消防士から芸人へ!TBS「ラヴィット!」で話題の青木マッチョとは

2025年1月29日

「吉本芸人一のマッチョ」として注目される、お笑いコンビ・かけおちの青木マッチョさん。マジカルラブリー・野田クリスタルさん発案のパーソナルジム「クリスタルジム」のトレーナーとしても活動する、異色の若手芸人です。

元々消防士だった青木さんは、24歳の時に消防署を辞めて芸人の道へ。「目立たないようにしていた」学生時代を経て、どのような考えのもとキャリアを選択し、現在に至るのでしょうか。半生について話を伺いました。

ワースト2位からベスト2位になり、見えた現実

──まずは青木さんの幼少期について聞かせてください。小学校時代をどう過ごされていましたか?

とにかくインドアなタイプでした。何かに秀でているわけでもなく、身長も小柄で痩せ型。教室でひっそりと過ごす「空気」のような存在だったと思います。

小学校2年生くらいまでは、普通に過ごしていたんです。でも3年生の時に一回だけ、ランドセルを家に忘れたことがあって。手ぶらで学校に来たことをクラスメイトにイジられたのが恥ずかしかったんですよね。そこから「目立ちたくない」と思うようになりました。

──では、現在のように表舞台に立つことへの興味は……。

少なくとも小3の時点では、まったくありませんでした。

ただ中学1年になってから、これまたひっそりとドラムを始めたんです。1人で演奏動画を録っては、YouTubeにアップしていました。対面で注目されることは苦手だったけど、どこかしらで「目立ちたい」という欲はあったのかもしれません。

──体を鍛えることへの関心は、いつから芽生えましたか?

同じく中1からです。実は中学に上がるまでに劇的な成長期があって、中1の時点で身長180cmあったんですよ。でも体重は56kgとガリガリの体型だったので、不良からすれば「ちょうどよく目立つ、勝てそうな獲物」でした。

しかも1歳上の次兄が校内でも目立つ存在で。「あの青木の弟」として悪い先輩に絡まれることがあまりにも多く、誰にも言わずに淡々と市民体育館のジムに週3日くらいの頻度で通い始めたんです。学校から帰り、着替えてすぐジムに行く日もありました。

──そこから筋トレが楽しくなっていったのですか?

楽しいというか、やるしかないという感じで。ストイックなことは好きじゃないんですけど、なぜだか辞められない。それなのに全然筋肉もつかなくて、ただただきついだけでした。

筋トレをしていることをクラスの誰に話すわけでもなく、もくもくとジムに通っていましたね。

──部活には入っていたんですか?

小4の時に体育の先生からハードル走を褒められたことがあって、それがうれしくて中学では陸上部に入ることにしました。

実は進学した中学は、たまたま陸上の強豪校で。部員が100人いる中、入学時点では50m走の記録が下から2番目だったんですよ。でも最終的にはハードル走の記録で100人中2番目まで上り詰めたので、頑張っていた方だと思います。

──下から2番目が上から2番目になるなんて、すごいですね。

我ながらのめり込みやすいタイプではありました。自主練はもちろん、図書館で速く走るためのメカニズムを調べたり、走っている時の姿勢を動画撮影してフォームのチェックをしたりしていたんです。

ただ、同時に「本物には勝てない」現実を突きつけられたのも中学の時。当時のぼくは記録を伸ばすために過度な減量を重ね、拒食症になりかけていました。そこまで頑張ったのに、ハードル走が1番の人には勝てなかった。

勉強した身からすれば、彼のフォームはめちゃくちゃなんです。たくさん練習している感じでもなかった。それでも速かった。努力をしても天才には勝てないということを、中学生の時に悟りました。

部活も勉強も上手くいかない「絶望」の高校生活

──元々ストイックな性格だったんですか?

むしろその逆ですね。今でも常に「楽をしたい」と思っています。でも、結果的にストイックになってしまうんです。勉強も中学まではクラスで1位をキープしていましたし、高校も進学校へ入学しました。

ただ中学で勉強も部活もストイックに打ち込んでいたぶん、高校ではしんどいことを全部やめようと思っていました。モテそうな軽音部に入って楽しく3年間をすごそう、そう思って入学式を迎えたんです。

──では、高校では華の学生時代を過ごされたんですね。

それが地獄の3年間でした(笑)。入学式当日、学校の正門でラグビー部の先輩たちが待ち構えていたんです。突然ボールを投げられたのでキャッチしたら「すげえな」「天才だな」「筋肉すごくない?」って囲まれてチヤホヤされて。

……今考えると騙されましたよね。体験入部では優しかった先輩たちも、正式入部になった途端に厳しくなりました。

強豪校というわけでもなかったのですが、先輩や同期には中学時代から活躍しているレジェンド級の選手たちが集結していて、彼らについていくのが必死でした。そこでも自分のストイックさからは逃れられなくて、筋トレや練習に励むようになります。

──でも青木さんのことだから、陸上部時代と同様に活躍できたのでは?

身長の高さに加えて、足も速く、筋肉も仕上がっていたので、1年の時からレギュラーに選ばれて、県のベスト8までは進出できました。

ただボールのパス回しやハンドリングが本当に下手で。下手すぎて、自分1人だけ朝練をやらされていましたから。それなのに試合には出るよう言われて、でもずっとコーチや先輩に「青木!」って怒鳴られ続け……。常に「いっそ俺を選手から外してくれ」と思っていましたね。

ラグビーの練習がしんどすぎて勉強にも手が回らず、成績も一気に落ちました。クラスでも目立たないし、文字通り「絶望」の高校生活。大学進学ではなく就職を選んだのも、それが理由かもしれません。

──絶望の高校生活が、進路とどう結びついたんですか?

いわゆる「陽キャ」の人たちが楽しむキャンパスライフの中では、陰キャな自分は苦しむことが目に見えていました。

それで進路に悩んでいたとき、長兄の同級生が高卒で消防士になったと耳にしたんです。本人に話を聞いているうちに「自分に合っている」と考え、公務員試験を受験しました。晴れて合格し、高校卒業後は消防士としてはたらくことになります。

消防士としての生活と「楽しめない」ことへの葛藤

──なぜ消防士のお仕事が自分に合っていると感じたのですか?

「筋トレを続ける意味があるよね」と自他ともに納得できるような仕事に就き、はたらきながら体を鍛えたいと思っていたんです。もはや消防隊員としての道しか考えられなくなり、面接対策や願書の準備などすべてを自分で進めました。

1日15時間は公務員試験の勉強をしていたと思います。結果的に成績は体力試験の垂直飛び以外1位を取れて。成績上位者が配属される消防署に配属され、1年目からレスキュー隊員としてはたらき始めました。

──いわゆる「期待の新人」だったのですね。

でも周囲の期待とは裏腹に、現場では足を引っ張っていました。もはやラグビー部の時と一緒ですよ(笑)。

強いて「自分がこの仕事に向いている」と感じたポイントがあるとすれば、体が丈夫だったことです。火災現場で瓦屋根が崩れ、瓦が降りかかったことがあったんです。それでも無傷で生還できた時は「青木だったから大事に至らなかった」って上司から褒められました。

──消防署には何年間勤務されたんですか?

6年間勤め、24歳の時に退職しました。単純に楽しくなかったんです。毎年異動があってチームが変わるのですが、最後の年だけは優しいチームメンバーに囲まれ、仲良く活動できたと思います。それでも仕事中の時間がしんどく、辞めるタイミングを探っていました。

──退職を決意する明確なきっかけは?

2人の兄が結婚して子供を産み、マイホームと車を買ったんです。親がうれしそうにしている様子を見て「俺はもう親を安心させなくてもいいな」と思いました。そんな時、ちょうど痔ろうで入院することに。入院前日に「辞めます」と伝えたら、病院に逃げ込める。辞めるなら今だ、と。

ありがたいことに引き止めてくれる上司や、涙を流して悲しんでくれる同僚にも恵まれました。でも、決意は固かったです。給料も減って良いし忙しくなっても良いから、何か楽しいと思えることをやろうと決め、消防署を後にしました。

「売れたい」より「楽しみたい」を優先したら体が動いた

──退職後、どのように「芸人になる」という選択肢へとたどり着いたのでしょうか?

最初は「旅行」や「映画」が好きだったので、「パイロットか映画俳優はどうだろう」なんて考えていたんです。ただいずれも年齢的に厳しく、今から始めるには遅すぎました。

考えた末にたどり着いたのがお笑いです。小学校の頃からお笑いを観るのは好きでしたし、やはりどこかで「目立ちたい」欲が潜んでいたんでしょうね。そう進路を決めてすぐ上京し、部屋を借りました。

キャラづくりのために、入学前の1年間は都内でバイトしながら筋肉を育てることに集中。消防士時代は「体がでかいのに元気がない」と怒られ続けていたので、それを強みにしたら面白いと思ったんです。

そして2020年4月、吉本興業の芸人養成所であるNSCに入学しました。

──決断してからの行動が早いですよね。「成功しなかったら」という不安はありませんでしたか?

仮に売れなくてもフリーターという選択肢がありますから。生活はどうとでもなるだろうと考えていました。

何より「楽しければ良い」というマインドで動きだしたのが良かったのかな、と。もし「売れたい」という気持ちを優先していたら、一歩も踏み出せなかったと思います。

あとは、お笑いの道に飛び込んで早々に成功体験があったことも大きいかもしれません。NSC大阪校・東京校合同で特技披露をする機会があったんです。

構成作家の先生たちも10人くらいが審査に参加する、結構大きめのイベント。そこでカリンバという珍しい楽器を演奏する動画を提出したらすごくウケて、生徒全体で評価1位を獲得しました。

最初は「楽しければ」という気持ちでしたが、徐々に「全国から面白い人が集まる場所で1位を取れるのなら、本腰を入れたほうが良いかも」と感じるようになってきました。

──「空気」だった小学校時代のエピソードから振り返ると、今のお笑い芸人としての活動はご自身でも想定外だったのでは、と思います。

確かに「お笑い芸人になろう」なんて考えたこともありませんでした。いまだに私生活のおとなしさは変わらないし、自分から前に出なければライブでも「空気」のままです。

ただテレビの収録現場に立つと、自分の奥底に潜んでいた「目立ちたい」欲が前面に出ることがあります。

やっぱりウケた瞬間が一番楽しい。ハードル走を褒められた時よりもうれしいです。だって「ウケる」って1対1じゃなくて、不特定多数にリアクションをもらわないと成立しませんから。レスポンスの量に違いがあるからこそ気持ちが良いです。

今後は「面白い」と思われるだけじゃなく、幅広い仕事をしていきたいです。具体的には音楽やソロキャンプ、バイクあたりでしょうか。学生時代にチャレンジメニューを巡ったりもしていたので、大食いもいけるんですよ。

正直な話をすると、全然稼げてはいないし生活はキツいです。でも、楽しくやれています。

(文:高木望 写真:小池大介)

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ライター高木 望
1992年、群馬県出身。広告代理店勤務を経て、2018年よりフリーライターとしての活動を開始。音楽や映画、経済、科学など幅広いテーマにおけるインタビュー企画に携わる。主な執筆媒体は雑誌『BRUTUS』『ケトル』、Webメディア『タイムアウト東京』『Qetic』『DIGLE』など。岩壁音楽祭主催メンバー。
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