年収1,500万アパレル部長→株で全損→40歳から修行で”19時間待ち”の尼崎市ラーメン店主に。
スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。
今回取材したのは、兵庫県尼崎市にあるラーメン店「ぶたのほし」店主・髙田景敏さん。髙田さんは40歳で飲食の世界に飛び込み、50歳でぶたのほしを開店しました。ふたのほしは平日でも開店前から行列ができ、最長19時間待つお客さんもいるのだとか。人通りが多いとはいえない場所にありながら、その一杯を求める人が途切れません。
前職では年収1500万円のアパレル部長を務め、そのあとはデイトレーダーとしてはたらきましたが、リーマン・ショックで多くの資産を失い、死が脳裏をよぎるほど生きる意味を見失ったと言います。そこからあることがきっかけでラーメン屋「無鉄砲」で修行を始めますが、実はラーメン屋ではたらき始めてから約9年間、「自分のお店を持ちたい」と思ったことがなかったそうです。
髙田さんはなぜお店を開くことを決意したのか。長い年月をかけて多くの経験をしてきた髙田さんが見つけた「はたらく」本質とは。髙田さんのこれまでの歩みとともに、お伺いしていきます。
お金がすべてだったぼく。今の目標はお客さまを元気にすること
──まず、髙田さんがラーメンに惹かれていったきっかけを教えてください。

ラーメンを意識して食べるようになったのは、大学に入ってすぐですね。下宿先の近くに神戸発祥の有名なラーメン店があり、それを最初に食べたとき衝撃を受けました。強烈な醤油の味と醤油臭さがあって、おいしくて、びっくりしましたね。夜になったらいつも、そのラーメンの味が恋しくなっていたのを覚えています。
そこからラーメンの虜になって、社会人になったあとも毎日ラーメンを食べ歩いていました。
後に修行することになる「無鉄砲」と出会ったのも、社会人になってからです。職場の近くに無鉄砲があり、そのおいしさに魅了されました。無鉄砲のラーメンは「人生で最も多く食べたラーメン」と言えると思います。
──今はラーメン屋の店主ですが、過去には年収1,500万円の部長やデイトレーダーとしてはたらいていたと聞きました。当時、「はたらく」ことに対してどんな考えをお持ちでしたか?

お金が欲しいから、はたらく。今とは真逆の考えでしたね。
ぼくの父は、一度は裕福になったものの、最期には多額の借金を抱えて亡くなってしまって。残された家族が苦労した姿を見て、「お金があれば幸せになれる、なければ不幸になる」と思い込んでいたんです。実際、若いころは稼いだお金でハワイに行ったり高級品を買ったりと贅沢もしました。
けれど今は、お金は結果でしかないと考えています。お客さまを愛し、期待を超えることに集中すれば自然とお金や結果はついてくるんです。
それに、「もう必要以上のお金はいらない。社会に貢献したい」という想いがあって。ラーメンで稼いだお金以外の、店の物販の売り上げや講演会に呼んでいただいた際の出演料などはすべて尼崎の児童養護施設に寄付しています。
──ラーメン屋の店主になった今は“お客さまを喜ばせるため“に、店内・店外を8時間もかけて掃除されているとほかの動画で拝見しました。
期待を裏切りたくないんです。うちの経営理念は「ラーメンを通じて、すべての人を元気にする」ことで、ラーメンを売ってお金を得ること自体は目的ではありません。
すべての人を元気にするためには、お客さまを愛すること。そのためには、営業時間を延長して稼ぐのではなく、まずお客さまを迎え入れる場所を徹底的に心地の良い居場所に整えるべきだと思っています。明日も来たいと思ってもらえるように、店内もピカピカにするし、店に来るまでの道でもがっかりさせたくないから、店外のゴミ拾いも欠かしません。
最初は起床時間が6時だったんですが、仕込みだけじゃなくて掃除にも力を入れていたらどんどん時間が足りなくなって。今は起床時間を4時45分に固定して、毎日しっかり時間をかけて店を整えています。これがぼくなりの、お客さまへの愛の形です。
年収1,500万円→時給850円・毎日睡眠2時間の壮絶な修行へ
──髙田さんが、若いころからここまではたらくことに対する価値観が変わった変遷や理由が気になります。まず、大学卒業後のキャリアについて教えてください。

大学を出てすぐは、友人と化粧品の事業を始め、その延長で携帯電話の販売も手がけました。就職活動では証券会社から内定をいただいていたのですが、友人との事業が軌道に乗り始め、最初に100万円ほどの利益も出ていたため、就職しませんでした。ただ、若くて経験もないので事業をうまく成長させられるほどの力がなく、事業は一年半ほどで失速し、借金だけが残りました。
ちょうどそのころ、携帯販売で知り合ったアパレル会社の社長から声をかけていただき、26歳で社員として入社しました。そこには着物部門で日本一の実績を持つ営業部の本部長がいて。お客さまからの信頼がとても厚く素晴らしい方だったのですが、ぼくに対しては本当に怖かったんです。
嫌われていたのか、最初は無視されたり厳しく当たられたりもしましたが、この人から仕事で学ばないと誰も教えてくれないと思ったので、必死に食らいつきました。背中に張り付くように仕事を見て学び続け、自分の想いをしっかり伝えるようにしました。すると、だんだん自分のことを認めてくれるようになって、いろいろなことを教えてくださるように。そこから、販売や顧客づくりに対する知見が少しずつ溜まっていきました。
──そこから、どんなきっかけでデイトレーダーの仕事を始めたのでしょうか。
端的に言えば「もっと、もうけたかったから」です。
本部長の指導のおかげもあり、ぼくは29歳で営業部長に抜擢され、手取りで1,500万円を得るようにもなりました。アルマーニのスーツを着て京都の繁華街を歩くような生活を送っていましたが、それでももっとお金がほしくて。株が少しうまくいき始めたことも重なり、35歳でアパレルの会社を辞めてデイトレーダー(1日で短時間の取引を完結させ、繰り返し取引を行う投資家のこと)になりました。
ただ、この仕事は自分には向いていないなと途中からずっと思っていましたね。ゲームのように理論を理解して操作を繰り返さなければならないのですが、ぼくはどうしても相場が上がれば喜び、下がれば落ち込む。感情が上下してしまうんです。しかもお金のパイは決まっているから、誰かの損が自分の得になるという仕組みで。
お金が増える時期もありましたが、この仕事ではぼくの心は満たされず、毎日が退屈でした。結局、リーマン・ショックの影響を受けて一年かけて負け続け、最後は取り返しがつかないほどの財産を失いました。でも、最後は「これで、やっとここから抜けられる」と、不思議と安堵したのを覚えています。
──そのあと、すぐに転職に向けて動き出したのでしょうか。
いえ、すぐには動けませんでした。声をかけてくださる方はいましたが、気力が出なかったんです。欲しいものは今までで大体手に入れてきたし、もう、自分が燃えるほど追いかけたい対象が見つからない。「今ぼくが死んだとしても、妻には保険金が入る。だから死んだって良いんじゃないか」と、よからぬことが頭をよぎるくらい生きる意味を見失っていましたね。
そんな無気力な中でも、2日に一度は通っていたのが、後に修行することになるラーメン店の「無鉄砲」だったんです。
無鉄砲のラーメンは豚骨の濃厚なスープに、もちもちの麺、トロトロの自家製チャーシュー。シンプルだから美味しい。最初は自分がラーメン屋になるなんて考えもしていなかったのですが、ある日、無鉄砲で食べた一杯がぼくの心を動かしました。
「死ぬ前に一度でいいから、この一杯を自分の手で作ってみたい」という気持ちが、ふつふつと湧いてきたんです。まだ具体的にお店を出したいとか、どんな店主になりたいかとかそんな具体的なものは何も見えていなかったのですが、こんなに心が震えるほど感動できるラーメンを作る人は、どんな仕事をしているんだろうと。帰宅してすぐ履歴書を書いたのを覚えています。
──そこから、40歳のタイミングでラーメン店で修行を始めていったわけですね。
はい。当時は40歳で、時給850円のアルバイトに応募したわけです。側から見たら、常識的な選択ではなかったと思います。
でも、「ラーメンが好きで、これだけ食べ歩いてきた」「大将の背中にあこがれている」「自分もこの味を生み出したい」という想いだけで、もうぼくにはこれしかない、と背水の陣で飛び込みました。
履歴書にも、自分の想いの丈をすべて書き込みました。その想いを受け止めてくれた無鉄砲の店主は、面接後すぐに「翌日から店に来るように」と連絡をくれたのですが、入ってみると先に10人ほど弟子がいて。「ラーメンを作れるようになるまで最低5年はかかるし、甘い世界ではない」ということを伝えられました。ぼくは目の前の道がどれだけ茨の道なのかをあらためて思い知り、うろたえましたが、40歳で覚悟を決めて店に入ったのです。少しの期間で辞めてしまったら「やっぱりな」と笑われるだろうと思っていました。それに、妻の強い反対を押し切って入った手前、もうあとには引けませんでしたね。

ただ、出勤して1日目から「これは無理だ」と思いました。最初の仕事は、食器洗い。厨房の奥の狭い場所で食洗器の熱気がこもり、エアコンもまったく効かない環境で9時から22時45分まではたらき、終電で帰りました。
単身赴任生活を始めた奈良の家賃2万8千円の部屋には、ダンゴムシやムカデも出る。最初の3カ月は特にきつくて、歩きながら「このままトラックが突っ込んでくれないかな」とさえ考えるほどでしたね。
でも、できることをすべてやると決め、誰よりも動き、社員の方にやる気を見せ続けました。結果として、無鉄砲では5年いてもスープに触れられない人が多い中、6カ月ほどでスープを作る機会を得ました。
当時は深夜2時や3時に帰って洗濯と掃除をして、睡眠は2時間ほど。朝6時には出社するという、普通では考えられないほどハードな環境で。多くの人が退職していく中で自分が残ったことも、スープを作る機会を得られた理由の一つでした。ここでチャンスをつかみ取り、そのあとも努力を続けたことで、1年目で奈良県大和郡山にある無鉄砲の支店「がむしゃら」(元「豚の骨」)の店長に抜擢されました。

トイレ掃除やゴミ捨てなどの業務はぼくが行い、スタッフにはお客さま対応に集中してもらえる体制をつくり上げるなど、アパレル時代に学んだ「顧客を大切にする姿勢」を実践し続け、結果的に毎年増収増益を達成しました。
──店長時代は、どんなことをモチベーションにしながらお仕事に励んでいたのでしょうか。
最初はしんどくてたまらなかったのですが、そんな気持ちが変わってきたのは、作ったラーメンをお客さまに「おいしい」と言ってもらえるようになってからですね。時給や人間関係、どんなに理不尽に感じることや不満があっても、目の前で喜んでくれる人がいる。喜びの比重が少しずつ増えるにつれて、「しんどいな」と思っていたことが気にならなくなり、良い一杯を作ることに集中できました。
本格的にラーメンづくりに自信を持てた、ラーメンづくりの理論を分かり始めたのは7年目くらいです。
とはいえ、このころはまだ「こいつの豚骨が一番だと言わせたい」という闘争心が強かったので、今掲げているような「お客さまを元気にしたい」などという綺麗な言葉はなかった。そういう考えに至るのは、もう少し先でしたね。
──そこから、どのように「自分の店を出したい」「お客さまを元気にしたい」という気持ちに変わっていったのでしょうか。
きっかけは、48歳で交通事故にあってしまい、入院して店を休まざるを得なくなったことです。40歳から走り続けてはじめて腰を下ろし、病床で徹底的に自分と向き合いました。
「ぼくは今の仕事が天職だと思っている。じゃあ、ラーメンを通じて何がしたい?」「もうお金もうけはしなくていい」「今までもうけたりお金をなくしたりした。ぼくはラーメンを通じてお金もうけをしたいんじゃない。ラーメンを作って人を元気にするのが、ぼくの使命であり、やりたいことだ」
そうやって、手帳につらつらと自分の想いを書いたんです。
会社員やデイトレーダーとしてはたらいていたときの「ハワイだ、ディスコだ、スーパーカーだ」といった華々しい人生も、そのときは楽しかった。でも、社会に対してぼくは何ができているんだろうと。ぼく、実は一度子どもを亡くしていることもあって、社会に対する寂しい疎外感みたいなものが、いつも付きまとっていたんですよね。
でも、お客さんがぼくのラーメン食べて「美味しい、元気もらえました」と言って帰ってもらえたら、「あ、まだぼくは社会にこれで貢献できるんや」と思えるんです。
そんな気持ちも手帳に書いて、「よし、ぼくの使命はラーメンを通じて人を元気にすることだ。もうこれだけでいこう」「お金は、その後の結果でしかない」と覚悟が決まって、自分の気持ちをたしかめることができました。
そのあとに「がむしゃら」を辞め、50歳で「ぶたのほし」を開店しました。
なりたい姿を描き続け、「好きになる」ために没頭してほしい
──自分のありたい姿に向き合うことで、キャリアを切り拓くことができたんですね。ありたい姿を考える際に、髙田さんのように「誰かのため」が起点でなくても良いのでしょうか?
もちろん、自分のために目標を定めるところから始めてもいいんです。人のために目標を立てるのはもっとあとでも良い。まずは自分のためで大丈夫。
何よりも大切にしてほしいのは、少しでも良いから自分のありたい姿や、かなえたいことを定期的に振り返る時間をきちんと確保することです。ありたい姿は時間とともに変わっていきますし、日々やるべきことに追われていると、自分の声に気付きにくくなってしまいます。最初から難しいことを考える必要はありません。今の自分が何にワクワクするか、何が嫌なのか、どんな姿になりたいかを言葉にしてみてください。

人は一人ひとり、才能も背景も違うし、どんな人にだって花開くチャンスがある。ただ、それを活かすかどうかは選び方次第です。何も決めないまま時間だけが過ぎるのは、本当にもったいない。小さなきっかけで人生も仕事も変わりますよ。私も、一杯のラーメンがきっかけでした。
人生の成功は、人それぞれです。「なりたい自分になること」が、あなたの「成功」を意味し、それが幸せにつながります。人生を通してその方向に走り続け、途中の到達点を一つずつ積み重ねること自体も、きっと幸せだと思います。
具体的には、「なりたい自分」「ありたい姿」と言われて思い浮かんだ言葉を手帳や紙に書き、見える場所に置くようにしてみてください。毎日目に入れて、今の立ち位置と足りていない部分を知るために、毎日の状況を書いていくと良いです。ぼくも、睡眠時間が2時間の日でも必ず行うようにしていました。

完璧な言葉でなくても良いので毎日続けていくと、進む方向がはっきりしていきます。そして、今なりたい姿から逆算すると自分はどこにいるのか、何が足りないかが見えて、集中すべきことが定まっていくんです。
何か大きな問題が起こると人間ハラハラしてしまうものですが、「これは目標を達成する道中において、必要なことなのだ」「この先にある大きな目標を達成するためには、この課題はどう解決するべきか?」と、冷静に対処することもでき、気持ちも軽くなります。すると「しんどい」という気持ちよりも大事な自分の目標に集中でき、仕事そのものが面白くなってくる。結果としてお金もついてきやすいと思います。一度、書くことから試してみてください。
──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?
今の仕事も、今やっていることも、必ず将来どこかでつながります。ただ、点を線にしたいなら、まず目の前の仕事を好きになって、没頭してみることが必要です。
好きになれないと思っても、一度自分で「好きになる」ようにしてみる。「好き」は自動的に与えられるものだけではありません。自分で決めて、一度やり切ってみると、好きになっていくことも多い。
やり切った上で「やっぱり違う」と判断するなら方向転換をする際も納得して次の道を選べると思うので、それまでしっかりと向き合って努力してみてください。

「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆
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