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CA夢破れ→ディズニーで”超優秀キャスト”に表彰。ぼる塾・田辺智加が29歳で芸人を目指した理由
		スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。
今回お話を伺ったのは、お笑いカルテット「ぼる塾」のメンバーである田辺智加さん。学生時代にCAを目指すも夢破れ、27歳まで東京ディズニーシーで7年間アルバイトを経験。そのあと、ギャルサークル(以下、ギャルサー)で活動したのちに、29歳で芸人を志しました。今や、テレビで見ない日はないほどの活躍を遂げています。
多趣味で数多くの「好き」を原動力にしながら、一歩ずつキャリアを歩んできた田辺さん。「すべての経験が今の自分をつくっている」と語る彼女に、はたらくヒントを伺います。
CA目指すも挫折→ディズニーで7年アルバイトしたのちにギャルサーへ
──田辺さんはどんな学生時代を送っていましたか?

小学校のころまでは、本当に得意なことがなくて。勉強も全部中途半端で、誇れるものが一つもなかったんです。ですが、小学校6年生のときに母が英語の塾に通わせてくれて、中学校の中間テストで英語の教科で100点を取れたんですよ。
あと、私と同じ塾に以前通っていた幼なじみの親戚のお姉さんがCAとしてはたらいていたのですが、塾の先生から、そのCAの親戚のお姉さんより英語ができていると言われて。「だったら私も目指せるのかしら」と思い、CAを目指すようになったんです。
──CAを目指した中学校~高校時代を経て、大学以降はどんな進路を進まれたのか教えてください。
高校卒業後は、CAを目指して短大の英語科に進学しました。ただ、短大では自分よりも英語が得意な人も多くて。みんな、授業の内容をすぐに理解できているようで、教授に質問をする人もいませんでした。
中学・高校時代の授業は和やかな雰囲気だったので、当時の私は「先生、今なんて言った?」などとクラスメイトと一緒に発言できていたのですが、短大では自信をなくして聞き返すのも怖くなり、英語もだんだんと話せなくなってしまいました。同時に、成績も悪くなっていきましたね。
そして、就職活動の時期に差し掛かったころ、当時は世界情勢も不安定で航空業界では求人が少なくなっていたんです。就職課の人からも「TOEICの点数的にCAは厳しい」と言われて、CAの夢はあきらめなければならないと感じました。
そして、就職課の方から紹介されたのは、銀行や飲食関係など英語に関係ない就職先ばかり。それまでCA以外の進路を考えたことがなかった私は、ほかのどこにも行きたくなくて、学校推薦で受けた面接もまったく興味が持てず、説明を受けている最中に寝てしまったことも……。そんな人、いませんよね。「舐めているのか」といわれても仕方ありません。いくつか会社を受けましたが、結果は当然すべて不合格。
そこで進路に行き詰まり、「自分は何がやりたいんだろう」と考えたときに思い出したのが、20歳からアルバイトをしていたディズニーシーでの経験でした。
ディズニーシーでキャストとしてはたらく時間が楽しく、「このまま辞めるのは嫌だ」という気持ちを持っていて。短大の授業が終わったあとは毎日ディズニーランドやディズニーシーに通っていて、友達から「そんなに好きなら、はたらいちゃえば?」と言われたこともあり、卒業後もディズニーではたらくことを決めました。
東京ディズニーシーで最も大きいグッズのお店でレジ担当としてはたらき始めたのですが、その仕事がすごく楽しくて。はたらいていく中で、ディズニーでかなえたい“新しい夢”もできたんです。
──ディズニーキャストとしてかなえたい夢、ですか?
はい。キャストとしてある基準を満たした人だけが得られる「トレーナー」の称号をもらうことが夢になりました。
トレーナーは、周囲のメンバーの成長を促すためのトレーニングを行います。当時私にディズニーの仕事を教えてくれたトレーナーさんが、本当に素敵な方で。アルバイト経験がほとんどなかった私でも、その方のおかげで楽しくはたらけるようになったんです。その方の影響もあって、トレーナーを目指すことが夢になりましたね。
そのあと、25歳のときには年に1回優秀なキャストが選ばれる『マジカルディズニーキャスト』にも選出されました。お客さまから「どうしてもあなたのレジで買いたかった」と声をかけていただくこともあり、大きな成長を実感できました。
──キャストとして、どんなことに気をつけてはたらかれていたのでしょうか?
自分自身が遊びに行ったときにキャストの方にしてもらってうれしかったことを実践したり、お客さまの持ち物などを細かく観察して、その人に合ったコミュニケーションを心がけたりしていました。
ディズニーのキャストといえば、アトラクションにいる人の印象が強いと思うのですが、私は「お土産屋さんで忘れられない存在になろう」と意識してはたらいていましたね。とにかく私自身ディズニーが大好きだったので、その気持ちを原動力に日々頑張っていました。
──ディズニーキャスト時代の学びで、今に活きていることはありますか?
思いやりの大切さです。ディズニーではたらき始めたころは自分のことで精一杯で、周りの人のことはあまり気にしていませんでした。
でも、一緒にはたらいていた子に「忙しくて大変」と弱音を吐いたとき、その子から「みんな大変なんだよ」と言われて。「ああ、そうか」と思い直しましたね。それからは自分のことだけではなく、思いやりの気持ちを持って、自分よりも周りのことを意識するようになりました。
現在も、芸人としてライブやテレビに出るときは周囲の空気を読んだり、共演者への気配りを忘れないようにしていて、この心持ちはキャスト時代に培われたものだと感じています。
──短大を卒業された20歳から、どれくらいディズニーのキャストとしてはたらいていたのでしょうか?
27歳までの7年間、ずっとディズニーではたらいていました。
学生時代の友人には、正社員としてはたらく子だけでなく、それこそCAなど、長年の夢をかなえた子も多くいて。「相当努力したんだろうな」と思うと同時に、「私もなりたかったな」という複雑な気持ちになり、自分の道に自信を持てなくなることもありました。
そんなときは「人と比べても意味がない」と割り切って、話すと心がざわついてしまう人とは会わないようにしていましたね。まずは、目の前のディズニーキャストの仕事を頑張ろうって。
ですが、27歳のときに転機が訪れます。益若つばささんにあこがれて、高校時代から好きだったギャル文化への関心が強くなり、思い切ってギャルサーに参加。それをきっかけに、ギャルサーの活動に専念しようとディズニーの仕事を辞めることにしたんです。
「辞めたほうが良い」相方の言葉で目が覚め、奮い立った芸人への想い
──ギャルに惹かれていた理由を教えてください。

最初にギャルに惹かれたきっかけは、高校の同級生のギャルがみんな可愛くて、優しくて、しかも頭も良かったことです。私が高校に通っていた時期は特にギャルが流行っていたこともあり、自然とあこがれるようになりました。
27歳で、その想いが再燃。『Popteen』の表紙で益若つばささんを見て「こんな可愛い子いるんだ!」とあこがれて、ギャルサーに入りました。
──ギャルサー時代は、どのようにお金を工面していたのでしょうか?
ディズニーを辞めたあと、ギャルサー時代ははたらいていなかったので、弟や祖父にお金を借りていました。でも、「このままじゃ良くないな」とは思っていて。
悩んでいた29歳のとき、渋谷でロケ中だった占い師の島田秀平さんに手相を見てもらったのですが、そこで「あなたは人気者になる」と言われたんです。「人気者といえば芸人さんかな」と自分の中では思っていたので、そこで思い切ってお笑い芸人養成所のNSC(吉本総合芸能学院)に入学しました。当時は何をやったら良いのか本当に分からなかったので、「これしかない」と思って飛び込んでいきましたね。
──NSCに入学したあと、どのようにお笑いの道を歩まれていったのか教えてください。

ネタ見せをする授業で私のネタを見た酒寄さん(現・ぼる塾のメンバー)が、「一緒にやろう」と声をかけてくれて。最初は、酒寄さんと2人で「猫塾」というコンビを組んで活動を始めました。
「酒寄は面白いけれど田辺は面白くない」と周囲の芸人から言われることがあり、自信を失っていた時期もあった私に、酒寄さんは「田辺さんは面白いよ」と伝え続けてくれました。
ただ、それでも自信が持てず、あるとき「私は面白くない」と弱音を吐いたことがあって。それを聞いた酒寄さんは「そう思うなら芸人は辞めたほうが良いよ」と。酒寄さんは、文字通りの意味を込めたわけではなく、「そんな気持ちで芸人をしてほしくない」と伝えたかったのだと思います。その酒寄さんの言葉をきっかけに、「こんなことを言っていちゃダメだ、自分に自信を持って頑張ろう」と目が覚め、自分を奮い立たせることができました。

──きりやはるかさん、あんりさんの二人のメンバーも加わって4人組のお笑いカルテット「ぼる塾」を結成したあと、お仕事への心境の変化はありましたか?
ぼる塾を結成してから、プロとしての自覚が芽生え始めました。大きな影響を与えてくれたのは、あんりです。彼女は常に「お笑いでお金をいただいているんだから、きちんとやらないと」という考えを持っていました。
一方で、ぼる塾を結成する前の私はプロ意識が少し欠けていたんです。ふわっとメディアに出始めて、スタッフさんや芸人さんにちやほやされてきて、「意外とお笑いって簡単かも」なんて思ってしまっていた時期もありました。
求められていた役割を果たせなくても、お給料って振り込まれるじゃないですか。でも、現場で一言も発してないのにお金をもらえてしまう状況が、だんだん怖くなってきて。
そこから、「自分が何を求められているのか」を考え、これまで以上に真剣にお笑いと向き合うようになりました。最初はスベるのが怖かったのですが、だんだん「スベらないことのほうがやばい」と気付いて、「まずは発言してみよう」と思えるようになっていきましたね。
「自分らしく楽しく努力していれば、いつか自分らしく楽しくはたらける
──今、多くの方に愛されている田辺さんですが、ご自身ではその理由をどのようにお考えですか?

こんなことを言うのもなんですが、私といたら、そりゃ楽しいだろうなって自分で思っています。
おいしいものも知っているし、いろいろなコンテンツも好きだから知っているし。自分らしく生きているから私自身も楽しくて、どんどん知識も増えて伝えていける。「好き」のエネルギーや前向きな気持ちって、周りにも伝染するんですよね。
昔は「みんな、私といても楽しくないだろうな」と思っていたところから、自分らしく仕事をするうちに少しずつ評価してもらえるようになって、考え方が変わっていったんです。
──田辺さんは、ディズニーやグルメ、アイドルなど、好きなものをたくさんお持ちで、お仕事にもつなげられています。「好きなこと」を大切にすると、キャリアにとってどんな良いことがあると思いますか?
忙しくても、好きな気持ちがあれば自然にインプットすることができるんですよね。だから、好きなことを仕事にしていると無理なく努力ができます。
それに、好きなことはリフレッシュにもなるし、人生そのものに彩りを与えてくれる。だからこそ、余裕がなくても自分の「好き」は必ず大事にしてほしいです。

──社会人になって好きなことを後回しにしてしまう方や、「好きなことに時間を割いてきたけれど、これまでの経験に意味があったのかな」と思っている方もいらっしゃると思います。
意味がないことなんて、一つもないです。たとえば私は、以前新大久保の韓国人店員に恋をしていて、その当時あまりにも暇だったため、1年間毎日、1日8時間ほど韓国語を勉強していた時期があります。
そしたら、そのあとテレビ番組で韓国アイドルの方と共演することになって、流暢に話すことができたんですよ。
あとは、私はお菓子作りが大好きで200人分のケーキを焼いて劇場に持っていったこともあります。「お金もないのに材料費に何万円も使って、何をやっているのだろう」と思っていましたが、お菓子作りが好きだということが関係者に広まり、徐々にお菓子関連のお仕事が増えていったんです。そして最近、ぼる塾の冠テレビ番組の企画によって、お菓子の本場であるフランス・パリの伝統的なチョコレートイベント「サロン・デュ・ショコラ2025」に私の開発した商品が出品されることになりました。
そのときは無駄かもしれないと思っていても、すべての経験は思わぬ未来につながっていくのだと感じましたね。
ただ、好きなことがない方や、自分がどんな道を歩めば良いのか悩んでいる方もいると思います。そんな方は、もっと気楽に、少しでも興味を持ったことへ一歩踏み出してみてください。私も本当に今までふらふらと回り道をしてきたし、周りの人がキャリアを積み重ねる中で、焦りを感じたときもありました。
それでも、何事も真剣に取り組んでいれば何かしらの形になっていきますし、もし違ったら違ったであきらめて、次の道に進んでみたら良いだけなんです。歩みを止めなければ、いつか「これだ」と思える場所に必ず出会えます。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
いただいた質問が、まさに私の答えでもあるのですが……。自分らしく、楽しく、一生懸命努力していれば、自然と結果はついてきます。やりたいことを一生懸命続けていれば、その想いは必ず伝わるんですよね。
周りから反対されることもあるかもしれません。でも、自身の「好き」な気持ちや直感を、あなただけは信じてあげてください。難しく考えすぎず、自分だけの道を一歩ずつ歩んでみてほしいです。

「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝海弘子
				
				
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