東出昌大も太鼓判!月額1.8万の山暮らしニートが36歳で都会へ戻ってきた理由。和歌山の限界集落で15人の共同生活。

2025年2月27日

月額1万8000円で生活する「山奥ニート」として、和歌山県の限界集落で10年間過ごしてきた石井あらたさん。駅から車で1時間半、曲がりくねった山道の奥にあるNPO法人「共生舎」で、生きづらさを抱えた15人ほどの仲間と共同生活を送っていました。

2020年に出版したエッセイ『「山奥ニート」やってます。』(光文社)で注目を集め、2024年6月にはマンガ版も刊行。しかし、石井さんは36歳の時に10年間の山奥暮らしを終え、家族とともに愛知県名古屋での新たな生活をスタートさせています。かつては息がつまっていた都会での生活。そこに戻った今、石井さんには新たな価値観が芽生えているそうです。山奥生活が教えてくれた「自分らしいはたらき方」の可能性について、お話を伺いました。

「はたらかずに生きていく方法」を本気で探していた

――10年間、和歌山県の山奥でニートとして暮らしていた石井さん。いつごろから「はたらかない」選択を考えられるようになったのですか?

きっかけは自分自身が引きこもりを経験したことでした。もともと私は大学時代、教員を目指していたんです。夏休みにまとまった休暇が取れることや、子どもと関われる点に魅力を感じていました。でも、教育実習で実際に目にした先生のはたらく姿は、想像と大きく違っていて……。

教育実習先の担当教員からきつく当てられる日々が続き、また別の先生が生徒たちに馬鹿にされている姿も目にしました。現実を目の当たりにして精神的に追い詰められ、大学を中退して引きこもりになってしまいました。その間にどんどん「はたらきたくない」という想いが強くなっていきましたね。毎日朝から夜まではたらく生活を、60歳、70歳まで続けることが自分にはどうしても想像できなくて。

その一方で、このままではいけないとも思っていて、何か別の道はないのかと本をたくさん読みました。そこで、「必死にはたらくことだけが人生の選択肢ではない」「なるべく生活費を安くすれば、そのぶんはたらかなくて済むんじゃないか」と考えるようになったんです。

――そこから和歌山の山奥へ移住するまでの経緯を教えていただけますか?

当時の私は自分の悩みを誰かと共有したくて、高校生のころから続けていたブログ(現在も『山奥ニートの日記』として運営中)で発信をしていました。ネット上で「ニート」と名乗っている人はまだほとんどいない中、はたらかないためにいろいろやってみようと、自分と年齢が近そうな人のブログを見つけては連絡を取るように。

そうして知り合った友人の誘いで、和歌山県の限界集落にあるNPO法人「共生舎」と出会い、入居を決めました。そこには私のように生きづらさを抱えた人たちが共同生活を営む場所で、自分にぴったりだと思ったんです。

でも、移住後まもなく、共生舎を立ち上げた方が亡くなってしまって。山での自由な暮らしが気に入っていた私は、「この場所での暮らしを続けたい。ダメなら元のニートに戻るだけだし、何が起こるか分からないけれどやってみるか」と、共生舎の理事を引き継ぐ決断をしました。

山奥で見つけた「この世で一番自由な暮らし」とは?

――共生舎ではどんな暮らしをしていたのですか?

15人くらいで共同生活をしていて、起きる時間も寝る時間も決まっていませんでした。朝8時に起きることもあれば、夕方5時に起きることもある。すべてがその日の気分次第で、誰もそれを咎めることはありませんでした。

夜はみんなでゲームをしたり映画を見たり。家の中には誰かがいて、そういう気軽な集まりができるのが共同生活の良いところでした。

――本当に自由な暮らしですね。山奥とのことですが、具体的にどんな場所だったんでしょうか?

地域の人から、「お前たちが共生舎に来る前だったらテレビ番組の『ポツンと一軒家』に出演できたかもしれないのに(笑)」と冗談めかして言われるほどの人里離れた場所でした。もともとは限界集落でしたが、私たちが移り住んでから少しずつ共生舎の住人が増えていったんです。

駅から共生舎までは車で1時間半。途中の山道が本当に狭くて曲がりくねっていて、大体の人はそこで車酔いをしていましたね(笑)。その中でインターネットはつながっていたので、家の中でパソコンを開いたりゲームをしたりと、私は特に不便に感じませんでした。

――ニートとはいえ生活をするには費用が必要ですよね。仕事は十分にあるものなのでしょうか?

生活費は月1万8000円で、私の場合はブログの広告収入と、たまに地元の人から頼まれる仕事でやりくりしていました。たとえば、神社やお墓に供えるサカキやシキビなどの葉を山で採取する仕事や、地域のキャンプ場の掃除などです。

住人の中には、近くの介護施設でアルバイトをしている人もいましたね。なんせ山奥なので、人材を確保するのが難しい施設にとっても、近くに住む若者がアルバイトをしてくれるのは助かっているようでした。

あとは農業の繁忙期には必ず労働力が必要なので、その時期はむしろ断るくらい仕事はありましたね。1年を通じての定期雇用は少ないですが、繁忙期だけはたらいて、それ以外は自分の時間に使うというはたらき方ができるんです。

――山奥で15人の共同生活をされていたとのことですが、どんな人たちが暮らしていたのでしょうか?、

男性が多かったですが、女性も一緒に暮らしていました。入居を希望する方には一度見学に来ていただいて、簡単な面談をします。特別な資格は必要なく、どなたでも入居できる仕組みでした。

――食事の準備も大変だったのではないですか?

意外とうまく回っていましたよ。買い出しは基本的にまとめ買い。町中で用事がある人と一緒に行って、車に乗せてもらう代わりに買い物を手伝う、という感じで。

調理担当も特には決めておらず、その日ごとに作りたい人が担当していました。強制はしないけれど、夜は誰かがみんなの分を作ってくれるとうれしい、という程度のゆるやかなルールです。私は得意料理の麻婆豆腐ばかり作っていましたね(笑)。

食材は、地元の人からよくいただいていました。猟師さんから鹿を分けてもらったり、アユの養殖や椎茸の生産をしている人のお手伝いをして、お裾分けしてもらったり。

不便な山奥での暮らしでは人を頼るしかない瞬間が必ず訪れるので、「助け合って生きること」がみんなの当たり前になっていきます。それが山奥の暮らしの面白いところですね。

「山奥ニート」から「山奥パパ」、そして都会へ。

――山奥での10年間、生活の変化はありましたか?

結婚を機に大きく変わりましたね。妻とは、もともと猟師見習いとして地域に来ていた時に出会いました。共生舎にも1ヶ月ほど住んでいたことがあったんです。その後、妻は名古屋ではたらき始め、2017年に結婚しましたが、しばらくは別々に暮らしていました。

コロナ禍で妻の会社がリモートワークを導入したことをきっかけに、ようやく共生舎での同居がスタート。翌年には子どもも生まれました。

――その後、家族3人で山奥で暮らしていたところから、名古屋への移住を決意されました。どのような理由があったのでしょうか?

直接のきっかけは、妻の会社で出社が基本となり、リモートワークができなくなったことですね。でも、それだけではありません。

子どもが生まれてから、それまで気にならなかったことが気になるようになってきたんです。たとえば、タバコの吸い殻が適当に置かれているなど、以前は「みんなでゆるやかに暮らす」というスタイルが心地良かったのに、子育てを始めてからは神経質になってしまって。

共同生活は、そこで暮らす住人全員が自立していないと難しい。でも、子どもという“自立していない人”がいると、どうしてもバランスが崩れてしまうんですよね。

――都会での生活は、山奥とどのように違いますか?

まず、生活費は約5倍になりました。私は専業主夫として子育てに専念していて、妻の会社員としての収入と、たまに入る私の著書の印税で生活しています。

都会に住んで1年近く経ちますが、正直、都会の人が何を求めて忙しく過ごしているのかがまだよく分からないんです。私自身の生活スタイルは、場所が変わっても大きくは変化していません。ただ、一つだけ大きな違いを感じていて……。

共生舎では、近所の農家さんの手伝いをしたり、夜に皆でゲームをしたり映画を見たりと、自然と人との関わりがありました。でも都会では子育てに専念していると、人と話す機会が極端に減って気が滅入ってくるんです。

そこで、人との関わりがないことによる孤独感は、はたらくことの苦しさより辛いものなんだなと気付きました。

当初、「はたらきたくない」という想いから始めた山奥生活でしたが、今は「外の人と話せるなら、はたらいてもいいかもしれない」と思えるようになりました。これは大きな価値観の変化でしたね。

――今後、また山奥に戻ることも考えられますか?

十分ありえますね。山奥に10年いたことで、どの田舎に行っても生活できる自信がつきました。むしろ、その自信があったから都会に戻ることができたのかもしれません。

教育実習の失敗後は「どこに行っても自分は使いものにならないんじゃないか」と思っていたけれど、今はどこへ行っても生きていけるだろうなと。

競争に疲れたあなたへ贈る、「土俵から降りてみる」選択肢

――山奥での暮らしを経験して、はたらき方に関して新しい発見はありましたか?

「履歴書を書いて面接を受ける」という採用プロセスを経なくてもはたらける経験をしたことで、選択肢が広がりました。山奥だと、たとえば梅やみかんを収穫するアルバイトなら、履歴書も学歴も関係なく、健康ではたらける人なら誰でもOK。「明日から来て」と言われて、すぐに仕事を始められます。はたらき方は決して1つではないことを身をもって実感しました。

――そんなはたらく選択肢の広がりや可能性がつまった石井さんの著書『「山奥ニート」やってます。』が2024年6月にマンガ化されました。

そうなんです。この本を通して、今生きづらさやはたらきにくさを感じている人に、「こんな生き方もあるんだ」と知ってもらえたらうれしいですね。今の時代って“人生のネタバレ化”が進んでいると思っていて。ある選択をすれば、その先にある結果までインターネットによって可視化されてしまうように感じます。

でも山奥には、まだ答えが決まっていない自由さがある。これから先どうなっていくんだろう、というワクワク感がある。そういう「別の生き方」の可能性を知ってもらえたらと思います。

それに、都会での競争に疲れた人が、一度立ち止まって生きていける場所って必要だと思うんですよね。山奥で自信を取り戻して都会に戻る人もいれば、そのまま山奥での暮らしを選ぶ人もいる。どちらも正解なんです。

都会と山奥の経済格差は、むしろチャンスでもあると思っていて。都会の10分の1の生活費で暮らせる山奥があることで、誰もが自分に合った生き方を選べる社会になるんじゃないでしょうか。

――最後に、仕事や生き方に悩む読者へメッセージをお願いします。

「山奥ニート」という選択肢があることを知っているだけでも、気持ちが楽になるはずです。競争社会の土俵から降りても、いつでも別の場所で再出発できる。そう考えられるようになると、目の前の仕事の見え方も変わってくるんじゃないかな。

人生の正解は1つではありませんからね。だからこそ、自分なりの答えを見つけていってほしいと思います。

(文:間宮まさかず 編集:おのまり 写真提供:石井あらた)

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ライター/作家間宮まさかず
1986年生まれ、2児の父、京都在住のライター・作家。同志社大学文学部卒。家族時間を大切にするため、脱サラしてフリーランスになる。最近の趣味は朝抹茶、娘とXGの推し活、息子と銭湯めぐり。
著書/しあわせな家族時間のための「親子の書く習慣」(Kindle新着24部門1位)

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