愛知の精肉店は、なぜ儲けゼロで「10円惣菜」を売り続ける?

2022年3月29日

愛知県・知多半島の南部に位置する美浜町にある布土精肉店。このお店の目玉商品は焼き豚と、なんと1個税込み10円で販売される唐揚げやハムカツです。夕方になると10円惣菜を求めて地元の小学生たちが布土精肉店を訪れ、店内は賑わいます。

この「10円惣菜」は、現在の布土精肉店店主・石川佳男さんが考案した商品。国産の鶏胸肉を使用するなど、10円でも品質に妥協していないため、原価は税込み9.5円。人件費を考えると、儲けはほぼゼロなのだそうです。

結果的に「日本一安い唐揚げ」が評判を呼び、テレビにも取り上げられるほどの人気となった布土精肉店ですが、採算を度外視した「10年惣菜」は、なぜ生まれたのでしょうか。

今回お話を伺った石川佳男さん

店の活気を取り戻すために始まった「10円唐揚げ」

石川さんのお父さんが25歳だった1977年、修行先からのれん分けしスタートした布土精肉店(開業当時は富士銀布土支店)。美浜町で唯一残っている、昔ながらの精肉店です。

当時のお店の様子

当初、石川さんは東京で食品会社のグループ会社へ新卒入社し、ハムやベーコン、焼き豚など加工品の営業に携わっていました。「当初は跡取りになる気もなかった」という石川さんがお店を継ぐ決心をしたのは、29歳のときのこと。

「お盆に帰省した時、父の焼き豚を久々に食べました。僕はそれまでに仕事であらゆるメーカーの焼き豚を食べていましたし、自社の焼き豚にも自信を持って販売していたのですが、父の焼き豚がとても美味かったんですよね。『自分の営業力ならこの焼き豚をもっと売ることができる』。東京に戻っても、ずっと父の焼き豚のことが頭の片隅にありました」

当時の布土精肉店は地元の常連のみが通う程度の細々とした営業をしており、店のショーケースや機械もボロボロ。しかし、家族や親戚からの「お客さんも来ないし会社員を続けた方がいい」という猛反対を押し切って、石川さんは家業を手伝うために東京から美浜町へと戻ります。

まずは自分の貯金全額をはたいて店の修繕につぎ込むところからスタート。仕事帰りの人たちに向け「おいしい焼き豚あります」という手作りの看板を作成すると、少しずつお客さんは増え始めました。焼き豚の売り上げも1日5本程度だったのが、12〜13本ほど売れるように。しかし石川さんは、お店に活気がなかったことが気になっていました。

「子どもたちが集まるようになれば、お店も賑やかになるのではと思ったんですよね。ふと、僕が小学生のころ、駄菓子を買って暇つぶししていた店があったのを思い出したんです。そこで、試しに10円程度のお菓子を自分の店で販売するようになると、噂を聞いた子どもたちが少しずつ来るようになり、徐々にお店は賑やかになっていきました」

ある時、石川さんは税込み50円のコロッケを1個ずつ食べる2人の兄弟と出会いました。「このコロッケがうまいから」と毎日のようにお店を訪れていた兄弟。しかし消費税が5%に上がったことでコロッケは55円に値上がりし、2人はコロッケを買えなくなってしまいます。

「兄弟のお小遣いは2人で100円だったんですよね。すると、その子たちは1個のコロッケを買って半分ずつ食べるようになったんです。『何か俺にできないかな』と感じました。

そこで思いついたのが、税込み10円の商品を作ることでした。うちのラードで揚げたおいしい揚げ物を、たくさん子どもたちに食べてほしい。そして彼らが将来大人になってからも店を訪れてほしい。そういった想いから『10円唐揚げ』がスタートしたんです」

子どもたちの力を借りながら完成させた「安くて美味しい唐揚げ」

「10円唐揚げ」のアイディアを石川さんが思いついてから、実際に店頭に出すまでは約1年間。低価格でありながら美味しい唐揚げを作り出すために、石川さんは文字通り「寝る間を惜しんで」唐揚げを研究します。

「昼間は店に立っているので、閉店後の夜に唐揚げを開発する日々が続きました。価格を安くするには、もも肉ではなく胸肉を使えばいいけれど、どうしてもパサパサになってしまう。材料を外国産にすれば解決しますが、僕がやりたかったのはただ安い唐揚げを作ることじゃありません。

美味しい製品を安く提供し喜んでもらうことに対し、妥協はしませんでした。子供たちに試食してもらうたびに『まずい』『かたい』『こんな小さくて10円なら買わない』って、正直な感想をたくさんもらいましたね(笑)」

石川さんは半年ほど唐揚げの研究を重ねましたが、鶏胸肉のパサパサした食感はどうしても拭えず難航しました。解決の糸口となったのは、なんとお父さんのアイデア。

父と調理場に立つ佳男さん

「唐揚げの試作中に、たまたま父が厨房に入ってきたんです。父は採算の取れない『10円唐揚げ』に反対だったのですが『何に悩んでいるんだ』と僕の相談に乗ってくれて。悩みを打ち明けたところ、ふと『これに漬け込んでみろ』と焼き豚のたれを持ってきたんです。

半信半疑のまま一晩寝かしたら、なんとすごく柔らかくなったんですよ。三枚バラを漬けたときに出る脂と旨味が胸肉に溶け込み、ジューシーになりました。

子供たちに食べさせると『これで10円だったら毎日買いに来る』と、やっとお墨付きをもらいました。唐揚げを開発してから、評判は精肉店の裏手にある小学校だけではなく隣町の小学校にも広まっていきました」

どれだけ売れても儲けが出ないから、最初は家族のサポートも一切無し。石川さんが1人で夜中に仕込み、次の日の朝にパッと揚げて、子どもたちの来る時間にもう一度揚げ直して……というハードな毎日が続きました。

すると、だんだんとお店にも変化が。「10円で子どもたちが唐揚げを食べている」と耳にした子どもたちのお母さんが、お店に集まるようになったのです。

「父も50年精肉に向き合っているだけあって、やはり目利きなんですよね。店のショーウインドウに並んでいる肉は安くて美味しい。そのことにお母さんたちが気付き、お客さんが増えるようになりました」

10円からあげ
10円唐揚げ

子どものエールに救われたお店の再興

しかし、布土精肉店が徐々に賑わいだして、テレビなどのメディアに取り上げられるようになった2014年の正月、ピンチが訪れます。なんと店が火事になり、ほぼ全焼してしまったのです。

火災直後のお店の様子

元の状態に戻すには6,000万円ほどかかり、火災保険や銀行の融資を足しても到底用意できる金額ではありませんでした。石川さんが店の復旧を諦めながら掃除と片付けをしていた時、石川さんの心を大きく揺さぶる出来事が訪れます。

「コロッケを食べていた兄弟の妹が僕のもとを訪れ、貯金箱を差し出してきました。そして『これをあげるから、10円ハムカツを売ってください』って言うんです。途端にすべてを思い出し、感極まりました。

というのも火事が起こる数ヵ月前、その女の子が公園で鉄棒の練習をしてたんですよ。練習後に10円唐揚げを買いに来た時にちょっとサービスをしてあげて「諦めちゃだめだよ。諦めない限りゴールはあるからね」と応援していました。たまに配達帰りに練習を手伝ったりもしていたんです。

1ヵ月半ほど練習していよいよ鉄棒ができるようになったので、次の目標を一緒に考えていました。その時に僕は『ハムカツが好きだから、10円でハムカツを作りたい』という話を女の子にしていたんです。逆にその子は『次は楽器を買いたいからお小遣いを貯める』と言っていたので、僕はカエルの貯金箱をプレゼントしていました」

火事の片付けをしていた石川さんのもとに女の子が持ってきた貯金箱とは、まさに石川さんがプレゼントしたもの。フタを開けると10円玉が詰まっていました。

「女の子には『諦めたらそこで終わり』と教えてきたはずの僕自身が諦めていたんです。有名になった分、いつの間にか『店がないとやっていけない』と見栄っ張りになっていたんですよね。女の子の一言で気付かされました。

『ありがとう。じゃあ使わせてもらうよ』と預かり、僕は野外で唐揚げを揚げられるようなテントを購入しました。業務用冷蔵庫の耐熱性が高かったこともあり、奇跡的に焼き豚のタレは生き残っていたので、焼き豚も唐揚げもまた作れる。これは大きな希望でした。

寒空の下で唐揚げを作り続けていると、そのうち親戚が3人ほど訪れて『最初は反対していたけれど、お前はちゃんと布土精肉店をプラスの方向へ持っていった』と資金を貸してくれました。火事から1ヵ月半ほど。やっと再建築ができる目処が立ちました。

それから2ヵ月半ほどで店を建て直しながら、並行して『10円ハムカツ』の試作を進め、完成することができました。オープンに訪れてきてくれた子どもたちがハムカツを食べてくれるのを見ながら、改めて自分が巡り巡って子どもたちに応援されていたのだと気付いたんです」

10円ハムカツ
10円ハムカツ

次世代へと受け継がれていく“職人のポリシー”

現在は「10円惣菜」のバリエーションも増えており、その売り上げの一部は毎年近くの小学校に寄付しているという布土精肉店。店の従業員は美浜町出身者がほとんどで、中には小学生の時に「10円唐揚げ」で育った、という人も。石川さんは、今でも店の従業員たちに「諦めたらそこで終わりだよ。諦めなければ絶対ゴールがあるから」と繰り返します。

布土精肉店のスタッフの皆さん

「美浜町ははたらくところも少ないぶん、若い子たちにも頑張ってほしいんです。うちのお店も、ボロボロな状態からスタートしましたが、なんとか従業員を増やして、ある程度の給料やボーナスを渡せるようになりました。今ではメディアに取り上げていただくことも増えました。『こんな小さな店でも注目してもらえたんだ』と、背中を見せることで、若い子たちに夢を持たせてあげたいなと思っています。

僕の諦めかけていた心を助けてくれた女の子も今では大学生になり、東京へ行っています。この前正月にこっちへ帰ってきた時、ちょうど『おう、久しぶりだね』って話しましたよ。本当にあっという間です。

その子を見てると、初心を思い出すんです。再び立ち上がれるきっかけは、その女の子の一言だったから。だから『お盆と正月の2回でいいから、俺ここに立ってるから絶対買いに来てね』って、いつも焼き豚をちょっとおまけしながら声をかけています」

「子どもたちがパパ・ママになったら、さらにその子どもたちにも『10円惣菜』を食べてもらいたいですね」と笑う石川さん。低価格で美味しいものを提供し喜んでもらう、という“職人のポリシー”は、美浜町の次世代に受け継がれようとしています。

一見突拍子もないアイデアのようにも思える「10円惣菜」の中には、石川さんの仕事に対する情熱、そして地元の子どもたちへの愛に溢れたエピソードが詰まっていたのです。

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ライター高木 望
1992年、群馬県出身。広告代理店勤務を経て、2018年よりフリーライターとしての活動を開始。音楽や映画、経済、科学など幅広いテーマにおけるインタビュー企画に携わる。主な執筆媒体は雑誌『BRUTUS』『ケトル』、Webメディア『タイムアウト東京』『Qetic』『DIGLE』など。岩壁音楽祭主催メンバー。
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