。すると、紙のデザインも依頼されるようになり、グラフィックデザイナーとしての技術も身に着けました。

一方で、上司や社長に「なんで?」を連発して、煙たがれる存在でもあったと言います。ある日、社長や上司が集う会議で改善を提案するも、あえなく却下。。それを聞いた平田さんは、淡々と言い放ちます。「じゃあ、辞めます」。

こうして3年勤めた会社から離れ、久しぶりの自由を得た平田さんは、さらに「できること」の幅を広げていきました。

中古品の売買で学んだビジネスの基礎

まずは、フリーランスのウェブデザイナーとして仕事を始めました。同時進行で、ヤフオクへの出品も始めます。世の中の中古品市場では、本来、高価なものが安く売られていることがあります。それを発掘し、適正価格でヤフオクに登録すると、飛ぶように売れました。

ある中古品屋さんで一つ5000円という破格で売られていたフランス生まれの鋳物ホーロー鍋「ストウブ」を大量仕入れて販売をしたところ瞬く間に完売したそう。こうした成果を積み重ね、平田さんは自分の「目利き力」に自信を持ちます。

「埋もれているものの中から価値を見出すって、すごく面白いと思いました。しかも、好奇心が分散していたおかげで、いろいろなジャンルで見る目あったし、それを活かせる。初めて、好きなこととできることが一致したんです」

よき生活研究所内の展示スペースにはわざわざで取り扱っている商品のほか、平田さんの審美眼に合う生活雑貨や衣服が展示されている

もう1つ転機になったのは、子どもが生まれ「人の役に立ちたい」という思いが芽生えたこと。その変化を自覚したのは、自宅のリビングに子どものウンチが転がっていた時でした。理由は定かではないもののオムツのすき間からこぼれ落ちたのかもしれません。それを目にした時、平田さんは「かわいい」と感じたのです。

「赤ちゃんを一生懸命お世話するのはまったくイヤじゃないし、喜んでくれるとすごくうれしい。自分がそう感じたことに驚きました。それまで自分のことばかり考えて生きてきたから、人に尽くすことなんてなかったんです。子育てをするようになって、初めて『人の役に立ちたい』と思うようになりました」

パン屋開業に活かされたDJ時代の教訓

自分のできることを、人のために役立てたい。果たして何ができるだろうと考えた時に浮かんだのが、結婚後、節約するために作り始めた「パン」でした。

「実は私、ご飯派で全然パン食べないんですよ(笑)。ただ趣味でパンを焼くのがめちゃくちゃ好きで、25キロの小麦粉を買ってたくさん作っちゃったりして。もちろん家族では食べきれないから、近所に配っていました」

最初は、あくまでも趣味だったパン作り。その視点が「パン屋」に切り替わったのは、「このパン、売りなよ。おいしいよ。お店でもやったら?」という夫の言葉です。それを機に、これまで自分がやってきたことを振り返ると、ウェブやグラフィックのデザイン、ファッションの知識、目利き力、どれもお店に役立つものばかり。おいしくて健康的なパンを作れば、お客さんにも喜ばれます。

どれかひとつで突き抜けるのではなく、すべてをかけ合わせたらいいお店ができると考えた平田さんは、ウェブの仕事もヤフオクもすべて辞めて、「パン屋」に全精力を傾けていきました。

「パン屋になったら、趣味を極め放題っていうことですよね。しかも、新しいアイデアが浮かべば、新作として売りに出すことができる。パン屋ってすごくいいなと思いました」

開業の準備を始めるにあたり、DJをしていた時の教訓を活かしました。DJ時代は無理をして大きなスペースを借り、集客に失敗して借金を背負うことの繰り返し。だから、風呂敷を広げすぎず、無理をしない範囲でやろうと考えました。主な初期投資は、50万円で買った中古の料理用オーブンだけでした。

一番美味しくなくてもいい。長野県内のパン屋を巡って感じた「勝機」

しかし、平田さんには「遊び半分でゆるくやる」という考えはありません。初期投資を抑えたのはあくまでリスクを避けるためであり、パン屋としてどう勝負するかは考え抜きました。たとえば、リサーチのために、長野県内のほぼすべてのパン屋を訪問。さらに、取り寄せられるパンは軒並み購入し、梱包方法を含めてどう送られてくるのかを検証しました。その結果、「勝機あり」と確信。

私のパンが一番おいしい……という話ではありません。大半のパン屋は、おいしいパンを作ろうと努力します。しかし、数あるパン屋の中から選ばれ、お店まで来てもらい、買って食べてもらうために最大限の努力をしている店はほとんどないというのが、平田さんの見立てでした。

「DJとして技術を磨いても、お客さんがいなければ意味がありません。私は、周知が足りず集客できなかった痛い思い出があります。お客さんを集めるための努力をないがしろにしてはいけないとわかっていました」

まずは、存在を知ってもらう。そのために、開業の1年前からブログを始めました。さらに、ブログに掲載する写真をフライヤーとポスターにしました。そのデザインにも徹底的にこだわります。そして長野県内のおしゃれなカフェや雑貨店に足を運び、1000枚のフライヤーを置かせてもらったそうです。

「DJの時、店舗に何十枚も並べられたフライヤーの中から手に取ってもらえるのは、やはりデザイン性の高いものです。自分たちもそれを意識して作成したら、実際にお客さんが増えたんです。

ずらっと並べられたフライヤーの中で浮き立つぐらいインパクトのあるクリエイティブじゃないとダメだとわかっていたので、パン屋を始める時も同じ気持ちで作りました」

当時のショップカードやフライヤーは大切に保管されている

山の上にパン屋を開いた理由

満を持して、2009年2月、パンの販売を開始。最初は長野県小諸市の公共施設のスペースを借りて、週に1回の移動販売です。事前の準備が功を奏し、3月から5月までは好調な売り上げでした。ところが6月に入ると急に客足が鈍り、7月、8月も低迷します。

「接客が悪かったのか、パンがおいしくなかったのか」と自問自答し、思い当たるところはすべて改善しました。それでも売り上げは回復せず、「これじゃあ、ダメだ」と撤退を決意。2歳の子どもを車に乗せて移動販売するのも大変だったため、自宅にパン屋を開くことに決めました。

その自宅があるのが、御牧原台地の山の上。現在のパンと日用品の店「わざわざ」は、移動販売がうまくいっていたら、誕生しなかったかもしれません。平田さんは、自宅の玄関先に店を開いた後に知りました。梅雨から夏にかけて、パン業界全体の売り上げが落ちる時期なのだと。

それにしても、集客を重視する平田さんが、なぜ、決してアクセスがいいと言えない標高700メートルの山の上にパン屋を開いたのでしょうか?  

「普通のパン屋は絶対にしないから、人の興味をかき立てるじゃないですか。それに、大儲けしようなんて思っていなかったんですよ。お店をオープンした初年度の年商は200万ぐらいで、会社員時代より少ないんです。それでも好きなことで収入が得られて、満足していました」

パンの薄利を補い、わざわざ山の上にまできてくれたお客さんに喜んでもらうために、日用品の販売を始めたのもこのころ。自信をもって勧められる商品を仕入れて、店頭に並べました。

実店舗わざわざのオープン以後、移動販売していた時の常連さんをはじめ、意外なほどに多くのお客さんが山を登ってくるようになりました。口コミで、お客さんがさらに増えていきます。平田さんが山の上に自宅を建てたのは、そこから見える景色に惚れ込んだからだといいます。その景色は、お客さんの心をも捉えたのです。

スタッフ全員が辞めた危機から年商3億円への飛躍的成長

山の上でパン屋を始めるのと同じように、常識外れの決断をしたのは、2011年。それまで27種類焼いていたパンを、角食パンとカンパーニュの「食事パン」に絞りました。その背景には、増える一方だった労働時間を見直したいという思いと、チョコレートパンを食べ続けていた常連さんの体型がみるみる変わってしまったことへの反省があります。平田さんは、自分にとっても、お客さんにとっても「健やか」であることを望んだのです。商品を2種類の食事パンだけに絞ると、わかりやすく売り上げが激減しました。それでも、平田さんの思いはブレません。

「フランスに100年以上続いているポワラーヌというパン屋さんがあるんです。商品はカンパーニュだけ。その話をブログに書いたら、お客さんがフランス旅行した時にお土産で買ってきてくれたのですが、それが感動するほどおいしくて。広島にもカンパーニュしか焼いていないドリアンというパン屋があって、そこも同時期に知り合って、シェフの田村さんと話をしました。それで、生活に根付いた普遍的なパンであれば、2種類でも大丈夫だと確信しました」

その確信は、間違っていませんでした。1年ほどで客足が戻り、2013年には年商1,000万円を突破。それからはほぼ右肩上がりで売り上げが伸び続け、2017年には1億4,800万円、2022年には3億3,000万円と、飛躍的な成長を遂げています。

しかし、順風満帆ではありません。2015年、第二子を妊娠中にスタッフが全員辞めています。

「パン屋のスキルがある人、店舗運営のスキルがある人というふうに、クオリティを維持するためにスキル重視で採用していたんです。でも、その人たちと合わなくて、私自身厨房に行くのが嫌になっていましたし、スタッフも離れていきました。そこで、これからは、採用の時にカルチャーへのフィット感も確認しなきゃダメだと気づきました」

この年以降も、スタッフの採用やマネジメントは悩み続けてきました。平田さんは会社員としての経験がほとんどないため、お手本がありません。時には厳しく叱責し、それがうまくいかなければ優しく褒めてサポートし、あるいは極端にマニュアル化を進めてみたり、放任したりと手探りな経営。「何回も組織崩壊させてきた」といいます。

迷走する平田さんの助けになったのは、書籍。読書好きだった平田さんは、その時々の自分の課題を解決する本を探して読んで、知識をつけることで危機的状況をなんとか乗り越えてきました。

事業計画は未来を予測するための地図

行き当たりばったりだった平田さんを劇的に変えたのは、「ICC(INDUSTRY CO-CREATION)という経営者が集まるカンファレンスに参加し、多くの経営者と話をできたこと。その後、ICCで言葉を交わしたマザーハウス代表取締役副社長・山崎大祐さんが主宰する経営者・起業家・ビジネスパーソン向けゼミ「Warm Heart, Cool Head」に参加。2022年10月から今年3月まで半年間学び、経営に対する恐れが消えました。

「事業計画を立てるために、市場のリサーチなどあらゆるシミュレーションをすると不透明なことがなくなり、怖さがなくなると知りました。今は、シミュレーションの解像度が高ければ高いほど、事業の未来が見通せると思っています」

わざマートも、このゼミの時に山崎さんら講師陣と話しながら、事業計画が定まっていったといいます。そして今、平田さんが手をつけている中長期計画の中心は、「今後10年で、長野県内にわざマートのフランチャイズを30店舗に広げる」というもの。

調べ尽くして、掘り下げるのはもともと好きで、得意とするところ。ここでも、好きなこととできることが一直線につながりました。環境や健康に配慮した商品を生産者と消費者に無理のない価格で提供し、事業を育てていくことは簡単ではありません。しかし、何をすべきかターゲットが定まった今、未来をより確かなものにするために全力で駆け出しています。

「経営がクリエイティブな仕事だと最近ようやく理解できたんです。それだけの可能性があるならば、経営をもっと学んで、事業を育てることに本気で向き合っていきたいと思います」

しかし「10年以内に県内30店舗」はあくまで過程であり、手段。平田さんが目指すものは、パンを作り始めたころと変わりません。

「一番の願いは、今を生きる人たちの選択肢が増えて、みんなが健やかに生きられる状況を作るために役立つこと。それが実現できるならば、私はパン屋でも、経営者でも、どんな形でもいいんです」

(文:川内イオ 写真:小林茂太)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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