日本初のフリーランス和菓子職人・三納寛之さんが「美しすぎる和菓子」を生み出すまで

2021年7月9日

自社のオンラインショップで和菓子の販売を始めると、750セットが5分もかからずに完売。インスタグラムで和菓子の写真をアップすると、時には1万を超える「いいね!」がつきます。これだけたくさんの人を惹きつける和菓子を作っているのは、フリーランスの和菓子職人、三納寛之さんです。

三納さんが作るのは、上生菓子。日本の季節の趣を形、色、香り、食感などで表現したもので、職人が伝統の技術と独自の感性で作り上げます。たとえば、三納さんがさくらんぼの季節に作ったのは、「リアルなサクランボにしか見えない!」という形と色をしていて、赤い実の部分の中身はあんこのお菓子。梅雨に合わせて開発したお菓子は、紫陽花を表現した3色のマーブル模様で、上品なガラス細工のようにキラキラと輝いて見えました。

 
 
 
 
 
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彩り鮮やかで繊細。宝石のようなこれらの和菓子は、どのようにして生まれたのでしょうか?三納さんにお話を伺いました。

父親と探し歩いた修行先

三納さんは1982年、愛知県の瀬戸市で生まれました。父親は和菓子店の二代目で、和菓子が日常にある生活だったので、小学校に上がるころには自然と「将来、お店を継ぐんだろうな」と考えていたそうです。

少し大きくなると、5月5日のお節句には柏餅の柏の葉を巻いたり、簡単な手伝いをするように。とはいえこの時は、特に和菓子が好きだったり、家の仕事に興味があったわけではなく、「和菓子屋の長男に産まれ、特別やりたいこともないので跡を継ぐ」程度の気持ちだったと言います。

高校3年生になり、その後の進路を考える時期。「家には金銭的な余裕がない雰囲気だったから進学なんて言い出せなかったし、僕も菓子職人になるなら早くから現場に行った方がいいと考えていた」という三納さんは、父親と一緒に修行先を探すことに。

そこで、まずは京都と金沢、愛知などの和菓子店を訪ねて上生菓子を持ち帰ることに。食べ比べた結果、愛知県安城市にある老舗和菓子店が「あんこの基礎的なレベルが高いし、上生菓子以外の品数も多くて勉強になる」と感じたそうで、後日、改めてふたりで訪問。店主に直接、「はたらかせてもらえませんか?」と頭を下げました。

店主は中京地区の和菓子研究団体・名和会の会長を務めていて、修行の希望者も多くいました。常時、修行する3人の若者が寮で寝泊まりしていましたが、訪ねたタイミングで運よくそのうちのひとりが抜けることになり、三納さんが代わりにはたらけることに。そうして、高校卒業後の2001年4月より、修行の日々が始まりました。

1年目から本気でコンテストに挑んだ理由

朝6時に起床し、7時ごろからお菓子作りが始まり、17時に終了。それから19時半まで店頭に立って販売の仕事をします。「なかなかお菓子に触らせてもらえませんでしたね」と三納さん。

「あんこを炊く仕事はやらせてもらっていて、あとは蒸しあがったまんじゅうをセロハンに包んで番重に並べたり、洗い物をしたり。ある程度、仕事を任せてもらえるようになったのは、4年目からです」

3年間は、師匠のサポートをしながら技を「見て覚える」時期。下働きが多いからといって、ボーっとしてはいられません。仕事中に突然、師匠たちから「この後、(あんを)包んでおいて」と頼まれることがあるのです。その時スムーズにできれば、次回から任される量が増えます。その抜き打ち試験に備えて、売れ残った生菓子を寮に持ち帰り、毎日のように見よう見まねで練習を繰り返したそうです。

ひと通りの商品を任されるようになったのは4年目以降ですが、それとは別に、1年目から名和会主催の技術コンテストに出品することは許されていました。これは中京地区の若手職人の研鑽と腕試しを目的としたコンテスト。師匠たちは質問をすればなんでも教えてくれたので、上位入賞を目指して真剣に取り組んでいた三納さんは気になること、わからないことはすべて聞きました。試作品を師匠に見せてアドバイスを求め、徹夜で改善。週に一度の休日には県外にも足を伸ばして、地域の名店やデパ地下で和菓子を見て、食べて研究しました。

コンテストに過去に出品した三納さんの作品①

その結果、修行を始めて間もない1年目で優秀賞を受賞したものの、「受賞して終わり」ではありません。コンテストでは、自分が参加した上生菓子部門の作品をすべてチェックし、自分なりの得点をつけました。そして、審査員の採点が発表された後、自分がつけた得点や評価とのズレについて師匠に尋ね、高評価につながるポイントを学びました。寮に戻ってからは、反省会。

もともと、和菓子にそこまで思い入れがないはずだったのに、なぜ、そこまで前のめりになったのでしょう?

「同級生は進学したり大きな会社ではたらいたりしているのに、自分は修行中の身で給料も安いし、労働時間も長いじゃないですか。その修行が終わった時に僕が帰るのは、以前から経営が厳しかった実家の和菓子店。想像するとゾッとしたんです。

もし、なにも身についていなかったら、自分はどうなるのか。この修業期間に必死に吸収して力をつけるしかないって。それに、僕は器用でもないし物覚えも悪くて師匠によく怒られましたけど、それでも愛を持って指導してくれたので、報いたいという想いもありました」

恩人でもある師匠からは、「菓子は人や。心を磨け」と言われていました。どうやったら心が磨けるのかわからなかったため、「とにかく、まじめにはたらこう」と考え、日々の仕事でも手を抜きませんでした。三納さんの父親は「気が短くて怒りっぽかった」そうで、子どものころは「顔色をうかがう」ことで、なるべく怒られないように行動していたそうです。職場ではその特技を存分に活かし、師匠たちの気配を察知して素早く動くことを意識しました。それが喜ばれて、三納さんが寮長を務めていた時期について、いまだに「お前らの時が一番楽やった」と言われるのが、三納さんの誇りだと言います。

実家に戻るも、半年で新たな修行先へ

2007年、製菓衛生師免許を取得し、6年間の修行を終えた三納さんは、実家に戻りました。そのころ、実家の和菓子店は父親と母親のふたりで経営していたのですが、母親は週の半分、外で仕事をしていました。

三納さんは少しでも貢献しようと、主力の上生菓子の種類を増やさないか、新しい商品を出さないかと提案しました。しかし、父にもこだわりやプライドがあるために、三納さんと父は衝突を繰り返しました。2人だとすぐに仕事が終わってしまうこともあって 、「午後になると、親父と工場でずっとふたりで座っているというつらい状況でしたね」。

もちろん給料は修業時代より安くなり、三納さんも警備員のアルバイトをするようになりました。その時、「このままここにいても、なりたい自分にはなれない」と感じ、わずか半年で実家を離れることに。その後、師匠の紹介もあって岐阜の和菓子店ではたらくことになりました。

新しい職場は修行先や実家と違い、店舗展開をして、大勢の人や機械を使って和菓子を製造するお店でした。

修業時代とはまったく異なる環境で、三納さんの仕事の内容にも変化が。和菓子職人ではなく、機械を動かす作業員としてどら焼きを焼いたり、生地を練ったりするようになったのです。必死に修行して身につけた技術が活かせないことに焦った三納さんは、お店の外に学びを求めました。

「味や技術は常に100の力を出し続けているからこそ、ある日、101に伸びたりすると思うんです。すべてを出し切るということをしなければ、その伸びがなくなってしまう。僕がつかもうとしていた味や技術を放すわけだから、その空いた手で別のものをつかもうと考えた時に、売る力や人間力を学ぼうと考えました」

始めたのは、ボランティア。岐阜の柳瀬という町では、毎月一度、「夜空カフェ」というイベントが開催されています。ステージでライブをして、飲食店が出店するイベントです。

夜空カフェの運営には30人から40人が携わっており、その全員がボランティア。そのリーダーが人間的な魅力にあふれた人で、三納さんは「その人の近くで学びたい」と思ったそうです。三納さんはホールスタッフとして、イベント時に飲食スペースでお客さんの案内をするのが役割でしたが、毎週ある打ち合わせに参加するなどして、次第に深くかかわるようになりました。その間にリーダーからさまざまなことを学び、その影響で三納さんの仕事の姿勢も変わったと振り返ります。

「僕はストイックな性格で、それが当たり前だと思っていたんです。だから、やらない子、できない子に厳しかった。たまたまそれをリーダーに話したら、正義の剣の話をされたんです」

リーダーはこう言いました。

「さんちゃんは、さんちゃんなりの正義の剣を持てばいい。でも、その剣で人を傷つけてはいけない。絶対に剣を抜くな。さんちゃんは、その剣を背中に背負って、自分が進みたいほうを向いて、楽しそうに生きていれば、それでいい」

この言葉を聞いて以降、三納さんは、職場で厳しい態度を取らないよう心掛けるようになりました。

欧州で感じた和菓子のポテンシャル

コンテストに過去に出品した三納さんの作品②

仕事とボランティアで忙しい毎日でしたが、年に一度の技術コンテストは、本気で挑み続けていました。それは、師匠への恩返しでもありました。

「君、どこで修行してたのと言われた時に、師匠のイメージや評価が上がるか、下がるか、それが僕にとってすごく大事なんです。自分に恩返しできることは限られているので。だから、コンテストも師匠のために頑張ろうと思っていました」

名和会主催の技術コンテストで優秀賞の常連だった三納さんは2010年、名和会を含む日本各地の研究会が参加し、全国の和菓子職人が腕を競う全国菓子研究団体連合会の技術コンテストで銀賞を受賞。さらに翌年には、グランプリに輝きました。同じ年、名和会主催の技術コンテストでも最優秀賞を獲得して、2冠。ちなみに、名和会のコンテストは2014年まで5連覇を達成しています。

中京地区はもちろん、全国でもその名を知られるようになった三納さん。その一方で、職場では上の立場の人が抜けて工場長のような立場になったものの、和菓子職人としての技能が評価されることはなく、モヤモヤを抱えたまま仕事を続けていました。

転機になったのは、2016年。修行先の師匠に誘われて、フランスとドイツで開催された和菓子のセミナーに参加した時です。その時に改めて、和菓子の課題とポテンシャルを感じたそうです。

ドイツの小学校での和菓子体験の様子

「和菓子の存在自体は、どちらの国でもぜんぜん知られていませんでした。でも、海外でいろいろ見て歩くと、日本人のまじめさ、繊細さ、ストイックさが積み重なってできた和菓子という文化はすごいものだなと感じましたね。ほかの国では四季をあれだけの種類のお菓子で表す文化ってないと思うんです。それに、ヨーロッパの人にとって豆を甘くするというのはありえないんかなと思っていたけど、フランスのおじさんは、おはぎを食べたら目を真ん丸にしておいしいと驚いていて、味の面でも手ごたえがありました」

帰国した直後の6月、「和菓子の魅力を世界に発信したい」と、インスタグラムのアカウントを開設。梅雨の時期に合わせ、紫陽花をイメージした和菓子の写真を投稿しました。すると、あっという間に「いいね!」が増えていき、間もなくして3000を超えました。予想をはるかに上回るインパクトで、それからは写真を投稿するたびにフォロワーも右肩上がりで増えていきました。

三納さんの代表作で、夜空に満開の花火がはかなく散る様子を形にした「宵花火」を投稿にした時には、「美しすぎる和菓子」としてインスタからほかのSNSにも拡散し、話題に。こうして、三納さんの存在は和菓子業界を超えて注目されるようになっていき、他社の和菓子店の勉強会で話をしたり、中国の製菓学校でセミナーをしたりと活動の場がどんどん広がっていきました。

 
 
 
 
 
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インスタの写真に込めたメッセージ

迎えた2018年、和菓子職人としてのやりがいや技術への対価に不満が募り、三納さんは退職することを決意します。

ただ、すぐに辞めると工場に迷惑がかかるうえに、自分の身の振り方も考えていなかったので、1年後に退職することにしました。

それからの1年、三納さんのもとにはいろいろなオファーがありました。共同でお店を開こうという話もあったし、別の和菓子店からのオファーもありました。しかし、店を開くには多額の資金が必要だし、会社を辞めて再び誰かに雇われるというのも違う気がしたそうです。

では、どうするのか。思い浮かんだのは、知り合いに頼まれて、社長の許可を得たうえで、一年に一度だけ個人で出店していたイベント。その時はすでにインスタでたくさんのフォロワーを抱えていたので、イベントでは行列ができて、あっという間に売り切れました。その時の売り上げと、それまでもらっていた給料やお店の売り上げを比較して、気が付きました。

 
 
 
 
 
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「フリーランスでやっていけるかも!」

2019年に独立し、日本に一人しかいないフリーランスの和菓子職人になった三納さんのもとには、イベントでの販売、和菓子のレッスン、メディア出演などのオファーが殺到。

現在は毎月名古屋で2回、岐阜で1回、対面販売をしていますが、100箱の予約がすぐに埋まります。冒頭に記したように、オンラインショップでは告知から数分で数百箱が完売する人気ぶり。

三納さんは「僕の場合、夢や目標があって選択したわけじゃなくて、流れのなかで今のスタイルになっただけ」と笑います。しかし、インスタに投稿する和菓子には、フリーランスとして生きていく覚悟とメッセージが込められています。

「上生菓子は主にお茶席のお菓子で、お茶席では味や見た目よりお店の名前や歴史が重視されるので、僕みたいに個人でお店を持たないスタイルは、相手にされないことが多いです。だから、僕は長所である上生菓子のセンスや技術を活かして、あえて一般の方に喜んでいただけるような上生菓子を作って発信していきます」

インスタで三納さんをフォローしているのは日本人の若い女性が多く、台湾、韓国、中国にもファンがいます。三納さんの投稿によって、はじめて和菓子に興味を持ち、購入したという人たちも少なくないはずです。

洋菓子の世界は、パティシエの顔と名前と腕で勝負します。和菓子はいまだに、職人は裏方。三納さんの存在が、いずれ業界を変えるかもしれません。

(文:川内イオ 写真提供:三納寛之)

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