『香水』の瑛人「普通に生きる今がいい」。小規模ライブで全国を回る現在地

2024年8月9日

2019年リリースのヒット曲、『香水』。実は同曲はシンガーソングライターの瑛人さんが音楽学校で制作し、初めてレコーディングした楽曲なのだそうです。

初の楽曲がSNSで話題になり、主要音楽配信チャートで1位を獲得、ミュージックステーションやNHK紅白歌合戦をはじめとする多数のメディア出演など、サクセスストーリーを体現した瑛人さん。ここ数年メディアで見かけることが少なくなりましたが、現在はどのような活動をしているのでしょうか。

『香水』のヒット当時のこと、現在の活動や音楽との向き合い方について、瑛人さんに直接お話を聞きました。

瑛人さんの最近のライブ活動の様子

学生証が欲しくて、音楽学校へ

──瑛人さんはシンガーソングライターとして活動されていますが、幼少期から歌手を目指していたのですか?

小さいころは、自動車整備士、ボクサー、建築士とか、コロコロと将来の夢が変わっていました。「歌手もいいかな」と思ったこともあったけど、歌うとすぐに声が枯れてしまうから無理だなと。家族でカラオケの点数を競っても、いつも負けていましたね。

少年野球チームでピッチャーをしていた瑛人さん

ものづくりやクリエイティブなことにも特に興味があったわけじゃなくて。中学では公式戦で一度も勝ったことがないような、弱小野球部。高校では“なんちゃって”ダンス部でした。文化祭を見学したら体育館でダンス部のギャルが踊っていて「高校はこの部で決まりだ」と。いざ入部したら、校則が変わったせいで、ぼくの好きだったルーズソックスのギャルはいなくなってしまったんですけど(笑)。

──ダンス部に入ったのはギャルとお近づきになりたいという理由だったのですね(笑)。高校卒業後は進学しなかったそうですね。

周囲は進学する人ばかりで、フリーターになったのはぼくとあともう1人。それが今はプロダンサーや振付師として活動しているパワーパフボーイズのKANなんですけど。

自分が進学しなかったのは、どうせ辞めそうだと思っていたから。お金がもったいないなと。学費として数百万円使うのであれば、自分のやりたいことを見つけて、それにお金を使えば良いかなと思っていました。ワーキングホリデーなんていいなと思ったり。そんなことを考えていました。

──それで「やりたいこと」として、シンガーソングライターという目標を見つけたのですね。

うーん、どうだろう。よく仲間とラウンドワンとかカラオケに行っていたんですけど、そこで自分だけ学生証がないから割引きがなくて。

そのことをバイト先の横にあるスケートショップではたらいている友だちに話したら「週2回くらい通えば学生証を貰える場所があるよ」と言われて。それが音楽学校だったんです。週2だからはたらけるし、学費もそこまで高くない。学生証ももらえる。「いいじゃん」って。

──では、入学当初はプロのシンガーソングライターになろうとは思っていなかった?

全然。だから音楽に向き合う熱量も周囲とは違いました。音楽経験者ばかりだったし、売れたいとか、高い目標を持っている人が多かったですね。同級生はボイストレーニング、ギター、作曲とかたくさんのコースを受講していたけれど、ぼくはシンガーソングライターのコースだけ。

絵空事で「ジャスティン・ビーバーがリツイートしてくれたら」なんて思うことはあっても、「売れたい」「売れる」とかそこまで考えていなかったし、考えられるレベルでもなかったです。とにかく自分の歌を作ってみたいと思っていただけで。だから2年制のコースだったけれど、1年で学校を辞めてしまっています。

『香水』誕生のきっかけは、バイト先のオーナーの香水

──でも、その音楽学校時代に『香水』が生まれたのですよね。

そうですね。当時、ぼくはちょうど彼女と別れて『香水』の歌詞みたいな時期だったんです。バイト先のハンバーガー屋のオーナーと毎週末遊んでいたのですが、そのオーナーがドルチェ&ガッバーナの香水を使っていて、それを「ちょっと持っていて」と言われて、預かったままだったんですよね。

香水を預かった日の翌日、友だちと遊びでセッションをして、そのときもそのまま香水を持っていたんです。ギターの音に合わせて適当に歌っていたときに、「別に君を求めてないけど〜」「君のドルチェ&ガッバーナの〜」というフレーズが降りてきました。

瑛人さんと『香水』誕生のきっかけになったハンバーガー店のオーナー

──名曲が誕生した、という感覚はあったんですか?

そんなことはまったく思わなくて、「わっ、『サザエさん』の曲っぽくない?」みたいな。それを学校の授業で当時ぼくの先生だったアーティストのルンヒャンさんにも手伝ってもらいながら、曲として仕上げていきました。

──その曲が後にSNSでバズりにバズった。

TuneCore(チューンコア)というアプリで個人配信したんです。普通に自分のInstagramで「12時にリリースします」みたいに告知して。

MVは友達のダンサーのAKARIちゃんに出演してもらって、それでもYouTubeで3,000回から4,000回再生されれば良いかなぐらいに思っていました。

ただ、TikTokでバズる前でもYouTubeで7万回ぐらいは再生されていたんですよね。当時、横浜で飲んでいたときに、『香水』を口ずさんでいる人がいて、「イェーイ」みたいに超アガりましたね。「その曲作ったの俺だよ、俺」みたいな。思い返すと、その瞬間が一番うれしかったかな。

──そこから何がきっかけでバズったのですか?

まったくわからないです。コロナ禍に入って、バイトをしていたハンバーガー屋が営業自粛したため暇になり、毎日KANと一緒に飲んでいたんです。二日酔いで家電量販店のマッサージチェアに座ってくつろいでいたら、急に携帯の通知が止まらなくなった。

TikTokでみんなが『香水』を歌うようになって、MVも100万回再生までいって。カメラマンの先輩に100万回再生の記念に撮影してもらおうとしたら、その間に300万回、400万回ってなっていて。そうしているうちにLINE MUSICにチャートインして、CDTVでも曲が流されて──、そこらへんから「あれ?」っと。

今ここで地震が起きて死んだら、俺最悪

──SNSで話題になって以降は主要な音楽配信チャートで1位になったり、さまざまなテレビ番組に出演したり、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。瑛人さんを取り巻く環境も変わりましたか?

『香水』がバズって、でも当時僕の周りには誰も大人がいませんでした。テレビの出演依頼やカラオケの著作権のこととか、とにかくいっぱい連絡が来ました。

自分ではよく分からないので、ルンヒャンさんを頼ったら、森山直太朗さんを紹介してくれて。直太朗さんが自分の置かれた状況にすごく共感してくれたんです。直太朗さんの事務所(SETSUNA INTERNATIONAL)は、ビジョンがはっきりしていない自分のような人間でも受け入れてくれそうでした。ほかの事務所からもオファーをいただいていたんですが「ダンスを習わせます」「英語を勉強させます」とか、そんなの嫌で。直太朗さんの事務所に「ここで面倒見てくれませんか」とお願いしました。

事務所に所属しただけではなくて、バイトも辞めたし、引っ越しもしたし、テレビ業界の人にも会ったりしたし、いろいろなことが変わりました。

でもテレビに出演しているときも、自分が一人前のシンガーソングライターになったという感覚はなくて、どこか社会科見学をしているようでしたね。

「あっ、芸能人の誰々がいる」とか、全部初めてのことだったから楽しい経験として感じることができたけど、でももう一通り見させてもらえたから──。

──自分の居場所ではないと感じた?

お金が入ったから少しだけ調子にのったこともあったけど、やっぱり自分にはギラギラした芸能人のようなノリは合わない。何度かだけそういう場所に誘われて行ってみたことがあるんです。でもそのときに思ったのが「今ここで地震が起きて死んだら、俺最悪」って。やっぱり死ぬなら自分が心を許している友だちとか、普通に遊んでいるときに死にたい。そう思っちゃって、すぐ帰っちゃいました。

──ブレイクしていた当時は、先々のことについて考えていましたか?

あまり考えていなかったかもしれないですね。とりあえず普通に生きていこう、みたいな。将来どうしようとか、先のことを無理して考えてみたことはあるけれど、やっぱりその通りにはならないから。

今はもう自分の心が赴くままにいる感じですね。ここなら安心するとか、楽しそうとか、自分が違和感を感じずにいられるように。それだけでやっていきたいんです。

──『香水』がヒットして、今の立場を手放したくないという感覚はなかったですか?

全然ないです。今の方がいい感じですよ。たくさんメディアに出演したり、街で声をかけられたりもしなくなって、元の普通の生活に戻ってきたから。

普通に生きて、感じたことを歌で返したい

──現在の活動について教えてください。

地元の横浜の先輩たちや昔からの音楽仲間たちと一緒に全国津々浦々でライブさせてもらっています。ライブをすることで感じることもあるから、それを活かして、またライブして。そうしているうちにちゃんと一人前の弾き語りができるようになりたいですね。

生きていく中でいろいろ感じて、歌にしていく。僕は器用にすぐできるタイプではないので、ゆっくり、ちゃんと地に足をつけてやっていければいいのかなと思っています。

──ライブの規模感は気にしないですか?

『香水』がヒットしていた当時は周囲に感化されてライブ会場の大きさとかを気にしたこともあったけれど、今は実力にあったところでやっていきたいなと思ってます。

今年から元々バイトしていたハンバーガー屋のオーナーと一緒に逗子海岸で海の家を始めました。

実は逗子海岸は10年間くらい音楽の演奏が禁止されていたんです。でも今年から、音量制限はあるものの、弾き語りならOKになって。今は海の家の片隅で無料の弾き語りライブをしています。

その活動が少しずつ大きくなっていって、逗子海岸でフェスをやれたらなんて。大きな会場でライブをするよりも、今はそういう方が燃えますね。

でも、10年ライブできていなかった場所で実現させるライブ。そのまだ見たことない景色の方に、今は興味があるし、わくわくしています。

今月も逗子で「ハクナ・マタタ」というニューイベントをやるんですけど、それが成長していってくれればいいですね。

海の家でギターを弾く瑛人さん

──今が瑛人さんにとって居心地が良いんですね。

良いですね。海の家でも怒られてばかりだし、横浜の先輩ミュージシャンからはいまだに「下手くそ」って言われてばかりだけど。人生の中で怒られるのには慣れているし、原点回帰の気持ちですかね(笑)。

──2024年8月7日にはタイ語で『น้ำหอม -香水- feat.SANIMYOK』がリリースされました。

2022年にタイでイベント出演して、同時にタイ語の『香水(Thai ver)』をリリースしたんです。ライブで初めてタイ語を披露したんですが、誰も「タイ語、良かったね」とか言ってこなかったので、これはおかしいと。

それで現地の人に「さっきの言葉、意味分かった?」と聞いたら「まったく、何も分からない」と言われて。「じゃあ、このリリースされた音源は?」と聞いたら「何これ、中国語?」と……、何語でもない音源をリリースしてしまったんですよね。

『น้ำหอม -香水- feat.SANIMYOK』のレコーディングの様子

そこからタイ語を一から勉強し直したんです。でもただ録り直すだけではつまらないから、タイ北部のチェンマイにSANIMYOKというかっこいいバンドがいたので連絡したら、再リリースの音源に協力してくれました。SANIMYOKのサウンドでパワーアップした『香水』をぜひ聴いてもらいたいです。僕のタイ語もなんとか様になってきたみたいなので(笑)。

(文:野垣映二 写真提供:セツナインターナショナル)

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編集・ライター野垣映二

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