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無駄な経験はない。世界のナベアツこと桂三度が落語家になったワケ
「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」のネタで日本中の人々を笑わせた芸人・世界のナベアツ。2011年に桂文枝師匠に弟子入りし、落語家へと転身。現在は桂三度として活躍しています。
1991年に吉本のNSC大阪に入学後、コンビ「ジャリズム」を結成。7年後に解散し、放送作家へ。さらに5年後、「ジャリズム」としての活動を再開する一方で、ピン芸人・世界のナベアツとして活動。一世風靡するも、41歳で落語家の道へ。
芸人としても、放送作家としても、成功をおさめてきた桂三度さん。にもかかわらず、なぜ“転職”をしてきたのでしょうか。 桂三度さんに、それぞれのキャリアを選択するときに大事にしてきたことを伺いました。
お笑いの世界でどうにかして生きていく
──芸人を目指そうと思ったきっかけを教えてください。
まったくキラキラした話ではないんですけど……。
専門学校を半年で辞めて、バイト生活をしていた21歳のときに、そろそろ就職せなあかんなと思いまして。でも、学歴も資格もない自分にできる仕事は限られている。普通の会社員のようにははたらけない。じゃあ何ができるだろうと考えたときにひらめいたのが、子どものころから好きだったお笑いでした。
それで、就職する前に半年だけと期限を決めて、吉本のNSCに入りました。あかんかったら見切りをつけて実家に帰るつもりでしたね。
──NSCに入ってからは「意外とイケルな」という手応えだったのですか?
ぜんぜん、ないです。目標も低くて、芸能界でなんとか生きていければいい、という程度。養成所時代の目標は、「吉本の劇場でレギュラーになる」というすごくちっちゃい目標でした。
ほかにできる仕事はないし、お笑いが好き。なんとかこの世界で生きていくために、何が何でもしがみついて離れないつもりでした。
売れれば売れるほど、自分の実力との差が開いていくジレンマ
──養成所卒業後に「ジャリズム」を結成し、7年間活動していました。そのときは、どういう気持ちだったのですか?
やるからにはある程度の収入はほしい。ある程度の地位もほしい。だから、一生懸命やりました。自分が天才ではなく、非力なエンジンしか持っていないことに気付いたので、努力しました。大げさではなく、24時間お笑いのことだけを考えていましたね。
関西方面ではかなりの知名度を得られたと思います。でも、売れれば売れるほど、自分の実力との差が開いていくような気がして。
──自分が思っていたよりも売れてしまった、と。
周りの人から見たら成功しているように見えたかもしれません。でも、自分としては地に足がついていない感じがありました。「なんとかしなければ」と思いつつもどんどん売れていくので、ジレンマは大きくなるばかりで。
──29歳のときにコンビ解散をしたのは、どんな理由があったのでしょうか?
一言で言うと、東京進出に失敗したんです。
スケジュールが真っ白になって、相方の山下君が「こんなの大人のスケジュールじゃない」と嘆いていましたね。
当時、1990年代後半のころは、30歳までに全国区で売れていないとその芸人はもうダメ、という雰囲気がありまして。山下君から「解散したい」と告げられました。僕も東京進出の失敗で自信がなくなってしまい、解散を受け入れたんです。
自分のカンを信じて、放送作家の道へ
──その後、放送作家の道を選んだのはなぜですか?
お笑いの世界から離れるつもりはなかったんです。解散して、これからどうしようかと考えたときに思い浮かんだのが、放送作家でした。
東京進出のときは、自分のカンを裏切って失敗しました。僕の中では「今じゃない」と思っていた。でも、「このタイミングで東京に出ないと、痛いやつだと思われるな」と、流されてしまった。
だから、「これからは自分のカンを信じよう」と決めまして。周りにどう思われてもいいから、やりたいことをしようと思って放送作家になりました。
──放送作家として成功する自信は……?
ありませんでした。当時は、作り手がどんなことを考えているのか知りたいという気持ちで、テレビの勉強をさせてもらうつもりでした。コンビを組んでいたときに感じていた地に足がついていない感じ、イメージだと2cmくらい浮いている状態ですかね(笑)。これを埋めるためには放送作家の経験が必要だと思ったんです。
最初はピン芸人と放送作家の二足のわらじを履くことを考えましたが、すぐに放送作家は甘い世界じゃないとわかって、芸人の活動はお休みすることにしました。
2回目の解散の危機。焦りから生まれたピン芸人・世界のナベアツ
──放送作家として5年活動し、人気番組を担当していた中で、再び芸人として活動を始めました。
当時、「M-1グランプリ」の影響力がすごくて。決勝に出られたら知名度が上がって、今後の芸能活動もなんとかやっていけるんじゃないかと山下君とまたコンビを再結成したんです。でも、まったくうまくいかず……、出場した3回とも準決勝止まり。結成15年以内という「M-1グランプリ」の出場資格もなくなり、「このまま2回目の解散はかっこ悪すぎる」と焦りました。
なんとかせなあかんと思って「R-1グランプリ」に出場したんですよ。それが、ピン芸人・世界のナベアツとして活動を始めるきっかけだったんです。だから、まったく希望に満ちたはじまりではなかったんです。
──芸能界で生き残るために世界のナベアツが生み出されたんですね。当時、日本中で話題になりましたよね。
一発屋って、すごいですよね。地方のおじいちゃん、おばあちゃんまで僕の名前を知ってくれていましたから。
売れてよかったのは、自分がテレビで見ていた一流のプレイヤーの仕事を間近で見られたことですね。売れていなかったらこの経験はできませんでした。
一流の人たちと仕事したいと思ったら、自分のポジションを上げなければいけない。これは、どの仕事でも共通することだと思います。
業界のトップで活躍する人たちは圧倒的なスキルを持っていますし、持っているエンジンがそもそも違います。その方たちと仕事する中で、自分にはまだまだ足りないものがあると気がつきました。エンジンをカスタムしないと、海外の高級車のようなエンジンを積んでいる彼らには太刀打ちできません。
一緒の舞台に立ち続けるためには、自分をカスタマイズし続けなくちゃいけないと思ったんです。
一流の人たちとこれからも仕事をするために、遠回りでも新たな道へ
──そこから、今度は落語家になろうと思ったのには、どういう背景があったのですか?
もともと芸人になるとき、芸能界にしがみついて生きていければいいくらいにしか思っていませんでした。そういう意味では、いずれブームが去っても、芸能界の2軍で細々とご飯を食べていくことはできるとは思っていました。
でもな、と。20代のころに感じていた地に足がついてない感じはだいぶおさまったものの、まだ何cmか浮いてる感じがありまして。
それで、ここでも結局カンなんですけど。遠回りでも落語家をやることが、自分の理想とする良い芸人であったり、良いテレビタレントになることにつながるような気がしたんです。
──落語にはもともと興味があったんですか?
これがまったくなくて。29歳のときに放送作家になったときも、選択肢としては落語家も考えたんです。でも、それも何で思いついたのかわかりません。好きとか嫌いではなく、もうカンだけで。自分には向いてないかも知れないと思いながら、桂文枝師匠に入門しました。
以前、笑福亭鶴瓶師匠にこの話をしたら、「それでええで。そのカンを大事にしーや」と言っていただけたので、ほっとしましたね。
──41歳で落語の世界に飛び込んだわけですが、テレビの世界との違いは感じましたか?
全然違いますね。41歳で弟子修行を始めたので、収入も大きく減りましたし。メンタルを保つのは大変でしたね。ただ、師匠に付くときは一生懸命、ひたむきにやろうと決めていました。
つらいと感じたときは、「今、『弟子修行』というゲームをしているんだ」と思っていました。師匠に怒られなかったらステージクリア、師匠が次にする行動を予測して先回りで準備できたらボーナス点が入る、みたいな。
ゲームだと思えばきつい仕事も楽しめる気がしませんか?これ、ぜひみなさんにもおすすめしたいです。
最初のころはしんどかったですが、自分が選んだ道ですから後悔はありませんし、幸せです。
──落語家になって、自分に足りなかったものは見つかりましたか?
そうですね。落語って、一人で座布団に正座して、扇子は使いますが話芸だけですべて処理しなければいけないんです。テレビの世界はチームプレーなので、僕がスベってもみんなが助けてくれます。でも、落語は一人ぼっち。この厳しい状況に自分を追い込んで笑いを生み出していくという経験は、学びがたくさんあります。
無駄な経験はない。これまでの経験を深掘りすれば自分だけの強みになる
──芸能界での仕事に限らず、40歳を過ぎて新しい挑戦するのは勇気がいると思います。怖さはなかったのでしょうか?
恐怖しかないですよ。言うのも恥ずかしいですが、1年くらいは怖くて泣いてる日も多かったです。「なんでこんな苦しい道に行こうとしてるねんやろう」って。
誰でも新しい挑戦をするのに多少の恐怖心があるのは当然だと思います。
──新しい世界に挑戦することで得られるものはなんですか?
新しいことに挑戦するときは、今までの経験がゼロになってしまうと思う人が多いかもしれませんが、無駄になる経験なんてありません。これまでに経験してきたことを応用して深掘りしていけば、新しい世界で活かせることはたくさんありますし、それが自分の強みになると思います。
僕の場合は、芸人をする中で、自分から何かを発信する勉強をさせてもらいました。放送作家をする中で、0から1を生み出す勉強をさせてもらいました。1を10にするスキルも、テレビの現場で学びました。
こうした経験があるから、落語家の台本を見たときにも「なんでこの4行があるんだろう」「最後のオチを活かすために必要なのか」と書き手の意図を思い浮かべることができる。だからこそ、同じ古典落語の同じセリフであっても、最後のオチの1行だけは書き手の意図をくんで他の人と違う言い方にしてみよう、という工夫もできます。
──最後に、今後の展望をお聞かせください。
落語家としての目標は、入門から20年目でお客さんから「桂三度の落語、まあまあ聞けるようになったな」と思ってもらうこと。30年目で「桂三度の落語、めっちゃ面白い」と思ってもらうことです。
タレントとしての具体的な目標は、今は話せないけれど、一流の本当に面白い人たちと一緒に仕事できるようになることですかね。落語家としても、芸人としても、ゴールまでの道のりは、まだまだ長いです。
(文:村上佳代 写真:玉村敬太)
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