伝説の保護司を引退し、77歳でカフェ開業。中澤照子さんの「GIVE」な生き様

2024年1月25日

少年院や鑑別所、刑務所から出所してきた保護観察処分中の方の立ち直りを支援する「保護司」。伝説の保護司と呼ばれる中澤照子さんは、約20年にわたり江東区の保護司として活動し、120人以上もの保護観察中の若者の更生をサポートしてきました。

中澤さんは77歳で保護司を退任し、「これまで面倒を見てきた人たちが集える場所をつくりたい」という思いから東京都江東区に「Café LaLaLa」を開業。現在、保護司時代に担当をした人たちのほか、近隣の方々が訪れる町の憩いの場となっています。

今回はCafé LaLaLaを訪問し、中澤さんが保護司になる以前のキャリア、保護司としての歩み、そしてカフェの運営にかける思いを伺いました。

妹のように可愛がった小林幸子さんとの出会い

「当時の私は生意気にモダンジャズなんかを聞きに行ったり、新宿あたりで自分に酔っている時期がありました。でも、そんな若者を社長がおもしろがってくれたんです」

高校卒業後、作曲家・古賀政男さんの芸能事務所ではたらいていた中澤さんは、当時をそう振り返ります。入社当時に与えられた電話番の役割。日々かかってくる電話を元気いっぱいにさばいていた中澤さんは社内でも評判だったようです。

そんなある日、事務所にかかってきた一本の電話がその後のキャリアを大きく変えます。中澤さんが「どちらさまでしょう?」と聞くと、それは雇い主である古賀政男さんでした。

「最初分からなくって、『はい、どちらの古賀さんでしょう?』って聞いちゃったの。雇い主のことをよく知らなかったんです(笑)。なんでも事務所にシャキシャキした女の子が入ってきたって、古賀先生が興味を持ってくださった。しばらくたって、どこで判断したのかわからないけど『君は事務所向きじゃない。もっと表の仕事を覚えるように』という指示が出たんです。それで、22歳の時に芸能人のマネージャー業をすることになりました」

そうして新人マネージャーとしてはじめて担当したのが、上京してきたばかりの歌手・小林幸子さんでした。10歳で上京したばかりの小林幸子さんと新米マネージャーの中澤さん、二人三脚で歩む日々。

「やっぱり小林は私を頼るしかないし、私も新米なりにこの子を守らなくてはいけないと思って。本当に二人で姉妹みたいな、親子みたいな、そういう感覚になっていました。仲良くならないほうがおかしいぐらい、一緒にいましたよ。その時は50年も60年もお付き合いが続くなんて思ってもみなかったです」

生粋の姉御肌だった中澤さんは、小林と同期デビューだった五木ひろしさんや都はるみさんらの悩みや夢を聞きながら励ましていたといいます。

「それ私がやっていることだ!」天職である保護司の道へ

小林さんの活動が活発になっていく中、中澤さんは結婚を機に退職。約10年ほどでマネージャーとしてのキャリアを終えました。

その後は不定期で地元の児童館の手伝いやアルバイトなどをしつつ、専業主婦として生活していましたが、57歳の時に知人から「保護司」になることを勧められました。

「その知人は保護司だったんです。実は、その人が保護司だなんて全然知りませんでした。なぜかというと、保護司って、当時は対象者の人権を守るために身分を公にできなかったんですよ。顔が知られてしまったり、担当している子と話してる姿を見られたら『あの人は犯罪を犯した人なのかも』と、第三者に勘づかれてしまうじゃないですか」

その知人から保護司がどのようなものか聞いて、中澤さんが真っ先に思ったのは「私が普段やっていることだ!」ということ。保護司になる前から、家庭環境が整っていない子どもや不良学生たちにお弁当をつくってあげるなど、地域の子どもたちに目を配っていたといいます。

「性分なんでしょうね。うつむいている子や路地に入り込んでいってしまうような子が気になって仕方ないの。そういう子たちを見ると声をかけて元気づけていました。

ただ、保護司になることに娘は大反対でした。『犯罪・非行の子たちを自宅に入れるなんて、何を考えているの?』って。でも、夫は保護司であろうとなかろうと私がそういうことをしてきているのを百も承知だから、『ぴったりだよ!』って。娘を説得するというより、かいくぐって(笑)、引き受けちゃった」

少年院や鑑別所、刑務所から出所してきた保護観察処分中の方の立ち直りを支援する保護司の活動は、すべてがボランティア。基本的には、月2回の自宅での面談と月1回の家庭訪問を行い、環境や家族の協力体制を調整し、再犯しないためのサポートを行いながら、その様子を報告書にまとめて法務省に提出します。

「人の人生を扱うわけだから、相当な覚悟でやらなきゃいけないの」という中澤さん。多くの人の助けになればという思いで、保護司になることを決意しました。

「面談では本当になんでも話を聞いていたんだけど、月3回の面談だけでは軌道修正なんてできないんですよ。どこか心の破れたところや隙間を見つけて、貼ったり縫ったり詰め物をしたりする必要がある。壊れてしまったものを直して、あとは自力で頑張ってもらえるようにする。そのためには、すごく手間暇がかかるんです。

でも、そこにやりがいがある。私のところを巣立っていった子たちが大人になってから『中澤さん、よく俺にあんなに時間をかけてくれましたね』なんて言ってくれたりするととてもうれしいの」

保護司の仕事は「心の隙間に入り込めるかどうか」が大切

「自分がしたいから」「放っておけないから」「いい顔で笑ってほしいから」。さまざまな思いを抱きながら活動していた中澤さん。「私がやりたくてやっていたけれど、感謝されるとうれしいおまけがついてきたなって思う」と笑います。そんな中澤さんの思いにすぐに応えてくれる人もいれば、もちろんそうでない人も。保護司としていちばん大変だったことは「心の隙間に入っていけないこと」だといいます。

「ちょっとでも隙間があれば、そこに油を差したりできるじゃない?でも、その隙間さえ開けてくれない子がいるんですよ。『あんたなんかに絶対心許さねえぞ!』っていう気合いの入った子や、暴力的な子とかはまだどうかなりますね。わかりやすいから(笑)。

でも、本当に大変な人生を送っていて、人を信じられず、大人は全員敵だって思って、心を固く閉じちゃっている子はものすごく大変。その子の人生に本当に何があったのかは、法務省から事前にもらう書類だけではわからない。だから、刺激を与えないように時間をかけて、ちょっと隙間が開いたなっていう瞬間を待つ。その隙間を逃さないの。『今いい顔したね。ちょっと笑ったとこ見たわ!』とか『そんな顔を続けて見たいな〜』なんて言って、いい風を送るんです。

敵対してないってわかってくれたらやっぱり子どもたちもうれしいんですね。すると、向こうが一気に自分で隙間を開けてくれる」

特に印象に残っているのは、保護司として最初に担当した中国から来た少年のことでした。両親は日本語があまり話せず、食事や生活は中国のスタイルのまま。日本の学校と家庭の慣習のギャップに悩まされ、いじめにも遭っていたといいます。

「まずは親子の溝を埋めたいと思ったの。急に親子で手をつなぐことはできないけど、本人から好きなおかずを聞いて、お母さんに『息子さんはこういう日本食が食べたいんだって』と伝え、料理を教えました。それを息子にも『お母さん、こんな努力をしているの。なんだかんだ言いながら、お母さんは息子のことが好きなのよ』と伝えると、だんだん距離が縮まってくる。そのころに保護観察が終わって。

当時、彼は誰にも触らせないくらいバイクを大事にしていたんだけど、最後に私に向かって『ありがとうございました。送っていきたいので、単車のうしろに乗っていきませんか?』って言ったの。その子の運転の腕を知らないし、ここで事故にでも遭ったら大変どころの騒ぎじゃない、と思ったんだけど(笑)。でも、それだけ自分が大事にしているバイクに私を乗せようっていう気持ちがすっごくうれしかった。だから長いコートを体に巻き付けて、彼のうしろに乗って家まで帰りました。あの子は言葉にできない大切な何かを私にくれたと思っています」

「善悪の区別をつけろ」。両親の言葉を、82歳の今も守り続ける

保護司の仕事は「幸せなことがいっぱいあった」と振り返る中澤さん。多い時は一度に10人以上の少年少女を担当していたことも。決められた月3回の面談では足りず、ほかの日を割いて対応することもしばしば。「本当に四六時中って感じでした」と話します。

「『何かあったら連絡しな』って必ず言いながら、連絡をくれた時に『今は都合悪いから明日でいい?』って言うのはダメなんです。何か傷ついたことがあって電話をくれているんだから、その時に対応しなくてどうするんだって思っていました。

それが大した傷じゃない時もあるんだけど、大きな傷にならないうちに、絆創膏を貼るなり薬を一塗りしてあげるのが私の役目だったんです」

そんなふうに自分のすべてを注いで、一人ひとりと向き合い続けていくと、「この子はもう大丈夫」と自信を持って言える日が来るといいます。

「話の端々に嘘が出てきていないってことはもちろん、陰りがない時は言葉じゃない部分でわかるんですよね。登校日数が増えているとか、バイトの給与明細がいつも通りの額だとか、目で見て確認できるもの。家族との関係が良くなったとか、肌で感じるもの。そのどれもが判断材料になります。

それを感じ取れるのは、私が育った環境が大きいかもしれないですね。東京都文京区で生まれ育ったんだけど、大人たちが他人の子も我が子も同じように声をかけて、注意したり怒ってくれたりしてくれて。小さいころからいろんな人たちを見ていたから、それで人の気持ちを汲み取る力が培われたんじゃないかな。人が好きだし、人の気配を感じ取ることが好きなんです」

実は、中澤さんの両親も揉め事の仲裁に入ったり、相談に乗ったりするタイプだったのだそう。面倒見がいいのは親譲りなのかも知れません。「私は今82歳だけど、この歳まで親の言うことを聞いて生きていますよ」と、両親の金言を教えてくれました。

「口数は多くなかったけど、『善悪の区別をつけること』『人に優しくすること』『元気でいなさい』という3つだけはずっと言われていました。人に親切にしても、人に自慢気に話すもんじゃないよって。おまえがしたくてしているんだから、見返りを求めちゃいけないんだよ、とも。それを守り続けています」

心の拠り所となる桟橋のような場を。「Café LaLaLa」をオープンした理由

中澤さんは77歳で保護司を退任。退任の半年前に東京都江東区にCafé LaLaLaをオープンしました。今では中澤さんのもとを巣立っていった人たちやその家族、地域の人が集う場にもなっていますが、「最初はなんの考えもなく開いたの」と開店当時を振り返ります。

「いろんな子が結婚報告とか、子どもが生まれただとかで私が住んでいる団地に来てくれるのよね。だから、退任したあとは、自分の居場所でみんなが来やすいところがあったらいいなってなんとなく思っていたんです。そんな時にテナント物件が空いているよと言われたから、その思いだけで始めちゃった。船が停泊するように立ち寄れる場所になればいいなって」

開業後、小林幸子さんからすぐにお祝いが届いたという。2人の信頼関係は知り合って60年以上経った今も変わらない

しかし、カフェの経営が軌道に乗って間もなく、新型コロナウイルスが流行し始めます。もちろんお店は大打撃。また、カフェで中澤さんが毎年開催していた、卒業生たちに手づくりカレーを振る舞う「カレー会」も中止することに。

そんな中、一人の卒業生が「中澤さんのカレーをレトルトにしておけばいつでも食べられるのに」と言い始めます。レトルトカレーを販売すれば、経営の助けにもなるはずだ。そう考えた保護司時代に担当した若者たちががあれよあれよとクラウドファウンディングを立ち上げ、食品やパッケージの業者ともやりとりを開始。そうして、「更生カレー」が誕生しました。

「不思議な世の中で、お会いしたこともない人が寄付をくださるのね。それで第一弾のカレーを3000個つくって、クラウドファウンディングの返礼品にしました。私は初めてのことばかりで、本当に荒波の中に放り込まれた感じ。ありがたいことにたくさんのお力添えをいただいて、もう1万個は超えました」

更生カレーの隠し味は、マヨネーズ。中澤さんは「これがないと味が変わっちゃうのよ」と教えてくれました

「更生」はネガティブな言葉じゃない。名物カレーに込めた思い

卒業生たちも熱を注いだ「更生カレー」つくり。中澤さんがカレーをふるまうようにきっかけは、保護司になりたてのころに、当時担当していた少年に夕食でカレーを食べさせてあげたことでした。続々と口コミでそのカレーが広まり、どんどんカレー目当ての少年たちが自宅を訪れたといいます。あまりの人気で、「何月何日にあそこの公園でカレーを出すよ」とイベント化し、それが「カレー会」に変化していきました。

「子どもたちには公園のゴミ拾いをすることを提案し、イベントみたいに続けていました。ゴミ拾いや雪かきをしていたんだけど、周りの人が褒めてくれるんですよね。排除されることばっかりで、褒められることなんてなかった子たちだから、地域の人たちから受け入れられて、いつの間にか社会貢献へとつながっていきました。すると、どんどん仲間意識が強くなっていくの。今でもことあるごとにみんなで集まっています。みんな大人になって子どももできて、私はおばあちゃんみたいよ」

昔は「元気にしている?」と少年たちに投げかけていた言葉。今では大人になった少年たちが中澤さんのもとを訪れ「元気にしている?」と様子を見に来るといいます。これからCafé LaLaLaをどんな場所にしたいか聞くと、中澤さんはこんなふうに答えてくれました。

「元気がなくなったらカフェはすぐ畳もうと思ってる。でも、『更生カレー』は私の元気がなくなったあとでも、うまく続けていけたらなと願っています。更生ってネガティブなイメージがあるけれど、更に生きるって書くじゃない。誰でも力強く生きていける。『更生』できない人なんていないのよ。このカレーには、そういう思いがぎっしりと詰まっています」

(文:飯嶋藍子 写真:鈴木渉)

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