G7首脳が座った広島の「椅子」。製作の裏に“プログラミング職人”の奮闘があった
2023年5月、広島で行われた先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、ある椅子が注目を集めました。各国の首脳が座った「HIROSHIMA アームチェア」です。
この椅子は、1928年創業の広島市の老舗家具メーカー「マル二木工」が製作する『HIROSHIMA』。世界的なプロダクトデザイナーである深澤直人さんと手を組み、2008年に生み出されました。ナチュラルな木肌を生かした優しい風合いで、曲線のフォルムが美しい、温もりを感じられる一脚です。
価格は124,300円からと、なかなか高価な価格帯ではあるものの、
「肌触りが良くて、座り心地がいい」
「座った時のフィット感がたまらない!」
「値段以上の価値がある」
と、愛用者から喜びの声が上がっているそう。
G7サミットで使用されたのは、特注の円卓と「HIROSHIMA アームチェア」。国の家具メーカーからコンペ形式で選定されました。
このアームチェアの開発に大きく貢献したのが、今年66歳になる末広健二さん。現在、広島市の山あいにあるマル二木工の工場でダイニングチェアのプログラミングを担っています。
創業当時からマル二木工は、広島県で伝統的に盛んだった木工芸のクオリティを保ちながら、機械の力をいち早く取り入れてきました。設計、プログラミング、機械加工、手作業による仕上げ……。どれも無くてはならない工程です。なかでもプログラミングを担う末広さんは、椅子を機械で削るための5軸のCNC機(数値制御装置)をまるで生き物のように自由自在に操り、社内では「職人技を数値化する職人」と呼ばれています。
末広さんは、G7サミットで首脳陣が椅子に座る姿をテレビで見て、思わず胸が熱くなったと言います。
「私にとって『HIROSHIMA アームチェア』は、自分の子どものような存在です。まるで子どもが世界に認められたような、誇らしい気持ちになりました」
Apple本社が導入した椅子、世界に羽ばたく
「HIROSHIMA アームチェア」は、G7サミットで注目を浴びる6年前の2017年秋、米カリフォルニア州クパチーノにあるアップルの本社「Apple Park」のカフェテリアに、マル二木工の「HIROSHIMA アームチェア」が数千脚ほど並びました。世界のトップ企業がこの椅子の良さを認めたのです。
いったいなぜ、世界で広島県の家具メーカーの椅子が広まったのでしょう? その理由を、末広さんはこのように語ります。
「『座ってもらえば、絶対にいいと分かってもらえる』と思っていました。ただ、発売当初はたくさんの人に知ってもらう手段がありませんでした。でも、『この素晴らしい椅子を海外に伝えたい』と言ってくれる人がいたおかげで、世界中に広まったんです」
その人とは、海外の家具を輸入する商社に勤めていた広島県出身の男性のこと。「HIROSHIMA」のシリーズを知り、2009年にマル二木工の社員になりました。
彼の商社マン時代の経験や人脈を活かし、イタリアで開催される世界最大規模の家具見本市の「ミラノサローネ」に出店。その後、アップルからの椅子の注文が入ったのです。現在、マル二木工の家具は世界30の国と地域で71店舗のインテリアショップに展開中。「技術者だけでは、ものの良さって伝わらないですからね」と末広さんは言います。
今年で勤続47年の末広さん。高校卒業後にマル二木工に入社し、椅子張り専門の職人としてスタートしました。34歳の時、趣味のプログラミングの技術を買われ、ダイニングチェアを製作するプログラミング部門へ。機械では難しいとされていた椅子の加工方法を考案し、「HIROSHIMA アームチェア」を完成させます。バブル崩壊後の不況で一時は倒産の危機が迫っていたマル二木工でしたが、この椅子で一筋の光が差し込みました。
今や世界にも名が届いている「HIROSHIMA アームチェア」ですが、開発までには多くの時間と職人たちの葛藤があったと言います。「みんなの連携がなければ、椅子の完成はなかったですね」と語る末広さんに、今までの道のりを聞きました。
ブロック好きな少年、家具づくりに目覚める
1957年、末広さんは広島県の最西端に位置する大竹市で生まれました。「物心ついてから今まで、広島を出たことがないんです(笑)」と、末広さんは笑顔で語ります。
「子どものころはブロックを使って飛行機や車を作るのが好きでしたね。今思えばですけど、3次元的なものの見方ができるようになったのは、その影響かもしれません」
地元の小・中学校に通い、廿日市にある宮島工業高校のインテリア科に進学。当初はデザインの勉強をしたいと思って入ったのですが、授業のほとんどは家具づくりの基礎を学ぶ内容でした。「あれ?思っていたのと違う」と感じるも、もともと何かを作ることが好きだった末広さんは、リビングで使う棚などの家具製作に没頭していきます。
高校卒業を控えた1976年、学校の先生からのすすめでクラスメイトとともにマル二木工への内定が決まります。同社は約240名がはたらく広島県の老舗家具メーカー。入社した末広さんが配属されたのは椅子に布地を張る仕事でした。
「椅子張りは初めての経験で、先輩に教わりながら覚えました。入社した時は景気が好調で、会社全体で年間数100億円くらい売り上げていたんですよ。本当に忙しかったですね。ベルトコンベアに製品がどんどん流れてきて、ひたすら椅子に生地を張る作業を繰り返す日々でした」
15年の月日が流れ、末広さんは「椅子張りの仕事はもういいかなぁ……」と思い始めます。ちょうどそのころ、日本ではパソコンが一般の人でも購入できるようになっていました。とはいっても、当時は一台50万円ほど。ポンッと買える代物ではありませんでしたが、興味が湧いた末広さんは貯金を使ってNECのPC-9800を購入。使っていくうちにハマっていき、簡単なプログラミングなら自分で組めるようになっていきます。この時、まさか趣味で始めたものが人生をかける仕事になるとは、末広さんは夢にも思いませんでした。
椅子張りから、プログラミング担当に選ばれた!?
1992年ごろ、マル二木工ではより精度の高い複雑な加工ができるよう、数値制御装置を導入していました。あらかじめ機械に加工プログラムを入力し、同じものを精度よく製作する方法を取り入れていたのです。
ある日、プログラミングに夢中だった末広さんは、会社の労働組合で使用する資料の一部を自動で変えられるプログラムを作り、組合員たちに喜ばれます。「お遊び程度の内容でしたけどね」と末広さんは謙遜しますが、この行動が人生を大きく変えることに――。
組合のメンバーの1人に機械を扱う担当者がおり、「知識のある彼に来てもらえないだろうか?」と、末広さんに白羽の矢が立ったのです。1992年の春、34歳の末広さんはCNCプログラムを扱う部署へ転属し、ダイニングチェアを担当します。
「話をもらった時、『自分の好きなことを仕事にできるなんて、(ガッツポーズをしながら)やった!』って感じでしたよ。CAD(コンピューター支援設計)を使って家具の設計図を描くのですが、もう楽しくて楽しくて……。設計する椅子が画面上で立体的にぐるぐる回るわけです。まるでおもちゃをもらった気持ちでしたね」
開発部門がデザインした椅子を、コンピューターを使って次々に形にしていく末広さん。けれど、そのころにはバブル崩壊の影響を受けて、家具がどんどん売れなくなっていました。新製品を作っても、ほとんど市場に出ないまま生産終了に……。その後、会社の業績は悪化して毎年赤字になり、数回に分けて100人規模のリストラを余儀なくされました。末広さん自身は解雇の対象になりませんでしたが、「苦しい時期でした」と振り返ります。
「私は少し手話ができるのですが、ある時ろう者の社員が解雇されることになって、人事部から通訳を頼まれたんです。できれば言いたくないですよね。でも言える人がほかにおらず、伝えなければならないことがすごくつらかったです」
ともにはたらく人たちとの別れに胸を痛めながら、末広さんは仕事に励みました。
会社のピンチを救った「HIROSHIMA」
2004年、業績が傾く中でなんとか一手を打とうと、「ネクストマルニプロジェクト」が立ち上がりました。この企画は世界の先進的なデザイナー12人に椅子をデザインしてもらい、マル二木工が製作するというもの。このプロジェクトで、末広さんは想像を超えるような難問にぶつかっていきます。
「今までは全部自分たちで行っていたので、ある程度やりやすいようにできたし、難しければ作らないという選択もできました。でも、今回は違いました。デザイナーは椅子作りの専門家ではないので、デザインは出来ても、強度や実用性がどうかという観点はどうしても抜けがちになってしまうわけです。なので『これ、どうやって加工するの?』『これじゃ強度不足だよ』と思うものばかりで……。でも、『やるしかない!』って、今まで以上にさまざまな角度から加工の仕方を考えましたね。私は、家に帰ってお風呂に入っている時にアイデアが浮かぶことが多くて。頭の中で部品を立体的に動かして『あ、これならいけるかも』と思ったら、次の日にすぐに試す。そうやって形にしていったんです」
当時、仕上げを行う現場の職人たちからは、反発の声もあったと言います。
「今までと同じようには作れないよ」
「時間がかかると思う」
機械では難しい手作業の部分も多く、初めての試みに懸念を示したのです。そういった職人の意見を聞きながら、末広さんは「なんとかプログラミングで解決できたら」と取り組みました。この時、末広さんは「あきらめるのではなく、不可能を可能にしたいって気持ちが沸き上がっていた」と言います。
その後、現場チームの努力が実り、12脚の椅子が完成。ただ、1脚作るためのコストがかさみ、販売数も伸び悩んだことでプロジェクトは3年で終わりました。
けれど、同プロジェクトに協力していた1人のプロダクトデザイナーとの縁がつながります。その人こそ、「HIROSHIMA アームチェア」のデザインを手掛けた深澤直人さんでした。深澤さんは精密機器から家具、インテリアに至るまで数々の商品を手掛け、アメリカやドイツなどで受賞歴を持つデザイナーです。2006年冬、マル二木工は深澤さんと再度タッグを組み、「世界の定番となる椅子を作ろう!」と開発に乗り出しました。
ギリギリまで取り組んだ「新しい挑戦」
末広さんは、深澤さんがデザインした椅子のプログラミングを担当することになりました。最も大変だったパーツは、なめらかな曲線を描く「背もたれ」でした。
「今、背もたれの加工は機械を使って一気に削り出しています。でも実は、今まで何度か調整していて、現在のやり方はバージョン3なんですよ。最初は4分割したパーツを組み合わせていました。なぜかというと、NC機械が8本の刃物しか使えず、刃物の可動範囲も狭くて、同時に加工できなかったんです。できる範囲で、最大限のことを考える必要がありました」
発売時期はすでに決まっていました。プログラミングには2ヵ月の製作期間を取っていたものの、今までに経験したことのない複雑な加工で「本当にできるだろうか?」と末広さんは悩みます。
「ちょうど製作時期に娘が海外で挙式することになっていて、5日ほど休日を取る予定でした。でも、椅子を完成させるための準備を終えてからでないと行けなくて、『何がなんでも間に合わせなくちゃ!』って必死に取り組んだのを覚えています(笑)。なんとかプログラミングを終えて、結婚式に参加しました」
帰国してすぐ、会社に出社した末広さん。工場では担当した椅子が次々と生産されていました。「できている!」と喜んだのも束の間、目を疑いました。
「よく見てみると、ひじ置きの後ろ側に2㎜ほどの角のようなものがニョキッと生えていたんです……。できあがった商品は仕方がないので、職人に修正してもらいましたが、本来なら必要のない作業ですよね。『このままでは現場に渡せない』って思ってすぐに修正に取りかかりました。最終的にはプログラミングでその角を落とせたんですけどね。たとえ数㎜だとしても、(職人としての)自分のプライドが許せなかったんです」
こうして「HIROSHIMA アームチェア」が完成。この名前は、発売間近に迫った頃に深澤さんから「HIROSHIMAという名前はどうだろう?」と提案を受けたことがきっかけでした。
当時、社内の人たちはその名を付けるべきかと悩んだそう。「HIROSHIMA」は平和の象徴である一方で、原爆の情景を連想させる言葉でもあったからです。その思いを深澤さんに伝えると、意外な答えが返ってきました。
「HIROSHIMAという名前は多くの人が知っていて、一度聞くと忘れない。これからは地方の中小企業が海外へダイレクトに発信し、積極的に繋がっていく時代になる。本格的に世界へ展開していく上で、とてもふさわしいネーミングだと思います」
この言葉を受けて、マル二木工はこの椅子を「HIROSHIMA」と名付けることに決めたと言います。
2008年2月、自社のショールームや全国の百貨店で発売されました。アームチェアは個人客から徐々に人気を集めていったそう。「苦労して準備してきたんでね。完成した時は本当にうれしかったです。デザイナーの深澤さんも褒めてくれました!」と末広さんは振り返ります。
その後、加工方法を改善。2013年にはバージョン2として、ある程度組みあがった木材から削る方法を試みます。翌年1月、5軸加工が可能な機械「7000U」を導入。この機械は幅・奥行き・高さの3次元空間をプログラミングで設定し、16本の刃物を使いながら木を削ることが可能になりました。
これにより、背もたれをそのまま削り出す方法になり、発売当初は40分ほどかかっていたCNC機械の行程が半分に短縮されます。月40脚だった生産能力は、10年で600脚まで高まりました。生産数が上がるのと比例して、椅子の販売数も増えていったのです。
定年を迎え、再雇用。見据えるのは「次なる担い手」
『HIROSHIMA』シリーズの発売以降、マル二木工は減収に歯止めがかかり、日本では住宅メーカーやインテリアショップでの販売が増加しました。2013年には黒字化し、前述のとおり、同シリーズはさまざまな機会を得て世界中で注目を集め、発売前はゼロだった海外販売が全体の1割を超えました。
現在、末広さんは一度定年を迎え、再雇用という形ではたらいています。これから挑戦したいことをこのように語りました。
「新しい3DのCADソフトを導入する動きがあるので、早く覚えたいなと(笑)。ただ、さすがに物覚えもだんだん衰えてきましたし、後輩に伝承していくことが自分の仕事だと思っています。彼らが独り立ちするまでは、ここで面倒を見るつもりです」
会社が前途多難な状況だったとしても、「辞めようと思ったことは一度もない」と末広さんは言います。
「仕事をおもしろがってやっていたからだと思います。遊びの延長……と言ったら不謹慎かもしれないけれど、苦痛だったら続かないですから。どんなプレッシャーや困難があっても、乗り越えるのが楽しかった。『HIROSHIMA』はそういった思いが集まって生まれたんです」
(文:池田アユリ 画像提供:マル二木工)
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