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「『相棒』となる究極の自転車を」。2代にわたって描き続けたフレームビルダーの夢
「今、ぼくは父のなりたかった姿になっている」
東京都町田市にこだわりを持った自転車乗りが集う店があります。その店の名は「CHERUBIM(ケルビム)」。ケルビムの自転車は、世界最大のハンドメイドバイシクルショー「NAHBS」でのグランプリ受賞を皮切りに、数々の展示会で世界中の注目を集めました。
ケルビムのオーダーメイド自転車は、その品質もあって一台50万円から、時には100万円を超える高価なもの。にも関わらず、競輪選手から世界中の自転車を愛するアマチュアまで、日々オーダーが寄せられています。そんなケルビムの自転車を手がけるのが、ブランドの母体となる有限会社今野製作所の現代表にして、フレームビルダーの今野真一さんです。
フレームビルダーとは、ショップや工房を構え一人ひとりに合った自転車を作る職人のこと。ケルビムの創設者で今野さんの父・仁さんも、日本のフレームビルダーの先駆者として知られる存在でした。
ケルビムの店舗には1968年メキシコ五輪で日本代表選手が使用した仁さん製作の自転車が展示されています。そんな父の作品の隣に並ぶのは、今野さんがこれまで手がけた自転車の数々。
「今ぼくは、きっと父がなりたかった姿になっている」
今野さんは、これまでのキャリアを振り返り、そう口にしました。親子2代にわたって追いかけてきたフレームビルダーとしての夢。実現までの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
幼少期の遊び場は、父がはたらく自転車工房
「気付けば自転車の部品をいじっている子どもでした」
幼少期の今野さんの遊び場は父が営む自転車の工房でした。自宅に隣接された工房には常に4、5人の職人がいて、その間を縫って遊び回る日々。
小学1年生の時には不要になった自転車を貰い受け、鉄ノコギリを手に「自動車に改造する!」とチャレンジしたことも。その挑戦はうまくはいきませんでしたが、自転車のパーツが山積みになった工房は今野さんにとって宝の山に見えたといいます。
今野さんはパーツに触れるだけでなく、自転車に乗ることも大好きでした。小学校低学年になると、友達と町田から八王子まで片道20キロあまりを自転車で走破。小学3年生になると自転車のレースにも出場。高学年になると中学生にまじってトラック競技場で競うトラック競技にのめり込みました。
初めて父・仁さんがオーダーメイドの自転車を作ってくれたのは、今野さんが自転車競技に夢中になっていた時のこと。
いざ自分の自転車の製作がはじまるとなると、今野さんのこだわりが爆発することとなります。
「ここのパーツにはあれを使ってくれ、ここはこうしてくれと事細かく注文しました。嫌な客ですよね(笑)。今となっては無茶な注文ばっかりしていたと思いますが、それぐらい自転車の部品やパイプが好きだったしこだわりもありました」
小学校から帰ると工場に直行し、作業の進捗をチェック。未来のフレームビルダーは、初めてオーダーした自転車が思い描いた姿に近づいていていく様子を、毎日真剣な眼差しで眺めていたといいます。
自転車作りの道へ進むも、家業の経営は悪化
その後も趣味として自転車に触れ続けていた今野さんは、高校卒業後プログラミングの専門学校に入学。「今後ケルビムに入社するならば、コンピュータのスキルを持っていた方がいい」と考えてのことでした。その進路を選択したのは、父・仁さんの影響が大きかったといいます。
「父は当時まだ珍しかった200万円ほどするコンピュータを買って、自転車の図面を描いていたんです。最先端のものをうまく取り入れて、より良い自転車を作ろうとする姿勢を常に持ち続けている人でした」
今野さんは、父親から「会社を継げ」と言われたことは一度もありませんでしたが、小さいころから好きだった自転車作りの道に自然と導かれていったのです。
ケルビムは自転車工房では珍しく、分業で自転車を作っていました。この体制は、合理的な製作方法を模索する父・仁さんの考えによるもの。
一人の職人が丸々一台を仕上げるとなると、どうしてもオーダーを受けてから完成にまで時間がかかる。しかし分業体制が築ければ、よりスピーディに仕上げることができるようになります。
それだけではありません。分業体制は、各工程のプロフェッショナルを育てるのにも一役買いました。
日々一つの工程だけをこなしていると、その工程だけは短期間でベテラン職人よりも上手くできるようになっていく。各工程のプロフェッショナルが作る洗練されたパーツを組み上げれば一級品の自転車ができ上がるのです。
こうした製作体制のもと、今野製作所へ入社後すぐに今野さんも自転車作りに戦力として加わるようになります。
当時のケルビムでは、オーダーメイド以外にも量産車を受注する仕事もしていました。職人たちが各々分業して作っていくことで、効率的にそうした受注にも対応できる仕組みができていたのです。
今野さんにとって、職人たちと一緒に自転車を作る日々は楽しいものでした。毎日できることが増え、作った自転車はお客さまに喜んでもらえる。フレームビルダーの道にやりがいを感じていたのです。
しかし、そんな今野さんの思いとは裏腹に、ケルビムの経営は悪化の一途を辿っていきました。
「オーダーメイドではないメーカーからの発注が低コストで行える海外の工場へどんどんと移っていったんです。仕事がなくなっていく中で、職人が一人、また一人と辞めていき……ついには父とぼくだけが工場に残されました」
八百屋みたいな自転車の売り方はしたくない!
いよいよ工場だけでは立ち行かなくなると「ショップを始めよう」と、父・仁さんが方向転換を打ち出しました。量産車を仕入れて販売する、いわゆる「自転車販売店」の経営に力を入れようと考えたのです。
今野さんが30歳を迎えたころ、店舗を開くために長年工場を営んできた場所を離れ現在の大通りに面した立地へと移転しました。しかし、思い通りには進みません。
「自分の気に入った自転車を仕入れてせっせと店頭に並べていきましたが、思う通りには売れません。しかも、新しい商品が出れば型落ちとなり、より売れにくくなってしまう。
ある人から『自転車は古くなったら値段をガンガン下げて野菜のように売らないとダメだよ』と言われたこともありました。理屈はわかります。しかし、もの作りをしてきた者として、このような売り方は納得できるものではありませんでした。
自転車は腐ることはないんです。性能も落ちていない。価値が下がっていないのに値下げしなければいけない『鮮度商売』に、精神的に追い詰められていきました」
こうした売り方が良しとされる背景には、販売店とメーカーの力関係があります。人気のメーカーは「年間何台以上」というノルマをこなせるショップにしか商品を卸してはくれません。そのため、多くの自転車ショップで「型落ち」自転車の値引き競争をせざるを得ない状況が生まれているのです。
「ケルビムはオーダーに応えて『お客さまの体に合わせて売る』ことを重んじてきましたが、ショップを経営するとなると、ノルマが頭をかすめて、売り時の自転車を勧めざるを得ない状況が生まれていました」
今野さんは決意を固めました。
「オーダーメイド自転車一筋でやっていこう」
販売店をやめることで、この先どうなるかはわかりません。しかし、今野さんの心は揺らぎませんでした。
こうして今野さんは、オーダーメイド自転車の事業に立ち返ったのでした。
究極のオーダー自転車を追い求めて
オーダーメイド自転車一筋で生活していくには、まず知ってもらわなければ始まりません。
そこで今野さんは、市役所主催の小規模なものから世界レベルのコンテストまでありとあらゆる自転車の展示会に出展を始めます。
日本のハンドメイドビルダーが集う「ハンドメイドバイシクル展」に出展した際には「ベストバイシクル賞」を受賞。
多くの注目を集め、2009年には今野さんの元にアメリカで開催される世界最大級の自転車の祭典「NAHBS」への招待が届きました。
招待状を受け取った今野さんは、最初は「フレームビルダーがたくさん集う場所ならば行ってみようかな」程度の気持ちだったといいます。
しかし、妻の「どうせ見にいくならば、出展したら?」の一言で新たな自転車製作を決意。アメリカに発つまでのたったの2週間の間に、渾身の自転車を作り上げました。その自転車の名は「PISTA」──。細身のスチール製フレームに繊細な仕上げ。オーソドックスなスタイルながら、今野さんの技術力が感じられる一台です。
迎えた「NAHBS」当日、今野さんは「いったい自分の自転車はどう評価されるだろう」と緊張と期待が入り混じった感情を抱いていました。
固唾を飲んで見守った結果は、「Best Track Frame」と「プレジデンツチョイス賞」を受賞。日本人のフレームビルダーとしては初、それも初めて出展での二冠という快挙でした。これにより一躍、今野さんは世界のフレームビルダーから注目される存在となったのです。
さらに2012年には、より名誉な出来事が。今野さんの製作した自転車が、「NAHBS」のグランプリである「The Best of Show」を受賞。
そのころには今野さんは世界のフレームビルダーの中心的な存在となっていました。
名が世界に知られるにつれ、海外からのオーダーも増加していきました。オーダーが途絶えることがなくなった今野さんが目指すのは、どんな自転車なのでしょうか。
「一人ひとりにあった『最高の相棒』を作ることです。芸術的な美しさを極めたいというよりは、オーダーしてくれる人にとっての『一番』を作れるフレームビルダーでありたい。競技者であれば『最速の自転車』であったり、アマチュアであれば『どこまで乗っても疲れない自転車』であったりするかもしれない。
きっと父もそんな自転車作りの仕事を追求したかったのではないかと思います。オーダーしてくれる人にピタリと合う一台を作りあげる。ケルビムはこれを極めたいんです」
今野さんには駆け出しのころに言われた忘れられない先輩の言葉があります。「美しい武器を作るつもりで自転車を作れ」というものです。
「武士が持つ刀のように、持ち手が命を預け、誇りを持てる研ぎ澄まされた美しさ。ぼくは自転車を、そんなふうに作り上げたいと思っています」
自転車文化の担い手を育てる新たな挑戦
現在、ケルビムの工場では、20代の若者たちが真剣な眼差しで作業に没頭しています。ケルビムの自転車は、今野さんだけでなく各職人たちが自身の役割を全うすることで仕上げられていくのです。しかし、業界的には若者を雇い入れ、分業し、技を教えることはまだまだ珍しいことだといいます。
「この業界では同業者を増やしていくことを嫌ったり、若者が入っても見習いとして自転車のパーツにも触らせないという現場が多い。ぼくも昔は『ライバルが増えて大丈夫だろうか』と思っていた時期がありました。
でも、今はそんな小さい自分の利害に囚われているのではなく、業界全体に目を向けていかないといけないと思っています。若い職人が増えれば、自転車に興味を持ってくれる人も増えるでしょう。だから、包み隠さず技術を教えるようにし、力をつけてくれるよう後押ししています」
今野さんは、後進の育成を日本初の自転車専門学校「東京サイクルデザイン専門学校」という形で実現しました。
「アメリカを訪れた際に、自分で自転車を作る道具やそのための学校があることに驚いたんです。多くの日本人にとって自転車はまだ単なる交通手段。その考えを否定する気持ちはこれっぽっちもありませんが、ぼくはアメリカやヨーロッパのように日本でも自転車が一つの文化になってもよいのではないかと考えています」
近年、日本でもこだわりの自転車に乗ったり自転車をカスタマイズしたりする人が増えています。今野さんのいう「文化」が花開きつつあるのかもしれません。今野さんはこれからも自身の究極の自転車作りの道を歩みながら、文化の担い手となる若手の育成に力を注いでいきます。
(文:佐藤智 写真:小池大介)
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