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父から学んだ「分解」が職業に。世界にただ一人の「衣服標本家」
デザイナー、パタンナー、販売員などファッション業界にはさまざまな仕事があります。しかし、その中でも「衣服の分解」を仕事にしている人は世界を見渡してもおそらくただ一人しか存在しないでしょう。その人が、「衣服標本家」の長谷川彰良さんです。
長谷川さんが衣服標本家の仕事を始めたのは、100年以上前の洋服の精巧な作り、品質の高さに感動したことがきっかけです。その構造を解き明かし、魅力を伝えていきたい。そうした想いから独自にアンティーク服の型紙(洋服の設計図)を作成し、「半・分解展」という展覧会を開催しています。
世界にただ一人の「衣服標本家」はどのようにして生まれたのでしょうか?
洋服が教えてくれるフランス革命
東京の郊外、近くに小川の流れる住宅地に、世界に一人しか存在しない「衣服標本家」長谷川彰良さんのアトリエはあります。クローゼットにずらっと並ぶ、普段目にしないようなデザインの洋服。その一つひとつが世界的に稀少なアンティークです。
フランス国王ルイ16世の妃、マリー・アントワネットが生きた18世紀に貴族の女性が着ていたドレス、同時代にフランス革命を起こした労働者たちが着ていた「カルマニョール」と呼ばれる上着と長ズボン、19世紀にアメリカで起きた南北戦争で北軍の軍人が着ていた軍服……。
コレクションの多くは欧米の博物館、美術館に展示されているような稀少性の高いもの。実際、インターネットで長谷川さんの活動を知ったアメリカの博物館の学芸員から「なぜうちの博物館で展示しているものと同じ軍服を持っているのか?」と驚きのコメントを寄せられたこともあるそうです。
長谷川さんは、ここに挙げたような100年前、数百年前の衣服を欧米の専門ディーラーから買い集めています。ただ飾り、愛でるためではありません。細かく分解し、構造を明らかにして、衣服の成り立ちや歴史的背景を読み解いていくためです。
「フランス革命の時代に労働者が履いていた長ズボンを見てください。18世紀、男性のアピールポイントはふくらはぎだったので、貴族はみんな半ズボンを着用していました。長ズボンを履いているのは労働者だけだったんですが、フランス革命後、半ズボンを履いていると殺されてしまうかもしれないので、貴族も長ズボンを履き始めました。フランス革命によって貴族の間でも長ズボンがメジャーになったんです」
ここからさらに、服の構造に話が拡がります。
「ふくらはぎの部分、形が独特じゃないですか?実は、貴族は長ズボンにパットを入れてふくらはぎを強調していたんです。」
長谷川さんの説明を聞くと、一着の洋服からフランス革命当時のイメージが広がります。このような体験を求めて、長谷川さんが企画する展示「半・分解展」には多くの人が足を運ぶのです。
クリスマスプレゼントにねだったのはミシン
1989年に茨城の鉾田市で生まれ育った長谷川さんが洋服に興味を持つようになったのは「尖っていた」父親がきっかけでした。
長谷川さんが小学校3、4年生のころ、知り合いの工場から業務用ミシンを3台、自宅に持ち帰った父親は、下着と靴下以外の衣服を、独学で自作するようになります。鎖を縫い付けたジーンズなど自分好みの服を作っては、日常的に身に着けていたそうです。そのミシンを使い、見よう見まねで服やバッグを作り始めたという長谷川さんは、こう振り返ります。
「父の背中を見ていなかったら、服作りに興味を持つことはなかったと思います」
すぐに服作りに没頭し始めたものの業務用ミシンはパワーが強すぎたため、その年のクリスマスに子ども用のミシンを買ってもらいました。ところが、今度はおもちゃのような作りで満足できず。数カ月後、改めて大人用のミシンを買ってもらうことに。服の作り方を教えてくれたのは、父親でした。その教えが「今」にもつながっています。
「お気に入りのジーパンを分解しろって言われましたね。今ある服を分解しちゃえば型紙を作れるんだからって。そういうものかと思って、自分の服を分解して型紙を作り始めました」
型紙とは洋服の設計図のこと。洋服を解体し、パーツをトレースすることで設計図が手に入るということを父親が教えてくれたのです。
長谷川さんにとって、「分解しろ」という教えはワクワクするものでした。幼いころから物体の構造に強い興味があり、死んだ昆虫、時計、ミニ四駆のモーターなど手当たり次第にバラバラにしていたため、服の分解にも抵抗はなかったのです。
専門学校に進学するも、いきなり留年
服を作るには当然生地が必要です。地元には良い生地屋がなかったため、長谷川さんは同居していた祖母が物置にしまっていた古い服を勝手に持ち出しては分解し、その生地を使っていました。最初は悲しい顔をしていた祖母も、長谷川さんが夢中に服を作る姿を見て次第に何も言わなくなりました。
ミシンと祖母のおかげでどんどん腕が上がり、中学時代には古着をリメイクして着るように。当時流行っていたインターネットの掲示板に写真を載せてみたら、一着5000円ほどで売れたといいます。そのころには、「服作りの道に進んでいくだろう」と考えていたそうです。
高校に入ると、古着屋が連なる東京の高円寺にまで買い物に出かけるようになりました。行きつけのスタッフの勧めで恵比寿にある服飾専門学校「エスモード・ジャポン」へ進学。
しかし、最初の1、2年は、服作りの基礎である女性服について学ぶことに興味を持てず、まじめに授業を受けていなかったそうです。講師とも考えが合わず、すぐに学校から足が遠のきます。当然、留年することに。
その後、苦手な女性服に向き合いなんとか3年生に進級。3年次のカリキュラムでフランスの紳士服の作り方を教わるようになると、一番前の席に陣取り、前のめりで授業を受けるようになりました。
「紳士服を学んだことで既製品とオーダーメイドの違いがわかるようになり、自分の中で物差しが一つ増えた感覚でした。通学路で見る人のスーツの違いも一目でわかるようになったんですよ。自分の目が変わっていくことが何より面白かったんです」
「心の師匠」との出会い
紳士服に興味を持ち始めたころ、ふらっと立ち寄った高円寺の古着屋で一着の服に目が留まりました。それは、120年前にフランスの消防士が着ていた消防服。ものすごく、惹きつけられる。でも、なぜかわからない。その理由を知りたくて、学生にとっては大金の3万円を支払い購入。自宅に持ち帰り、思い切って縫い糸にハサミを入れました。
その瞬間、目が釘付けになりました。オーダーメイドのスーツと同じような作り方で、細部にいたるまで丁寧に手縫いされていたのです。120年前の熟練の手仕事に心を鷲づかみにされ、長谷川さんは涙をこぼしました。この時、子どものころから変わらない「構造」への探究心に火がつきます。
「真似して作りたいというのは一切なかったですね。なぜ美しいのか、それがどういう構造なのかを解き明かし、理解したいっていう気持ちでした」
フランスの消防服との出会いをきっかけに、長谷川さんは気になる古着を購入しては、分解するようになります。昔の洋服についてインターネットで検索すると、いつも同じブログに辿り着きました。そのブログには、長谷川さんが知りたいことについて写真と解説が載っていました。「この人やばい!」と興奮して連絡をしたところ、直接会えることに。
夜行バスに乗って岡山市へ向かった長谷川さんを迎えてくれたのは、WORKERSというメンズウェアブランドのオーナー、舘野高史さん。長谷川さんは洋服への圧倒的な知識と技術、行動力、愛を持つ舘野さんを出会ったその日から「心の師匠」と敬います。そしてこの出会いがその後の長谷川さんを支えてくれるのです。
会社員をしながら社外で理解者を増やす
2011年春、専門学校を卒業した長谷川さんはパタンナー(デザイナーのデザイン画を型紙に起こす専門職)として某アパレルブランドに就職しました。それからは、苦悩の日々でした。
会社にとって大切なのは「なぜ美しいか」ではなく、「どう売るか」。企業としてビジネスを考えるのは当たり前のことですが、自分が美しいと思う服作りをとことん追求したいと思っていた長谷川さんは、周囲と温度差を感じ、疑問や反感を抱くようになっていきます。
その葛藤は、腕を磨いて差をつけてやるという原動力になりました。ほかの人が残業していても定時に退社し、土日に出社を求められても断って、テーラリングの私塾やほかのアパレルブランドの勉強会に参加。エス・モード時代の恩師の自宅にも通い、スーツ作りもイチから教わりました。
勉強会にも欠かさず出席していると、「マニアックなやつがいる」と評判になり、3年目には講師としてオファーを受けるようになります。
長谷川さんはオンラインでも積極的に「社外活動」を続けていました。それが自身のブログの運営です。そこでは自身が作った作品や収集を始めていたアンティークの洋服や古い文献の紹介に加えて、私塾で学んだ洋服づくりの技術に関しても積極的に発信していました。
こうした活動の裏には心の師匠の舘野さんから言われた「自分の持っている技術を隠すな。すべてオープンにしろ」という教えがありました。会社員になってからも定期的に情報交換をしていた舘野さんは、長谷川さんの想いや技術を知り、会社の枠内だけに留めておくべきではないと後押しをしてくれたのです。
ブログの運営を続けていると、やがて別の会社のデザイナーから「うちのブランドのパターンを引いてくれませんか?」と連絡が来るように。こうして、反抗的な態度で社内では鼻つまみ者になっていた長谷川さんが社外で理解者を増やしていったのです。
社外での活動で基盤を整えた長谷川さんは2016年9月、フリーのパタンナーとして独立します。
「ありえない」と言われた5万円の収益
独立すると同時に、あちこちで買い集めて研究してきた衣服を半分だけ分解した状態で展示する「半・分解展」を企画しました。120年前のフランスの消防服をはじめ、フランス革命前後から第一次世界大戦頃までの貴重な衣服を展示し、フランスの消防服を分解した時に長谷川さんが感じた心の震えを、より多くの人に届けたいと思ったのです。
実はこの企画、もともとは違うタイトルになるはずでした。
「友人にグラフィックデザイナーの本田千尋さんを紹介してもらったんです。初めてやる個展だったのでいろいろ相談したんですが、最初は『感動を見つける展』みたいなタイトルを考えていたら、ありえないと言われまして(笑)。そこで彼女が提案してくれたのが、『半・分解展』でした。結局、本田さんにはビジュアルを含めてすべてお願いしたのですが、あの時、本田さんと知り合っていなかったら、謎の展示になっていたと思います」
「感動を見つける展」から生まれ変わった「半・分解展」は、2016年10月、京都、名古屋、東京で計2週間、開催されました。アンティークの服を半分分解して展示するという誰もやったことのない野心的な試みは、アパレル関係者も驚くほどの盛況となりました。
2週間で1400人が訪れ、日によっては1時間待ちの行列も。来場者は当初、長谷川さんのブログの読者や勉強会で知り合った人、仕事の関係者が多かったのですが、次第に口コミで足を運ぶ人も増え、長谷川さんは大きな手応えを得たと言います。
「100万円くらいの経費をかけて展示して、手元に5万円残ったんですよ。アパレル業界の人からは、展示は広告みたいなもので赤字が当たり前と言われていましたが、改善したらこれは絶対にいけるという確信がありましたね」
初回の「半・分解展」を終えた後、長谷川さんはパタンナーとして仕事を請けながら、次回の準備を進めました。そうして2018年5月に東京、6月に名古屋で第2回の「半・分解展」を開催。この時は入場料を前回の倍の2,000円に設定したのですが、入場者数は2,000人に増えました。「いろいろ改善」の成果でしょう。
展示した服は初回と同じだったものの『体感』というテーマを新たに設け、展示している服のサンプルをXSからXLまで5サイズ自作し、試着できるようにしました。
「博物館や美術館で展示品を見るだけだと僕自身まったく満たされなくて、触ったり着たりしたかった。だから、『半・分解展』では自由に試着をできるようにしました」
新たな取り組みによって、来場者にとっては、100年以上前の服を試着するという特別な体験ができるだけでなく、主催者の溢れんばかりの情熱を肌で感じられる内容になりました。
この展示は、長谷川さんの大きな転機になります。来場者の一人から「型紙を売ってもらえませんか?」と頼まれたのをきっかけに、「欲しい人がいるなら」と1枚1万7000円で型紙を販売したところ、会期中に100万円以上も売り上げたのです。
「それまで、型紙に需要があるということにまったく気付いていなかったんです。それに、市販の型紙は1500円ぐらい。市販のものより10倍も高い100年も200年も前の服の型紙がなんで売れるの!?と本当に驚きました」
2,000円のイベントに2,000人が来場し、400万円。これに加えて、型紙の売り上げが100万円以上。さらに、有料のトークイベントの開催、オーダーメイドの服の注文も受けて、売り上げは600万円に達しました。この時、長谷川さんには妻子がいましたが、準備の費用や会場代などの経費を引いても、十分に暮らしていける収入です。
この第2回「半・分解展」を機に長谷川さんはほかの仕事をすべてやめて、衣服標本家として食べていくことを決心しました。
増え続けるコレクション、膨らむ投資額
2019年4月から5月にかけて、第2回「半・分解展」と同じ内容の巡回展を京都と福岡で開催。その後、コロナ禍に入って思うように活動ができない時期が続きましたが、2021年10月に大阪、2022年4月に東京で展示内容を新たにした「半・分解展」を開きました。
今年4月の東京展では、18世紀半ばに貴族が着用した金糸と銀で織られた「ウエストコート」、19世紀初頭にナポレオンブームによりミリタリールックが取り入れられた女性の上着「スペンサー」など、1740年から1830年代までの紳士服やドレスをメインに計60点ほどを展示。フランス革命を契機としたロココ様式から新古典主義への変遷を紹介しました。
当日券は4,000円と、第2回からさらに2倍としたものの、客足が遠のく気配はありません。東京展では2週間の開催期間中におよそ1,500人が来場して幕を閉じました。今ではファッション関係者はもちろん、クリエイターやコスプレイヤー、手芸の愛好家まで幅広い人たちが集います。
そうした人たちを惹きつけているのが、ほかでは目にすることのないアンティーク服の数々。2016年に独立してから6年、長谷川さんのアトリエにはアンティークの洋服が増え続けています。長谷川さんのコレクションは、ニューヨークやロンドンの美術館に卸している専門業者から買い取っており、どれも美術館に展示されていてもおかしくない年代物。とんでもない値段がしそうに思えますが、そうでもないと言います。
「おそらく僕が欲しいものは100万円あればほとんど手に入ります。一本数百万円するヴィンテージデニムなんかと比較すると、ヨーロッパのアンティークは価値が定まっていないんです。というよりも、ほとんど誰も価値を見いだしていません。
作られた年代がわかる指標があれば価値を体系化しやすいのですが、特に18世紀から19世紀半ばにかけてはブランドもタグも存在していない時代なので、この洋服が何なのか、何が良くて何が悪いのか、ほとんど誰も説明できないんですよ」
たとえば、と言って手に取ったのは、フランス革命を起こした労働者たちが着ていた上着「カルマニョール」。これはわずか4万円で購入したもの。ディーラーが価値を知らなかったため、破格の金額で手に入れました。
マニアックな情熱は海を越える
長谷川さんはなぜ、ディーラーも推し量ることができないアンティークの服に価値を見出すことができるのでしょうか?それは、日々の研究の賜物です。日本語の関連書籍はもちろん、欧米の書籍もインターネットを通じて購入し、翻訳して読み込むことで、時代背景や当時の流行を学びます。並行して膨大な量のアンティークの衣服を分解することで、その時代ならではの服の作りや構造を把握しているのです。
日本で独自の地位を確立した長谷川さんの目は、海外にも向いています。インスタグラムで情報を英語で発信していることもあり、海外の専門業者からも一目置かれる存在になっています。長谷川さんのコレクションの中でも最も高い、「7桁以上した」ドレスは、イギリスで大英博物館と並んで有名なビクトリア&アルバート博物館とも取引をしている専門業者が、所有しているものでした。
欲しいものが見つかった時、長谷川さんは面識がない相手にも躊躇せずメールを送ります。購入の秘訣は「パッション」。この時も、買い取らせてほしいという意思表示に加え、自分の活動やなぜ欲しいのかを明確に記しました。すると、メールを読んだ専門業者から、目を疑う返信がありました。
「あなたのインスタを見たよ。まずはドレスを見てほしいから、先に送る。お金は後でいいから」
破損されたり、持ち逃げされてしまう可能性があるため、どんな業者でも入金前に商品を送ることはまずありません。メールでのやり取りを通じて、アンティークの服の価値を理解する長谷川さんならば大丈夫だろうという信頼を得たのです。
また、最近は、海外からも「型紙を売って欲しい」という連絡が届くと言います。長谷川さんの情熱が海を越え、洋服好きの同志の元へと伝播していったのです。カルマニョールを生んだ地・フランスで「半・分解展」を開催したら、果たしてどんな反響を呼ぶのでしょうか。世界に一歩を踏み出す時に備えて、衣服標本家は今日も研究と分解を続けています。
(文:川内イオ 写真:鈴木渉)
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