取扱説明書からアイドル、AIまで…… マニュアル制作のプロが語る「正しく伝える」流儀
商品の取扱説明書、あるいは職場の業務マニュアル。世の中にはありとあらゆるマニュアルが存在しています。
どこか「地味」な印象のあるマニュアル。しかし、その裏側には、私たちの知らない世界が広がっていました。
今回はマニュアル制作の専門会社「FINTECS」の中丸貴仁さんに、奥深きマニュアル制作の世界について語っていただきました。
マニュアルとは「つまらない」もの
誰が、どこから読んでも、理解することができる。「面白い」よりも「正しく伝える」ことに特化した世界──。「マニュアル制作」のポイントはどこにあるのでしょう。
「マニュアルを読みたい、読むのが楽しいという人はおそらくほとんどいらっしゃらないと思います。マニュアルとは『つまらなく』作られているものなんです。
小説のようにエンターテイメント性を追求する文章表現とはまったく異なるものであり、たとえるなら、マニュアルは規格化された工業製品のようなもの。
もっとも重要なのは、読み手の立場になり、誰もが同じように理解できる文章を書くことです。極端な話、それ以外の要素は捨て去ってしまいます」(中丸さん)
読み手が想像できる余地を残したり、あえていろいろな解釈ができる表現を使用したり。そういったクリエイティブな表現とは対局にあるマニュアル制作。そこには徹底したルールが存在します。
「たとえば『美しい』『きれい』というような形容詞は、受け手によって解釈が異なるのでマニュアルには使うことをお勧めしません。『汚れがあったら拭き取ります』なんて表現も使わないようにしますね。汚れの解釈は人それぞれです。汚れの基準になる写真を載せて解釈の違いが生まれないようにします。
『◯◯です』『◯◯です』のように文章の規格を揃えるのも特徴かもしれません。同じ意味を伝えたいのに『◯◯しましょう』『◯◯してください』のように変わっていると、その違いに何か意図があると解釈することもできますよね。
当社の中では一文一義とよく言いますが、一つの文章で一つの意味にしか取れないように書くんです。
また、マニュアルは欲しい情報が書いてある箇所だけを探して読むことも多いため、文章の一文だけを読んでも理解できるように気を付ける必要があります」(中丸さん)
作れないマニュアルは、ない
FINTECSでは、商品の取扱説明書のような「操作マニュアル」のほか、人の行う作業を体系化した「業務マニュアル」の制作も行います。「作れないマニュアルは、ない」と語る中丸さん。
「操作マニュアル」はすでにある仕様書などの資料に基づいて制作することが多いのに対して、「業務マニュアル」は顧客企業の中で業務が体系化されていないことも多く、その場合は業務フローの見える化や情報整理の部分からコンサルティングしていくそうです。
FINTECSでは、銀行、証券会社、不動産会社、飲食店、小売店、大学、そして国民的アイドルグループのマネジメント会社に至るまで、多岐にわたる業務マニュアル制作の実績があります。
「FINTECSでは、やっていない業界はない、というくらいさまざまな業界の業務マニュアルを制作してきました。
アイドルグループの運営会社の業務マニュアル制作では、イベント興行、ファンクラブ運営、物販などさまざまな要素が絡み合い、情報を整理するのにも一苦労でした。ただ、その会社ならではのノウハウが蓄積しているのを、紐解いて体系化していく過程が面白かったですね。
たとえば、東京ドームで公演するときはどういう流れでプロジェクトを組み立てていくとか、ドーム公演が万が一中止になったときはどうするかとか、その会社でのみ使われる独自のノウハウが無数にあります。
納品するとき、クライアントからは『社員と比べても社内で五本の指に入るぐらいアイドルグループの運営に詳しい』と褒めていただきました」(中丸さん)
“つまらない”マニュアルを作る“面白さ”
マニュアル制作は一般流通する書籍や雑誌、広く公開されるWebサイトのように制作者の名前が公開されることのない、いわば裏方仕事。「地味でマニアックな仕事」と中丸さんは語ります。
「『サッカー選手になりたい』という子どもはたくさんいますが『将来、マニュアルを作るんだ』という子は滅多にいませんよね。社員の多くは『マニュアル制作をしたい』という情熱を持って入社してきたわけではありません。
でも、やってみると面白いこともあるんです。業務マニュアルはあらゆる業種・部署に存在しているため、私たちのクライアントも企業の経営戦略室や、管理部門、営業部門、人事部門といったようにさまざまです。
すると業界ならではの情報に触れることができますし、あらゆるビジネスモデルを隅々まで知ることもできます。
以前、工場の機械の操作マニュアルを制作したことがありました。ほかの機械にグリースを差すための機械なのですが、これがないと工場が回らなくなる。そこにはさまざまなノウハウがあり、『こんな世界があるんだ』とワクワクしました。
これまで知らなかった世界との出会いは、マニュアル制作の面白さだと思います」(中丸さん)
マニュアルが企業の生産性を向上させる
中丸さんは業務マニュアルの必要性について次のように語ります。
「今、多くの企業で若手社員の離職が課題になっています。その中には若手社員が上司や先輩から怒られたことにショックを受けて離職するというケースもあります。でも、話を聞くと、先輩によってそもそも指示の内容に齟齬や矛盾があったりするんです。
結局、何が正しいのか会社で定まっていない中で、それぞれが属人的な判断で若手社員に指示を出している。若手社員からしてみれば『何が正しいの?』と思いますよね。旧来から言われる『仕事を見て覚える』という考え方も同じようなストレスを若手社員に与えかねません。
さらに、最近はコロナ禍でリモートワークが普及したことで、『仕事を見て覚える』ということも難しくなりました。それにより社員教育や情報伝達の方法に頭を悩ませている年配の方も少なくありません。
しかし、マニュアルがあれば、若手社員は自己学習することができ、マネジメント層にとっては指導の指針になり、双方の課題の解決につながります」(中丸さん)
また、業務のマニュアル化は、企業の生産性を向上させるためにも大きな役割を果たすそうです。
「世の中の会社は、思っているよりも現場の判断で回っているんです。わからないことがあったときに、若手社員が上司に相談すると仮定します。解決までに必要な時間は10分。上司と部下の2人分と考えると、会社全体としては計20分の時間コストです。
しかし、その会社に業務マニュアルがあり、問題を若手社員が1人で自己解決することができれば、15分かかったとしても会社としては5分間のコスト減。例えば60人規模の会社で考えると、『20営業日(1ヶ月)×60人×1日1回5分のコスト削減=6,000分=100時間』で、1ヵ月に100時間のコスト削減に繋がります。
また極端な話、業務をマニュアル化していれば、その業務をAIが行うことも可能です。ただ、一部の社員は仕事のノウハウを教えようとしないケースがあるというのも事実です。教えてしまうことで、自分の仕事や価値がなくなってしまうと思われてしまうのでしょうね」(中丸さん)
これからのマニュアル制作、どうなる?
マニュアル制作の業界は、今、過渡期を迎えています。商品の取扱説明書にしても、印刷するのではなく、Webサイト上で閲覧する、あるいはダウンロードするようなケースが増えたそうです。
「最近ではWebサイトに掲載するためにHTMLで納品したり、FAQ(よくある質問と回答)の文章作成を依頼されることも増えました。また、問い合わせ対応用のAIチャットボットのシナリオを制作することもあります。
紙のマニュアル制作の依頼は今後減っていくかもしれませんが、結局は情報が適切に整理されていることが重要であり、それにはノウハウが必要です」(中丸さん)
これからの時代、リモートワークやデジタル化などを背景に、業務のマニュアル化へのニーズは増えていくことが予想されます。また、マニュアルはWebサイトやアプリケーションへと形を変えながら、これからも社会に必要とされる存在であり続けるでしょう。
(文:高橋直貴 写真:小池大介)
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