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8分で350人前の肉が完売。田中畜産が「赤字」を乗り越え、実現した理想とは
Twitter、YouTubeなどSNSのフォロワーが合計で約5万人という異色の「牛飼い」がいます。高級和牛である但馬牛の産地、兵庫県香美町で和牛繁殖農家を営む田中一馬さんです。
肉牛を扱う畜産業界は分業制。まず、繁殖農家が母牛に種付けをして、産まれた子牛を生後6カ月~12カ月まで育てます。その子牛を買い付けるのが、肥育農家。十分に太らせて、生後2年半から3年ぐらいになると、市場で売りに出します。購入するのは肉屋さんで、牛肉にして販売します。
繁殖農家が田中さんの仕事ですが、別の顔も持っています。牛の爪を切る削蹄師であり、さらにオンラインで牛肉の販売もしているのです。
繁殖農家で削蹄師、そしてお肉の販売も手掛けているのは、全国でも田中さんひとり。駆け出しのころは「ずいぶんと叩かれた」という異端児の若かりしころを振り返りましょう。
「引くに引けなくなって」修行へ
田中さんは1978年、兵庫県三田市で生まれました。高校3年生のとき、たまたま、テレビでタレントの田中義剛さんが牧場をつくる番組を見て北海道酪農学園大学に入学。子どもの頃から動物が好きで、動物とかかわる仕事に憧れたのです。
大学では、肉牛研究会に所属。この研究会では、自分たちで牛舎を設計してDIYで建て、種付け、出産介助、飼育、排泄物からのたい肥づくり、精肉した後のお肉の販売まで行っていました。
18歳のまっさらな状態から肉牛にまつわる仕事をひと通り学んだ、濃密な4年間。その後、大学院に進学した田中さんでしたが、わずか1カ月で休学届を出し、兵庫県香美町の和牛繁殖農家で1年間の住み込みの研修を始めました。
「牛飼いになりたい」という想いが募った……わけではありません。
「僕、大学デビューして調子に乗っていたので、後輩に『俺は牛飼いになる』と粋がってたんです。
でも、畜産業をイチから始めるには、当時最低3000万円の初期投資がいると言われていたし、土地も人脈もありません。何年間も修行しながら、夢破れて別の仕事に就く先輩の姿もたくさん見ました。
だから、正直無理だなと思ってたんですよ。
それで自分の夢から目をそらすように大学院に進んだのですが、当時の彼女に人前で『あなたは口だけだ。嘘つくな』と言われて、引くに引けなくなって、修行に出ることにしたんです(笑)」
嗚咽してなにも言えなかった日
「やるからには本気で独立の道を探ろう」と、研修先ではなんでもがむしゃらに取り組みました。しかし、毎日のように親方から怒られる日々。
「先行きがまったく見えず。正直、しんどかったです」
独立したらどうなるんだろうと就農計画を立てると、9年間赤字で10年目に年収60万円という数字が出ました。
研修を始めて1年、「どう考えても独立は無理だ」と感じた田中さんは、それまで学費や生活費などをサポートしてくれた両親に申し訳なく思い、実家に電話をしました。
しかし、電話に出た母親にいざ話をしようとすると、親方や牛の姿が脳裏によみがえりました。それは、生まれて初めて夢に向かって必死に取り組んだ記憶でした。
受話器を握りしめながら涙があふれ、それはすぐに嗚咽に変わりました。結局、肝心なことは何も言えないまま電話を切りました。その日、腹をくくったのです。
「9年間赤字でもいい。年収60万でもいい。この世界でやれるとこまでやってみたい」
田中さんは休学中だった大学院を辞めて退路を断ち、親方に頭を下げて研修を1年間延長しました。
ぎりぎりの生活
1年目以上に、真剣に研修に臨んだ田中さん。次第に、親方や周囲の反応が変わっていきました。それが、「どう考えても無理」と考えていた独立につながりました。
2年目の修行を終えた2002年、「田中畜産」設立。農協を通して、新規就農者が無利子で借りられる200万円を借り、軽トラックと妊娠している雌牛を5頭仕入れると、親方の牛舎の空きスペースを借りて、その牛たちの世話を始めました。
「2年間研修しても、先の見通しは何も変わりませんでした。でも、1年目と2年目で明らかに親方や周りの農家さんの反応も変わって。こいつはほんまにやるやつやなって思ってもらえたのが、大きかったですね」
念願の起業を果たしたものの、最初の数年間は手探り状態でした。
起業の翌年、最初に買った5頭が無事に出産。そのうちの1頭の雌牛は母牛にするために残して4頭を売りましたが、2001年末から2002年にかけて、世界的に狂牛病が大きな問題になっていたため、1頭30万円の値段しかつかず、4頭で120万円。
この金額で生活をしながら牛の世話をできるはずもなく、親方やほかの繁殖農家、肥育農家の手伝いもしないと生活ができませんでした。
繁殖農家は子牛を売るビジネスで、母牛は一回の分娩で一頭しか子どもを産みません。ということは、母牛の数が増えない限り、収入も増えません。田中さんは乏しい資金をなんとかやり繰りしながら、1頭ずつ母牛を増やしていきました。
「頭数が少ない時期はすごく苦しかったですね。本当に少しずつしか前進できなかったから、はたから見たらもう趣味というか、お遊びみたいに見られていたと思います」
強気の言葉の裏側
風向きが変わったのは、3年目。小規模ながらも地道に事業を営んできたことが評価されて、地元の金融機関から融資を受けられるようになったのです。同じタイミングで、地元の農協から「牛舎を建てないか?」と声がかかりました。
田中さんは、ここでアクセルを一気に踏み込みました。3500万円の借金をして、次々に母牛を購入。2006年12月、28歳にして自社の牛舎で50頭を飼育するまでに事業を拡大したのです。
このころ、経産牛(お産を経験した母牛)の放牧も始めました。
通常、経産牛は3年から10年が経つと繁殖の役目を終えたとみなされ、肉牛として安く売られます。経産牛の肉は硬い、味が落ちると言われ、価格は和牛の3分の1以下。
田中さんはその経産牛を春から秋まで放牧し、自然の草で育ててから「グラスフェッドビーフ」(草主体で飼育した牛肉)として売り出そうと考えていました。
なぜ、こんなに手間と時間のかかることをしようと考えたのでしょうか?
一般的に肉牛のエサとして与えられている穀物飼料は、輸入品がほとんど。
一方で、日本は耕作放棄地や放置された山林が広がっています。放牧をしてそこに生えている草を与えることで、その資源をうまく活用することができます。ただ、子牛から牛肉にできる年ごろまで放牧すると成長に時間がかかります。そこで目を付けたのが、経産牛。肉牛になる前の数カ月だけでも放牧に出すことで、少しでも持続可能な畜産に近づけようと考えました。
しかし、ものごとを性急に進めすぎていたようです。
田中さんのブログの2006年12月の投稿には、「10年以内には100頭にする予定です」とあります。明るい未来と野心を感じさせる言葉ですが、内心は暗く沈んでいました。
雌牛を増やすにあたり、田中さんは何度かに分けて母牛を購入しました。牛舎をつくっている間、あちこちに小さな牛舎を借りて、その牛たちを管理していました。そのうち、すべての牛を見て回るのに、移動時間だけで2時間もかかるようになり、一頭、一頭に目が行き届かなくなって、何頭も死なせてしまったのです。
牛の購入費、エサ代、借金の返済などであっという間に首が回らなくなりました。ブログでは明るく、前向きなことしか発信していませんでしたが、それは強がりだったのです。
人生を変える出会い
両親に借金をしても足りず、どこかでアルバイトでもするしかないと思っていた時に手を差し伸べてくれたのは、以前、手伝いに行っていた繁殖農家の先輩でした。削蹄師の修業をしていたその先輩が、自分の師匠、淀弘さんを紹介してくれたのです。
人間と同じく、牛の爪も伸びます。それを放置しておくとケガや病気につながるため、定期的に爪を切る必要があります。
淀さんは全国で講習会を開くような著名な削蹄師でしたが、当時すでに高齢だったため、弟子はとらないと決めていました。しかし、田中さんの苦境を知った先輩が一緒に頭を下げてくれたことで、弟子入りさせてもらうことができたのです。これで、首の皮一枚つながりました。
「専門的な仕事で資格もいりますし、素人が簡単に入られる世界じゃないんです。でも、師匠の一門に入れてもらったことで、素人の僕がイチから学ばせてもらいながら、1年働くとそれなりの収入になりました。そのお金を牛につぎ込んで、なんとか復活できたんです」
田中さんに、「師匠と出会わなかったらどうなっていたんでしょうね?」と尋ねると、「(この業界に)もういないと思います」と即答しました。それほどの、人生を変える出会いでした。
削蹄師の仕事は、収入面の助けになるだけでなく、牛飼いとしての成長にもつながりました。依頼を受けて牛の爪を切りに行くと、さまざまな繁殖農家、肥育農家と接します。そこで、それぞれの哲学、飼育方法を聞きながら、それが反映された牛の状態を継続的に見ることができました。また、自分の子牛を買ってくれた先では、順調に成長しているか、自分の目と手で確認することもできる。
それは、定期的に訪問する削蹄師にならなければできない経験で、なによりの学びになりました。さらに、同業者からも少しずつ認められるようになったのです。
「放牧のこともあって、最初のころはよそから来た変わり者だと思われていたんです。でも、但馬で信頼の厚い師匠や兄弟子のもとで修業しながら行動を共にすることで、こいつは信用してもいいかなって思ってもらえるようになりました」
ブログを始めた意外な理由
時計の針をほんの少しだけ巻き戻して、母牛50頭の飼育を始めた2006年末。
田中さんは、就農した時の目標を4年で達成しながらも、それまでに何頭も牛を亡くしたり、資金繰りが悪化したことで、メンタル的に落ち込んでいました。
そこで、気持ちを盛り上げようと、当時流行っていたビジネスコーチをつけました。すると、そのコーチから「人生のパートナーを見つけるほうが大事」と結婚を勧められ、自分を知ってもらうために情報発信するように助言されます。
確かにパートナーが欲しいと思った田中さんは、ブログをオープン。婚活目的で自己紹介を兼ねて日々の様子を書き続けているうちに読者の反応もあって楽しくなり、いつしか、田中さんのライフワークとなっていきました。
当時、同業者で自ら情報発信している人は皆無で、田中さんが自由に想いを綴るブログは批判の的になりました。「実力も経験もない若造が偉そうに」という理由です。しかし、このブログと2006年から試験的に導入していた放牧を掛け合わせることで、現在につながる成功体験が生まれました。
緊張の糸が切れて
2008年8月、田中さんはこれまでにない試みを始めました。「放牧牛パートナー制度」です。
これは、経産牛だけではなく、子牛も放牧して育て、グラスフェッドの牛肉になるまでの4年間、年会費を支払ってくれるパートナーを募るもの。毎年1回、牛との交流会に招待し、牛肉となったときにはパートナー限定の販売会を行います。
この制度は、畜産業界への挑戦でした。肉牛は、肉の質だけで評価されます。耕作放棄地や山林で自然の草を食べながら動き回る放牧牛は健康的な生活で脂肪が減り、赤身の肉が増えるのですが、日本では脂身のついた肉の人気が高く、ヘルシーな赤身の肉は安値で取引されます。
でも、放牧牛の赤身も美味しい。その味を知ってほしい。そう思った田中さんは、この現状を打破するために一般の人に放牧する意味や意義について広く知ってもらい、サポートしてもらおうと考えたのです。そうして自分が手塩にかけた牛の命を、市場を通さず、パートナーに食べてもらうと考えた時に、一頭一頭、異なる個性を持った牛の存在も知ってほしいと考えて、交流会も盛り込みました。
告知は自身のブログで行いました。クラウドファンディングの走りともいえる先進的な取り組みに応募したのは、18名。想像以上の手ごたえを得た田中さんは、繁殖、削蹄の仕事をしながら、より一層、放牧の事業にも力を入れるようになります。その活動は注目を集め、メディアにも取り上げられるようになりました。
一方、プライベートでは2007年に結婚し、翌年には娘も誕生。全力ダッシュで駆け抜けるような日々のなかで、就農してからずっと張りつめていた緊張の糸が、ある日、ぷつりと切れました。
2011年の秋、うつ病を患ったのです。
不眠になり、なんのやる気も出ず、体を起こすこともできません。唯一できたのは、寝転がって漫画を読むことだけでした。
「僕、中学のとき、いじめられっ子だったんですよ。だから、いつか見返してやるっていうエネルギーが無茶苦茶大きくって、だからこそ、お金がないときも歯を食いしばってやれたっていうのは正直あって。
でも、そのエネルギーが強すぎて、足元が見えなくなりました。珍しい取り組みをしていたからか、20代の後半頃からいろんな人に『すごい、すごい』と言われるようになった。けど、名前だけ売れて、中身が伴ってなかった。そのちぐはぐのなかで『うつ』になって、本当になにもできなくなりました」
「もう1回、牛飼いをやり直した感じ」
うつ病の治療中は、妻のあつみさんがひとりで牛の世話をし、子牛を市場に出荷するときは削蹄の兄弟子が手伝ってくれました。当然、もどかしく感じますが、体が言うことをききません。なにもかも嫌気がさして薬を飲みすぎ、危険な状態になってしまったこともありました。田中さんを救ったのは、そのときのあつみさんの一言。
「なにもしなくていいから。漫画を読んでるだけでいいから。生きててくれたら、それでいい」
この言葉を聞いた瞬間、肩の荷がすっと降りた気がしたそうです。
「見返すためにとか、承認欲求のためにいろいろやってきた部分もあったけど、自分の身近に大事な人がいたんだ、ぜんぜん周りが見えてなかったなって気付いたんです。
妻だけじゃなくて、『お前、あほか』と言って、僕のことをまったく認めてくれなかった近しい人たちが、離れることなくずっと待ってくれましたし、支えてくれました。そういう人たちがいるから、これまで自由に仕事ができていたんだと思い知りました」
あつみさんや周囲の助けもあり、1年をかけて回復した田中さんは、足元を見つめ直しました。それまでは周囲の同業者をライバル視し、大学で勉強したことや最新のセミナーで学んだ海外の技術のほうが優れている、俺のほうがすごいと思っていたそうです。そのプライドを捨てて、地元の繁殖農家の先輩たちに頼み込んで、イチから子牛の見方を教わり、「自分の牛を見てください」と頭を下げました。このときのことを、田中さんはこう表現します。
「もう1回、牛飼いをやり直した感じ」
畜産業界の常識に染まらず、放牧やブログ、パートナー制度など思い立ったらやらずにいられない田中さんは、地元で浮いた存在でした。しかし、この後、地元の同業者との距離が縮まり、牛の状態も以前と比べてどんどんよくなっていきました。ここから、田中畜産の本当の飛躍が始まったのです。
2002年に就農してから、今年で節目の20年。いち早く情報発信やファンとの交流を始めた田中さんは、今やSNSを縦横無尽に使いこなしています。経産放牧牛の肉は大人気で、昨年4月にオンラインで販売した際には、牛一頭分、350人前の肉が8分間で売り切れました。
地域に根を張りながら、独自の道を切り拓いてきた異端の牛飼いは、理想の牛づくりにも着実に近づいています。
「それまでは、こういう牛を育てたいというのもなかったんです。でも、いろんな先輩に教えてもらって、病気せずにすくすく大きくなる強い子牛をつくりたいというゴールが見えました。
そこのすり合わせができて、この3年ぐらいでようやく納得のいく牛がつくれるようになってきたんです。ようやく、ちょっとは牛のことがわかってきたかなとは思えるようになりましたね」
(インタビュー・文/川内 イオ 写真提供/田中畜産)
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