モスクワ音楽院に16歳で首席の天才ピアニスト、「インパルス板倉のネタ」で芸人に転身。

2025年6月17日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

0歳からロシアの首都モスクワで暮らし、30以上のピアノコンクールで優勝。16歳で世界三大音楽院「チャイコフスキー記念ロシア国立モスクワ音楽院」に首席で入学し、ロシアでピアニストとしての将来を期待されていましたが、19歳で突如音楽院を中退し、日本で芸人に──。

そんな異色の経歴が注目を集めているのは、22歳のお笑い芸人、きりさんです。ピアノと勉強一筋で生きてきたという彼女。なぜ、大きなキャリアチェンジに挑んだのでしょうか?きりさんが、自分らしいはたらき方を見つけるまでの道のりを伺いました。

3歳でロシアの音楽学校に入学。「負けたくない」一心で走り続けた

──ロシアでの幼少期について教えてください。

両親は日本人で、私が生後6カ月の時に父の転勤でモスクワに行きました。3歳の時に、家から近くて学費が無料という理由で、幼稚園ではなく音楽学校に入りました。幼稚園は当時、外国人向けには有料だったんです。

ロシアでは、ソビエト時代の名残のせいか、芸術分野はお金をかけなくても比較的誰でも学べるようになっています。音楽学校に通っている子も多いですし、一般の家庭でも、芸術の教養の水準は高かったように思いますね。だから、日本にいたら音楽はやっていなかったと思います。

音楽学校では5歳になると、やりたい楽器を選ぶのですが、私は先生のすすめでピアノになりました。

幼少期のきりさん

7歳からは普通の小学校に通いながら、放課後に音楽学校へ行くようになって。音楽学校は音楽専門の学校で、私は3歳から通っていましたが、7歳で正式に1年生が始まるんです。成績が良ければ学費は無料なので、普通の小学校と並行して通う子も珍しくなかったんですよね。

家に帰るともう23時くらいで、そこから宿題をして、寝るのは夜中の2時とかでしたね。親は「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」とよく言っていましたが、私がちゃんとやりたかったんです。

でもしんどすぎて、10歳の時に普通の小学校は自宅学習に切り替えました。

──ロシアではそのような選択ができるのですね。同じく10歳のころ、ご両親がきりさんに日本語を教えようとして日本の「お笑い番組」を見せたと伺いました。

最初はニュース番組だったのですが、私が興味を持たず、試しに見せたのがお笑いだったそうです。

いくつか見た中でダントツで面白いコントがあって、当時の私のように日本のことを何も知らない子どもでも楽しめるって、すごいなと思いました。全部が面白くて、笑いは万国共通だな、と感動しました。

ただ、そのころは芸人になろうとまでは思っていなかったんです。

──音楽学校1本に絞ったということは、ピアノが本当にお好きだったのですね。

私はかなりの負けず嫌いなので、好きや嫌いよりも、「音楽学校の同級生に負けたくない」という気持ちだけで弾いていましたね。勉強も同じで、外国人としてなめられるといじめにあうと思って、成績をずっとキープするようにしていました。

3歳から15歳まで通った音楽学校で、ピアノを演奏する様子

ピアニストでも音楽教員でもなく「芸人」を選んだ理由

──その後16歳で、名門の「チャイコフスキー記念ロシア国立モスクワ音楽院」に飛び級入学されたそうですね。

私は、音楽ってどの先生に教わるかが重要だと思っていて。この音楽院には、私が教わりたかったモスクワでトップクラスのピアノの先生がいたんです。入学試験を受けて、5教科の合計得点が私が一番高かったので、首席という形で入学し、入学式のスピーチも担当させてもらいました。

──あまりの努力に驚くばかりです……!

音楽院では一般教科の勉強がごっそりなくなり、音楽と勉強以外のことをする時間ができて楽しかったです。ただピアノは、「このまま続けていくのかな?」とずっと考えていました。

ピアノで食べていくにはピアニストか教員になるのが一般的ですが、ピアノがそんなに好きではない私がピアニストになるべきではないと思っていたし、教員も私には絶対向かないなと。

というのも、音楽院では、成績がいいと音楽学校でピアノを教える機会が与えられるんです。私もありがたいことにその機会をいただきましたが、本当に楽しくなくて……。アルバイトで教えていた生徒も含めると10人くらい受け持ちましたが、気の合う子とのレッスンしか楽しくなかったんです。

教員って、子どもが好きで、子どもに教えることに多少なりともやりがいを感じないと務まらないと思うんです。生徒を選り好みしている時点で私がやるべき仕事ではないし、生徒に悪影響を与えるだけだと思いました。

かと言って、ピアノを辞めるきっかけもなくて。これだけやらせてもらって、自分も頑張ってきたし、“自分が納得して始められるもの”を見つけない限りは辞めちゃダメだと思っていました。だから、それをずっと探していましたね。

──「芸人になりたい」と思われたきっかけを教えてください。

何か新しいことを見つけたくて、音楽院と並行して通信制の大学で心理学の勉強もしていました。でもそれが“納得して始められるもの”にはならなくて。

そんな時、「芸人をやってみたい」という思いがスッと入ってきたんです。

音楽院3年生の時、インパルスの板倉さんの「裸にダイナマイト」というネタをYouTubeで偶然見てしまって。あまりにも面白くて、自分の中に溜まりに溜まっていた「お笑いが好き」という気持ちが、最後の一滴で溢れちゃったんです。

ああ、やっぱりお笑いが好きだなぁ。音楽を辞めて芸人になってもいいな、と思いましたね。

その道一本じゃなくてもいい。2つ以上やるからこそ“自分らしさ”が見えてくる

──その後5年制の音楽院を3年(19歳)で中退し、日本に帰国されました。ロシアでは、きりさんの帰国を惜しむ声もあったそうですね。

私自身は、音楽院を辞めることに抵抗はなかったんです。でも、私をサポートしてくれた先生や両親に不義理にならないかどうかだけが心配でした。だからこそ、自分が本当に幸せになれる道を選ぼうと決めていましたね。

芸人をやろうとスッと思えたのは、自分のなりたい“最終形態”が決まっていたからかもしれません。私は、エピソードトークの多いおばあちゃんになりたかったんです。

──「エピソードトークの多いおばあちゃん」ですか?

ピアニスト一本で生きてきたおばあちゃんと、ピアニストから芸人になったおばあちゃんだったら、後者のほうが絶対に面白いエピソードが多いじゃないですか。「ロシアでピアニストをしていた人が芸人になって亡くなった」となれば、それだけで面白いし、そんな人がいたんだ!という痕跡を残せる気がして。

少し話が逸れるんですが、私の好きな作家に、ロシア文学の(ミハイル)ブルガーコフや(ニコライ)ゴーゴリ、日本の安部公房さんがいます。

彼らに共通するのは、医者や役人など、一度は別の職業に就いていることなんです。だから作品にも、作家一本でやってきた人なら思いつかないような変わった発想や表現が出てくるんですよね。それが私、すごく好きで。

きりさんの好きなロシア文学の本

好きな作曲家にも同じことが言えるんですけど、たとえばチャイコフスキーも最初は法律の勉強をしていて、少し遅い年齢で音楽を始めています。オペラ「イーゴリ公」で有名な作曲家、ボロディンも、化学者や医師としても有名で、「ボロディン反応」という合成法を発見するなどの功績を残しているんです。

音楽一本でやっていないからこそ、こういう人たちの作品はより濃く、その人たちの色が出ていておもしろいなと思います。

──その想いは、きりさんご自身にも当てはまりますか?

一度極めかけた道を捨ててまで新しいことをするって、それだけの情熱がある証拠ですよね。

それは今の私自身にも通じるものがあると思っていて。

子どものころから芸人を目指してなったんじゃなく、ピアノを挟んで芸人になったからこそ、芸人としても自分ならではの色が出せるんじゃないかなと思っています。

「どの分野にも近道があるはず」努力を最小限にする工夫

──帰国後は、約1年間アルバイトをして学費を貯め、アンジャッシュやドランクドラゴンなどが所属する「プロダクション人力舎」のお笑い養成所スクールJCAに通ったそうですね。

養成所では100人くらいの同期と学びました。最終的に芸人になったのは3分の1くらいの方だったと思います。私は、2024年にピン芸人としてデビューしました。

今は中野や新宿、阿佐ヶ谷周辺の地下劇場で、お笑いライブに出演するのが主な活動ですが、いつかは単独ライブで大きな会場にお客さんを呼べるようになりたいですね。

また芸人だけでは生計を立てられていないので、アルバイトをせず芸人の仕事だけで稼げるようになりたいですね。

──芸人になってからどんな変化がありましたか?

初めてちゃんとした友達ができました。

音楽学校や音楽院時代は、特定の人と長く触れ合う機会も時間もなかったんです。だから友達がいない状態が当たり前で、それがつらいとも思っていませんでした。むしろ、人と本音でかかわるのが面倒くさいし、どうしてみんなつるんでいるんだろう?と冷めた目で見ている側だったんです。

でも人力舎に入って、養成所の同期や先輩と会う機会が多くなって。ご飯に行ったり、お花見に行ったり。世の中にはこんなに楽しいことがあるんだな、私ができないことをできる人たちがこんなにいるんだな……と、新鮮な刺激を受けています。

──この先、ピアニストに戻る可能性は?

芸人を始めたからには、ピアニストにだけは戻らないと決めています。「どうせ、いつでもピアニストに戻れるから芸人やっているんでしょ」とは絶対に思われたくないんです。

音楽院を卒業せずに中退したのも、「何かあれば教員になれる」という逃げ道を自分の中からなくしたかったのもあって。「そんな覚悟で芸人始めたんじゃないぞ」っていう意思表示でもあります。尖っていると言われますけど(笑)。

芸人としてのネタも、ピアノを使ったものも1本だけあるのですが、ほかはすべてピアノとは切り離してつくっています。

──スタジオパーソルの読者であるはたらく若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするためのアドバイスをお願いします。

なりたい“最終形態”を早めに決めておくのが大切だと思います。お金がほしいのか、楽しいことがしたいのか。私は「エピソードトークの多いおばあちゃんになりたい」という軸があったから、やるべきことは自ずと決まりました。

もしどちらもほしいなら、それなりに頭を使って努力しなければいけません。でも私は、努力すればいいものでもないと思っていて。努力は“最終形態”への過程だと思うんです。

どの分野にも「近道」がきっとあるはずで、自力ではできなくても、ちょっと先生や先輩に質問するだけで「あ、こういうことなんだ」って一瞬で分かることが結構あります。時間を大事にするためにも、人に聞いたり、自分とは違う生き方をしている人と触れ合ったり、普段読まない本を読んだりするのはいいと思います。

とはいえ、私はまだまだ成功していない身ですので、こんなやつのアドバイスは真に受けないでください(笑)。

(「スタジオパーソル」編集部/取材・文:原由希奈 写真提供:きりさん)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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