全国に広がった子ども向けの“無料カレーチケット”。店長が語る「人を助けるために大事なこと」
奈良県橿原(かしはら)市に、子どもが無料でカレーを食べられるお店があります。子ども食堂兼学習支援の場、「げんきカレー」です。
子どもから大人まで、さまざまなトッピングのカレーを楽しむことができる同店。店内には大きなホワイトボードがあり、映画のチケットのような縦長の紙が30枚ほどランダムに貼られています。これは「みらいチケット」といって、このチケットを使えば、中学3年生までの子どもたちは無料でカレーを食べることができます。
みらいチケットの仕組みはとてもシンプル。常連客が会計時にお釣りでチケットを購入しホワイトボードに貼ります。店にやってきた子どもたちがそこからチケットを取って、カレーを注文。客の善意が、見ず知らずの子どもたちのお腹を満たしているのです。
この取り組みは新聞やテレビなどで話題となり、全国から賛同の声が届きました。
「すばらしい取り組み、ぜひ応援したいです」
「げんきカレー、食べてみたい!」
また、「うちの店でもこのチケットのシステムを使いたい」という問い合わせが寄せられ、みらいチケットを活用する子ども食堂や飲食店が全国に広がりました。
このチケットを考案したのは、げんきカレーの店長である齊藤 樹(さいとうしげる)さん。
齊藤さんの本業は英会話塾の運営ですが、子どもたちの学力格差や満足に食事が取れていない状況を目のあたりにして、2018年にげんきカレーをオープンしました。
今や全国5000カ所以上で開設されている子ども食堂。しかし、多くが資金面で不安を抱え、運営に行き詰まるケースも多いといいます。この状況に、齊藤さんはみらいチケットで一石を投じました。
「このチケットの何が新しいかっていうと、1枚200円という価格設定なんです。うちのカレーは200円からでトッピングしても数百円だから、レジで500円を出したおつりをチケットとして寄付すれば、何かええこととした気持ちになる。これがラーメン屋さんで1杯700円だとしたら、プラス700円分のチケットを出そうとは思えないでしょう。でも、200円なら出せますよね。大事なことは、人が気軽に出せる金額であることなんです。でも、運営を続けることは簡単ではないですよ」
そう語る齊藤さんは、一筋縄ではいかなかった道を思い返すような表情を浮かべました。
誰もがお腹いっぱいになれて勉強ができる場所を作りたい――。その思いを形にしてきた齊藤さんのいままでの軌跡を聞きました。
「ボンジョビ」や「メタリカ」が好きな少年時代
1971年、奈良県橿原市で生まれた齊藤さん。学校帰りにはよく近所の家や駄菓子屋に遊びに行く少年時代を過ごしていたそうで、「人と人とのつながりが強い地域だったこともあり、周りの大人たちが地域の子どもの面倒を見るのはごく普通の光景でしたね」と話します。
地元の中学校に通うようになると、ロックバンドの『ボンジョビ』や『メタリカ』に夢中になり、自らもバンドを結成。高校卒業後まで活動を続けました。
その後、大学に進学するも2年で辞め、大阪の松下電器産業(現:パナソニック)の代理店に就職。しかし、数カ月後、「どうせ仕事をするなら東京に行こう」と思い、転勤願いを提出。上京し、東京ではたらいていたある日、仕事で海外から帰ってきた知人に会い、その人の変化に驚きました。
「人間性がガラッと変わっていたんです。別人かと思うほど性格が明るくなっていて、『海外での生活に触れたことが、すごく刺激になった』と、熱く語っていたんです。それを聞いて『僕も留学をしたいな』と考えるようになりました」
洋楽が大好きだった齊藤さんにとって、海外の中でもとくにアメリカは憧れの地。さっそくアメリカに留学するための資金を貯めることにしました。
すぐに務めていた会社を辞め、短期間で稼ぐために時給の高い運送会社に転職。朝から晩まで配送スタッフとしてはたらき、8カ月で200万円ほど貯めました。当時25歳の齊藤さんは、「早く留学がしたい!」と、仕事に明け暮れたといいます。
アメリカへの留学で人種差別を経験
1996年の9月、齊藤さんは、アメリカの西部に位置するアリゾナ州の大学に編入生として留学しました。
当時のアメリカの西側では、人種差別が色濃く残っていました。齊藤さんもアジア人としてさまざまな差別を受けたといいます。
たとえば、レンタカーを借りて遠出をしたとき、モーテルに入るとフロントスタッフから「アジア人はお断り」と門前払いをくらいました。また、あるときは、カラオケで自分に順番が回ってきてもマイクを貸してもらえなかったことも。大学でも「アジア人とは友達にならない」という学生がいたといいます。異国の地で、齊藤さんは日々、嫌がらせを受けていたのです。
けれど、つらいことばかりではありませんでした。齊藤さんに手を差し伸べる人たちがいたのです。
あるとき、スーパーマーケットで買い物をしていると、40代くらいの日本人女性から「留学生の方ですか?」と声をかけられました。「そうです」と答えると、その女性は朗らかな笑顔を浮かべながらこう言いました。
「主人がこちらに留学していて、私も一緒について来たんです。日本から来て、友達もいないので心細くて。よかったら主人も交えて、うちで食事でもしませんか?」
思いもよらない誘いを受け、齊藤さんは「ぜひ!」と返しました。
後日、食事会が開かれました。女性の夫は日本の官僚で、アメリカの大学院に留学していました。会話が弾み、齊藤さんはこの夫婦とすっかり仲良くなります。以降、齊藤さんに困ったことがあると、夫婦がたびたびサポートしてくれたと言います。
「奥さんは、おすすめの店を紹介してくれました。ご主人は、僕が州を行き来する際にフライトの手続きを手伝ってくれたこともあります。当時、飛行機のチケットは電話で取るしかなかったんですが、英語の電話って結構難しいんです。それでご主人が代わりに取ってくれて。2人からはよく『困ったことがあったら、いつでも電話をかけておいで』と言ってもらえて、ありがたかったです」
その後、アリゾナ州の大学を一時休学し、南部に位置するオハイオ州へ。
きっかけは、母方の伯母がアメリカ人と結婚をしてこの州に住んでいて、「数カ月こっちで過ごさない?」と誘われたから。そこで齊藤さんは3カ月ほど伯母夫婦のもとで暮らし、オハイオ州の夜間高校で学ぶことにしました。この学校は高校を中退した人たちが多く通っていて、授業料は無料。校内には派手な見た目をした人が多かったといいます。たとえば、全身にタトゥーが入ったトラック運転手や、顔じゅうピアスだらけのパンク系女子など。齊藤さんは「アリゾナ州で通っていた大学とはエライ毛並みが違うなぁ」と思ったといいます。
「いろいろな同級生とよく飲みに行きましたね。見た目は怖そうな人やけど、実は心優しい人だったり、逆に優しそうに見えるけど人の気持ち分からへんような人もおったり・・・・・・。ここでの生活で人は見た目だけじゃないんだなって思えて、人間の幅みたいなものが広がった気がします」
アメリカで知り合った人たちからは、「嫌なことを言うやつもいるけど、気にするなよ」「一緒にご飯食べに行こう!」などと声をかけられたといいます。海外でもらう思いやりの数々は、日本で同じ言葉をかけられるよりも、ぐっと心に沁みました。
外国人をサポートした国際交流センター時代
1年3ヵ月の留学を終え、東京に戻った齊籐さん。けれど海外への思いは冷めやらず、また留学しようと考えます。
海外に行くためのお金を貯めるため、今度は建築現場で日雇いの仕事を始めました。そこで知り合った建築事務所の社長から、「海外に興味あるなら、中国で建築機械の販売先を探してきてくれない?旅費は出すよ」と言われます。その頼みを引き受け、齊藤さんは2カ月ほど中国に行きました。
そこで大きな成果をあげることはできませんでしたが、海外で切磋琢磨することで、齊藤さんはタフな精神力を身につけます。
東京に帰ってきてから数日後、現地で仲良くなった中国人から手紙が届きました。まだまだインターネットの翻訳ツールはない時代、齊籐さんは都内の国際交流センターに行き、訳してもらうことにしました。
国際交流センターとは、来日した外国人をサポートする業務を行う団体のこと。そこで斎藤さんはスタッフから「外国人に日本語を教える活動があるんだけど、よかったら手伝わない?」と声をかけられ、外国人に日本語を教えるボランティアをはじめます。そして数カ月後、そのはたらきぶりがセンターの理事長の目にとまり、「正規スタッフにならないか?」と打診を受けます。「これも一つの経験やし、おもしろそう」と思った齊籐さんは、この話を受けることに。
その後齊籐さんは経験を積み、国際交流センターの事務長にまで昇進します。「海外で助けてもらった人たちがいたからこそ、今の僕がある。今度は僕が恩返ししなくちゃ」と思い、丁寧に仕事に向き合ったといいます。
そんな齊籐さんですが、一つだけ納得がいかないことがありました。センターで雇っている外国人講師の報酬が安いことでした。
「ある時、市の委託事業で中国人を講師として招き、中国語講座を開催したのですが、市から受け取る金額に対して講師に支払う給料が安すぎて……。当時のセンターではそれが当たり前だったのですが、僕は『それっておかしいやろ?』って思っていました」
もっと自分のやりたいように人を助けたい・・・・・・。その思いが強まり、東京で知り合った外国人講師3名を引き連れて8年間務めた国際支援センターを辞め、齊籐さんは彼らとともに自分の会社を作ることを決めました。
“How are you?”の問いかけに、「え、え?なに?」
2003年、奈良県香芝市に英会話塾を開業。「やっぱり地元が一番過ごしやすいし、昔からの友達もいるので、こっちで起業しました」と齊藤さん。
当時、外国人のいる英会話塾はめずらしく、近隣の人たちからの口コミが広がり、少しずつ生徒が増えていきました。経営も順調に15年の月日が流れます。
ある日、齊藤さんは、ハッとさせられます。
夏休み中に外国人教師を集め、ボーイスカウトで「無料の出張英会話」をひらいた時のことでした。
「英語の先生が“Hello.How are you?”と聞くと、『ファイン、センキュー!』と元気よく答える子もいれば、『え、え?なに?』とまったく理解できない子も。イベントが終わったあと、英語に戸惑っていた子に『習い事とか、なんかしてるの?』って聞いてみると、『習い事行くお金なんて家にはないよ。だって、お父さん、おらへんもん』と返ってきました。
別の子に『最近、お腹いっぱい食べてる?』と聞いたら、『夏休みは給食がないから、お腹すいてる』と言う。生活が苦しくて習い事ができない子もいれば、給食がないと必要なカロリーを摂れない子もいるんだと、そこで思い知らされたんです」
その日から齊藤さんは、子どもの貧困やシングルマザーの現状を本やネットで調べるようになりました。そして、「家庭の事情が要因となって、学力格差につながっているのだ」と思い当たります。
「子どもたちが気軽に来て、お腹いっぱい食べることができて、そして、自由に勉強できる場所をつくろう」
そう思った齊藤さんは、NPO法人「Genki Future Dreams 47」を立ち上げ、2018年5月、奈良県橿原市に子ども食堂兼学習支援の場として、「げんきカレー」をオープンしました。
「みらいチケット」誕生
店の名前でもある、定番メニューの「げんきカレー」は、大人は一杯200円。トッピングを加えたカツカレーやチーズカレーなどもあります。子どもは100円から食べられるようにしました。
低価格でカレーを食べられるとあって、オープン当初から店は大盛況。15席の小さな店内は、平日の昼間はサラリーマン客であふれ、夕方になると子どもたちがやって来ました。
ある日、店にやってきた子どもが手のひらの小銭を見て、「あかん、60円しかないわ」とがっくりと肩を落としていました。「一杯100円でも払えない子がいるんや」と齊藤さんが戸惑っていると、近くに座っていた常連客が「この子の足らん分、俺出したるで」と言って、残りのお金を払いました。
実は、ほかの客からも「200円は安すぎるので、お釣りを寄付したい」という声が上がっていました。これらの出来事を受けて、「客の善意を何かカタチにできないか」と齊藤さんは思案します。
そこで思いついたのが、前述した「みらいチケット」です。発想のもとになったのは、サラリーマン時代のある思い出でした。
「会社の上司と喫茶店に入ったとき、店内にコーヒーチケットという回数券が貼られていて、『俺のチケットがあるから、1枚使っていいよ』とコーヒーをおごってもらうことがありました。それで、『同じようなチケットを作り、店に来た大人が見ず知らずの子どもたちにカレーをご馳走してあげたらええんちゃうの?』って考えたんです」
支援の輪が全国に
オープンしてから4カ月が過ぎた9月、みらいチケットを販売すると、常連客が続々と購入。用意していたホワイトボードでいっぱいになるほどのチケットが貼られました。
一方、チケットを利用する子どもがなかなか増えなかったため、齊籐さんは近くの小中学校を回って説明したり、地域のイベントに出店したりして活動を続けました。
また、メディアにみらいチケットを取り上げてもらえるようにと、PRの仕方の本を読んだり、プレスリリースについてのセミナーに参加したりしながら、SNSやホームページで積極的にアピールしました。
一方で齊藤さんは地元の企業や行政を回ります。採算度外視したカレーの提供でお店の経営は赤字続き。物資の支援をお願いしようと考えたのです。
「行政や教育委員会に営業活動をし始めたときは、全然手応えがありませんでした。『ただのカレー屋さんやろ?』みたいな感じでね。もう、まったく相手にされなかったですよ」
それでも地道な活動を続けていると、2019年1月、2社の新聞社から取材依頼が。その後、みらいチケットという新しい取り組みが話題を集めるようになり、地元のテレビ局やNHKをはじめとする全国放送局から「取材させてほしい」という問い合わせが次々に入るようになります。
その後、新聞やテレビを観た人たちから支援金や、近隣の農家から物資が次々と届くようになりました。全国の子ども食堂や飲食店からは、「うちの店でも、みらいチケットを使わせてもらえませんか?」と問い合わせが殺到。齊藤さんに運営方法を教わろうとお店にやって来た人は100人に上ったといいます。
こうして認知度が高まったことで、訪問した企業から好感触を得られるようになり、「横浜冷凍株式会社」をはじめとする企業から、定期的に食材を支援してもらえるようになります。
2021年7月には、「子育て支援対策に大きく貢献した」として、橿原市から感謝状を受け取るなど、行政からも認められました。
ただ、メディアで注目を集めたことで、根拠のない誹謗中傷を受けることも。
「9割8分は応援の言葉です。でも、ごくわずかに『本業が塾だから教材を売りつけているんじゃないか』、『NPOって私たちの税金で儲けてるんでしょ?』など、知識もなく文句を言う人がいます。『そんなわけないやん!』って言い返したいですけどね。そういうのは、いちいち気にしていたら気持ちが持たないです」
2022年の5月末、齊藤さんは過労で体調を崩し、数週間ほど入院しました。現在は、営業日を週4回から土日の2日間に変更。。このことからも、子ども食堂の運営を続けることが並大抵ではないということがうかがい知れます。「子どもの居場所をつくる活動には、相当な下準備や覚悟が必要です」と齊藤さん。
1人でも多くの子どもにお腹いっぱいになってもらいたい
齊籐さんは、「ほんまは、子ども食堂って名前を使いたくないんですよ」と少し曇った顔をしながら語りました。
それは、子ども食堂という言葉が「貧乏な子がくる場所」というイメージがついてしまったからだと言います。その影響で、親に「あそこには行っちゃだめ」と言われ、げんきカレーに来たくても来られない子もいるのだといいます。
「悲しいけど、それが現実です。生活と食べ物に困ってる子どもたちが駆け込む場所だと報道されることが多いから、『あそこに出入りしてる子どもは貧乏や』と思われてしまう。僕はそれが嫌なんですよ。そんなつもりでやってるわけやない。ここは、子どもたちが気軽に来られる、駄菓子屋の延長のような場所なんです」
げんきカレーに来る子どもたちの理由もさまざまです。
家庭の事情で塾に通えない子、家に勉強する場所がない子、登校拒否をしている子、親が共働きで一人で夕飯を食べなければならない子・・・・・・。安心して過ごせる場所だから、子どもたちはげんきカレーに集まるのです。
げんきカレーには、齊藤さんの取り組みに賛同したボランティアたちが集まります。
午前中の営業では、カレーの調理のため地元の女性が手伝いに来て、夕方6時からの学習支援の時間には、小学校教員や大学生、外国人講師が勉強を教えにやってきます。夜には勉強後にお腹をすかせた子どもたちのために近所の人が調理補佐をしています。
ただ、現在もげんきカレーは赤字が続いており、店の家賃や水道光熱費など月10万円以上の費用は、本業の英会話塾の売り上げでまかなっているといいます。
「そもそも利益が出る価格設定にしたわけではないので、その時点で損得は考えてないんです。たとえ話ですけど、世の中には好きなアイドルのグッズを買う人や、競馬やパチンコなどの博打をする人、いろんなお金の使い方をする人がいますよね。僕がここでお金を使うのは、子どもたちからの『おっちゃん、ありがとう』の言葉が一番のご褒美やからなんですよ。同じお金を使うんやったら、人に喜んでもらえることに使ったらええやんっていうだけのことです」
全国的に広まったみらいチケットには、「人を助けたい」という、齊藤さんのまっすぐな思いが込められていました。
「助けてあげたいなと思ったら、すぐ助けたったらいいわけです。『こうや!』って決めたら、別にそれが損だろうが得だろうが関係なくやるっていうのが、僕の考えです」
(文・写真:池田アユリ)
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