【取材】川嶋あいの半生。3歳で養子/『あいのり』主題歌で16歳にデビュー/命日「8月20日」のライブ開催。

2024年10月2日

『あいのり』の主題歌に

2002年9月20日、金曜深夜24時55分。当時16歳の川嶋あいさんは、自宅で息をのむようにしてテレビ画面を見つめていました。

その日は、フジテレビ系列の人気番組『あいのり』の新たな主題歌として、川嶋さん(ai)とnaoさんのユニット「I WiSH」が歌う『明日への扉』が初めて流される日。その瞬間を見届けようと、川嶋さんの自宅には、naoさんだけでなく、川嶋さんが「路上」で出会った仲間たちが集っていたのです。

番組のラストで、『明日への扉』のイントロが流れ始めます。その瞬間、歓声が部屋に響きました。川嶋さんの目から溢れ出す涙。その場にいる全員が、泣いていました。

誰よりもこの日を喜んでくれるはずだった人は、1カ月前の8月20日、亡くなっていました。「一番共有したい人がそばにいない」という悲しみは、それから10年間、癒えることがありませんでした――。

人生を変えた選択

川嶋さんは、幼少期に同年代の子どもたちと毎日一緒に寝て、起きて、遊んで過ごした日々のことをおぼえています。1986年2月21日に川嶋さんが生まれた時、父は行方不明、母は体調不良ですぐに乳児院に預けられました。同年代の友人たちとの思い出は、その後に移った児童養護施設での記憶です。

その記憶の中に、たまに会いに来てくれる夫婦がいました。幼い川嶋さんは「この人たちは私のお父さん、お母さんなんだろうな。いつか、この人たちのお家に帰れるのかな」と思っていました。実際には、実父の行方は分からず、実母は体調が回復しないまま、川嶋さんが生まれて半年ほどで亡くなっていました。川嶋さんに会いに来ていた二人は、間もなくして川嶋さんを養子に迎えます。ちなみに、まだ幼いころに養子に迎えられた川嶋さんは、実父と実母がいることを知らずに育つことに。

川嶋さんの幼少期

しかし、幼かった川嶋さんは福岡県の養父母の家に引き取られると、慣れない環境に施設に戻りたいと毎日泣きました。子どもを育てた経験のなかった養母は、どうしたらいいのかわからず困り果てたのでしょう。元保母さんが講師を務めている音楽教室を訪ね、育児の相談をしました。なぜ、そこにたどり着いたのか、分かりません。しかし、結果を見れば、養母の選択は二人の人生を大きく変えました。

「3歳から通っていたので、その音楽教室や先生のことは強い記憶として残っています。最初は先生が童謡を教えてくれて、それに合わせて踊ったり歌ったりするのがすごく好きで。その時の記憶に、泣いている自分はいませんね」

その教室ではもともと演歌をメインに教えていたため、そのうちに川嶋さんも演歌を歌うように。初舞台は、4歳の時。着物を着て、香西かおりさんのヒット曲「雨酒場」を歌……えませんでした。恐らく緊張していたのでしょう。舞台上で一言も声が出なかったのです。ただ、先生が教えてくれた振付だけは、忘れませんでした。振付だけのステージを終えると、同じ教室で学ぶ大人たちが、大きな声援と拍手を贈ってくれました。舞台袖で待つ母は、満面の笑みで「よく頑張ったね」と褒めてくれました。

マイクを持つ幼少期の川嶋さん

「将来の夢は歌手」になった理由

週1回だった音楽教室は、小学校低学年になると週5回に増えていました。福岡の地元で開催されている歌のコンテストにも出場するように。それは川嶋さんではなく、母の意志でした。

「『歌手になってほしい』という母の思いは、日に日に強くなっていました。でも、私は小さなコンテストでも一度も賞を取ったことがないし、自分よりうまい子たちをいっぱい見てきて、ほんとに才能がないんだなって歌うたびに痛感していたんです。歌手になるなんて無理だろうと、子どもながらに感じていました」

それでも教室に通い、コンテストに出続けたのは、母のため。本番でどんなに失敗しても、うまく歌えなくても、母はいつも「よく頑張ったね!」と笑いかけてくれました。その笑顔を見たくて、いつしか「将来の夢は歌手」になりました。

10歳の時、父が亡くなって二人暮らしになります。それからますます応援に熱が入ったのかもしれません。毎日、毎日、「練習しなさい」と迫ってくる母。しかし、いくら一生懸命に歌っても、コンテストで勝てません。

その現実に耐えらず、小学校5年生の時、家を飛び出した川嶋さんは音楽教室に駆け込んで、「自分は才能がない。もう辞めたいです」と先生の前で大泣きしたことがあります。その時、先生は川嶋さんの母がどれだけ娘のことを大切に思って子育てしてきたかを話してくれました。それを聞いて、「もう一度、一から頑張ってみよう」と考え直したのです。

出生の秘密を知った日

もの心つく前から母と二人三脚で歩んできた川嶋さんが、自分の出生について知ったのは中学1年生の時。母から、自宅の金庫の中にある書類を取ってくるように頼まれた際、なにげなくほかの書類を手に取りました。その書類には母親の名として聞いたことのない名前が書きこまれていたのです。

呆然としながらも事実を悟った川嶋さんは、母に書類を見せて、「これは何?」と尋ねました。母はそれまで一度も見せたことがないような悲しげな表情を浮かべ、静かにこう言いました。

「あいは小さいころ、施設におってね。お父さんとお母さんがその施設であいと出会って、川島家に引き取ったとよ」

想像もしなかった事実に、言葉を失う川嶋さん。

「私もいっぱい聞きたいことはあったんです。でも、パンドラの箱みたいに開ければ開けるほど、見たくないものとか、知りたくないことが出てきそうで、私もそれ以上は何も聞けませんでした。本当のお父さん、お母さんが誰なのかとか、どうしてこういう運命になったのかはどうでもよくて、本当のお父さんお母さんだと思っていた人が、そうじゃなかったということに打ちのめされました」

しかし翌朝、母はいつもとまったく同じ表情、態度で川嶋さんを迎えます。その様子を見て、川嶋さんは「この人が私の母親だし、一番大切な人だ。この人がそばにいるんだから、そのほかの事実なんて関係ない」と思うことができたのです。それから一度も、二人ががあいさんの出生について話題にすることはありませんでした。

13歳で演歌歌手デビュー

中学生になってからも、二人は地元のコンテストに出場を続けていました。その執念にも似た情熱が、出会いを引き寄せます。あるコンテストで審査員を務めていた作詞家の石坂まさをさんから、声がかかったのです。

学校が長期の休みに入ると東京にある石坂さんの家に泊まり込んでみっちりとトレーニングを受けました。悲願のデビューは中学2年生の時。ついに夢を叶えた母と娘は、「やっとデビューできるんだね!」と手を取り合って喜びました。

デビュー曲『十六恋ごころ/あなたに片想い』では、作曲も担当。小学校高学年のころから独学で作詞作曲をするようになり、それを石坂さんから評価されてのことでした。

「日常とはまったく違う世界で生きさせてくれるのが創作の世界で、自分が解放された感覚になれるんです。現実にどんなにつらいことがあても、創作をしている時は違う世界で生きている感覚があって、すごく楽しいですね」

「創作の世界」で磨かれた才能が発揮されるのは、もう少し後のこと。デビュー後、プロモーションで地元の福岡県内各地を巡った母と娘は、甘くない現実を知ります。CDがまったく売れなかったのです。

1年ほど「ドサ回り」を続けた川嶋さんは、母親と相談して大きな決断をくだしました。

「単身で東京に出て、J-POPで勝負する」

4歳のころから慣れ親しんだ演歌から離れるのは怖くなかったんですか?と尋ねると、川嶋さんは首を横に振りました。

「私にとっては手段の一つなんですよね。とにかく母の夢を叶えるために何を選ぶか、その最善の道を探していくっていう。だからJ-POPへの抵抗はまったくなくて、これが次の生きる道だと思って上京しました」

東京では母親の知人の家に居候しながら、芸能人が通うクラスがある堀越高校に進学しました。東京に、ツテはありません。雑誌『Deview』『Audition』などに掲載されている募集にデモテープを送る日々。しかし二次審査にすら進まないことも多く、孤独の中でどんどん煮詰まっていきました。

「背水の陣」で渋谷の路上へ

2002年、高校1年生の2月、東京・四谷の橋の上で真冬の冷たい風に吹かれながら、川嶋さんはマイクを握っていました。

「もうこれしかないっていう背水の陣でした。路上ライブでダメだったら、夢を諦めて福岡の母のもとに帰ろうっていう気持ちでした」

この時、3つの目標を掲げます。

・路上ライブ1000回
・自主制作CD手売り5000枚
・渋谷公会堂でのワンマン・ライブ

四谷を選んだのは、当時、居候していた家の近くだったから。すぐに「会社員の人ばかり」だと気付き、「もうちょっと人がいるところに飛び込まないと、変われないかもしれない」と渋谷に場所を移しました。

四谷と比べると、渋谷の人通りは桁違い。歩いている人たちも若者が多く、賑やかです。その路上で歌うのは、「毎回怖かった」と言います。酔っぱらいに絡まれたり、怖い人に脅されたりして、演奏を中断せざるを得なかったこともあります。それでも毎日、渋谷のストリートで歌い続けました。

「これは母と似ているところだと思うんですけど、負けず嫌いなんです。その状況に勝ちたい、自分に勝ちたいという思いだけでした」

路上ライブをしている当時の川嶋さん

この当時、ストリートに出ている女性のアーティストは珍しかったそうです。川嶋さんの歌、そして川嶋さん自身に興味を持ち、足を止める人が少しずつ増えていきました。

その中の若者数人と言葉を交わすようになり、食事に行くようになりました。川嶋さんはそこで、「母のために歌手になりたいんです」と打ち明けます。真剣なその思いを聞いた若者たちは、川嶋さんのサポートを買って出るようになりました。今も関係が続くそのうちの一人が、当時大学生で現在は川嶋さんが所属するつばさレコーズ代表取締役社長を務める佐藤康文さんであり、同じく当時大学生でのちに「I WiSH」のパートナーになるnaoさんです。

「彼らに出会ったのは渋谷に移ってほんとにすぐだったので、最初は私も警戒していました。田舎から出てきた私からすると、東京の人たちって怖かったんです。でも、東京で初めて気楽に話せる仲間になりました」

夢のような依頼と過酷な現実

渋谷で歌い始めてから数カ月、たまたま通りがかったというレコード会社の人や芸能事務所の人から名刺を渡されることはあったものの、目立った変化もなく日々は過ぎていきました。その日常を一変させたのは、恋愛バラエティ番組『あいのり』のプロデューサーからの依頼です。

「路上で歌っていた楽曲に『あいのり』の世界観の歌詞をつけてくれないか」

「渋谷で歌っている女の子がいる」という噂がプロデューサーの耳に入ったのが、たまたま新しい主題歌の募集を始めたタイミング。「新人もいいかもしれない」という話になり、プロデューサーは渋谷に足を運びます。そこで川嶋さんが中学3年生の時に作詞作曲した『旅立ちの日』を聞き、オファーに至ったそう。福岡にいる時から『あいのり』を観ていた川嶋さんは、依頼を受けた時、「まさか!」と仰天しました。

ただし、主題歌はコンペで選ばれます。これまでコンテストで受賞したことも、オーディションを突破したこともなかった川嶋さんは、「自分が受かるはずない」と思っていました。それでも「夢のよう」と感じたこのチャンスに懸けて、歌詞を考えました。

番組側とのやり取りは、川嶋さんのために学生起業して芸能事務所「ダブルウィング」を立ち上げた佐藤さんが担いました。番組側から何度も歌詞の修正依頼が入り、川嶋さんはそのたびに書き直しました。

2、3カ月経ったころ、「最終候補に入っている」と連絡がきます。母に報告すると、舞い上がった母はフジテレビに電話をかけて、「このたびはうちの娘の楽曲を選んでいただき、ありがとうございます」とお礼の電話をかけました。川嶋さんは「まだ決まってないから!」とたしなめたそうです。

それからわずか数カ月後の8月20日、母が病気で急死してしまいます。最愛の人を亡くした川嶋さんは放心状態のまま、音楽活動を続けます。それができたのはきっと、「歌手になりなさい」という母の強い思いが刻み込まれていたからでしょう。

「I WiSHのaiさんですよね?」

9月の頭、主題歌が『明日への扉』に決定したと連絡を受けても、「信じられない。絶対ウソだ」という思いが拭い去れず、素直に喜べませんでした。9月20日の金曜深夜、関係者みんなで『あいのり』を観て、『明日への扉』が流れ始めた時、初めてすべてが現実に起きたことだと実感できたのです。全員で泣きながら、お互いを称え合いました。

この日から、川嶋さんの二重生活が始まります。「I WiSH」は、ファーストシングル『明日への扉』でソニーミュージックから翌年の2月14日にデビューすることが決定していました。「I WiSH」でaiと名乗っていた川嶋さんは、自分がaiだということを伏せる約束になっていたのです。

『明日への扉』は、番組で流されると同時に脚光を浴び、日本中の若者たちが歌詞やメロディを口ずさむような歌になっていきました。CDは最終的に90万枚を超える大ヒットを記録したことからも、その人気ぶりがうかがえるでしょう。

その状況でも、川嶋さんは渋谷のストリートで歌っていました。自分で立てた3つの目標を、何一つ達成できていなかったからです。前述したように、『明日への扉』は『旅立ちの日』の歌詞を変えたもの。路上に出た時から『旅立ちの日』を歌い続けていたから、共通点に気付く人もいます。

「I WiSHのaiさんですよね?」と聞かれると、川嶋さんは「違います」と答えていました。「ウソをついて申し訳ない」という気持ちと同時に、妙なリアリティを感じていたと言います。

「路上ライブ1,000回を目指して、渋谷で歌っているのが現実の世界で、リアルな自分なんですよね。『あいのり』の主題歌を歌っているaiはバーチャル的な感覚でした」

2003年は、転機の年になりました。2月にメジャーデビューシングルをリリース。5月には、川嶋あいの自主制作CD5,000枚を売り切りました。そして8月、渋谷公会堂で川嶋あいのワンマン・ライブを開催。そのステージ上で、ついに「I WiSH」のaiだと告白しました。

I WiSHのライブの様子

ここから、川嶋さんはシンガーソングライターとしての階段を駆け上がっていきます。2005年3月、ソロ活動に専念するために「I WiSH」を解散すると、4月にシングル、5月にアルバムを発売。どちらもオリコンベスト10にランクインしました。2年前には誰も知らなかった十代の女の子が、メジャーなアーティストと肩を並べた瞬間でした。

10年間埋まらなかった心の穴

その後も、2007年に出した11枚目のシングル『My Love』が週間オリコンチャート初登場5位を記録、2010年にはアメリカの著名なジャズピアニスト、ジョー・サンプルのプロデュースで『I Remember』をリリースするなど、川嶋さんは活動の幅を広げていきます。しかし、華やかな舞台の裏側で、胸の内に空いた穴は埋まっていませんでした。

「新しい曲を作る時も、イベントやライブで歌う時も、毎回、精一杯チャレンジしてきました。その達成感はあるんですけど、それを一番共有したい人がいない。常に『母がいないのに、歌っていて意味あるの?』と自分に問いかけていました。母が亡くなってから、どこに向かって歩んでいったらいいのか、分からなくなっていたんです」

この感覚は、「I WiSH」でデビューしてから10年ほど続いたと言います。それではいけないと思うようになったきっかけは、2003年から続けてきた、母の命日にあたる8月20日のライブ。川嶋さんにとって特別な日に開催するライブは、ファンにも、スタッフにも特別だと気づいた時、川嶋さんはハッとしました。

「8月20日のライブを10年続けた時、ファンの皆さんがどれだけこの日を大切に思ってくれているのか、わかったんです。毎回土日にかぶるわけじゃないから平日の時もあるのに、全国から集まってくれるんですよ。韓国や中国から来てくれるファンもいます。スタッフのなかには、8月20日が誕生日なのに、私に気を遣って黙っている人もいました。それで、自分のことしか考えてなかったって気づいたんです。母が亡くなってからも、つらいことがあっても頑張ろうと思えたのは、支えてくれる人がいたから。その恩を返していける人間になりたいと思いました」

毎年開催していた母の命日である8月20日のライブ

恩を返すには、どうしたらいいだろう?川嶋さんは、幼いころからずっと母親の笑顔が好きで、「母の気持ちに応えたい」と歌ってきました。母が亡くなった後も、周りの人が喜んでいる姿が見たくて、求められることを表現してきました。

その一方で、自分がやりたいことや伝えたいメッセージを表に出すのは控えていたのです。

川嶋さんは「自分が何かをやりたい、という前に、目の前の人が考えることをやってあげたい、そうすれば喜んでくれるんじゃないか、その想いの方が勝っちゃって、自分とあまり対話をしてなかった」と話します。

そこに目を向けることが、感謝の気持ちを届けるための一歩になるかもしれない――。そう閃いた川嶋さんは、自分を変えました。

「自分の思いを、自分の言葉で発信することを始めました。心の奥底に沈んでいた自分の気持ちを一つ、ひとつすくい上げていくんです。作詞をするのも、語尾とか細かな言葉の選び方にも悩むようになって、以前よりすごく時間がかかります。でもそれが楽しくて、母のことを考える時間が減りました」

期待に応えることを優先するのではなく、自分と向き合う。自分の言葉で伝える。自分のために生きる。そう意識することで「母から独り立ちできたのかもしれません」と、川嶋さんは笑顔を見せます。

「目には見えない絆」

8月20日のライブは、母の命日であると同時に、ファンやスタッフへの恩返しの場になりました。しかし、川嶋さんは2023年を最後にこのライブを中断することを決断しました。

数年前から声帯の不調に悩んでいた川嶋さんは、2022年に手術を受けました。それは「最後の賭け」でしたが、思い通りの結果は出ませんでした。

「自分の音楽にこだわりが強くなったからこそ、自分が理想とする表現ができなくて、妥協するのがイヤなんです。思うように表現できない状態でファンの皆さんに歌を届けることはどうしてもできないと思って、2023年を最後にすると決めました。2023年8月20日のライブはとても愛おしい時間で、永遠のように感じる一日を皆さんと一緒に作れたことがすごく幸せでしたね」

8月20日のライブは終わってしまいましたが、歌うことをやめたわけではありません。2024年4月には、新曲『絆』をリリースしています。これは、国交樹立50周年を迎えた日本とベトナムの友好ソングとして書き下ろしたもので、川嶋さん自身もベトナムを訪ねたほか、日本やベトナムの関連イベントで歌声を披露しています。この歌には、「心の線を引くのはやめよう」という思いが込められています。

「自分と何かが違うというだけで心の線を引いて、分かり合えなくなってしまうことってありますよね。私もそんな自分をどうにかしたいなって思う瞬間があって。もっと心と心でその人のことを見て、感じて、言葉を交わしてみたら、きっとわかり合える部分があると思うんです。そういう目には見えない絆を大切に生きていけたらなっていう願いを込めました」

振り返ってみれば、川嶋さんは生まれてきた時から「目には見えない絆」に支えられてきました。乳児院や児童養護施設のスタッフ、養父母、路上で出会った仲間たち、そして大勢のファン。

「この歌は、川嶋さんの歩みにも重なっていますね」と伝えると、「そうですね」とほほ笑みました。

「本当にいろいろな人との絆を感じています。人はひとりじゃ生きられないから」

(文:川内イオ)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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