TikTokで話題。震災で家を失った男性が、30歳未経験で漁師になった理由。

2024年8月29日

東日本大震災で津波の被害を受けた、宮城県七ヶ浜町。この海沿いの町で、震災を境に、まったくの未経験から30歳で漁師に転身した男性がいます。「ハマ・ヨンジャ」のアカウント名でTikTokに2万人以上のフォロワーがいる、星佳久さんです。

津波で自宅が流され、住む場所も仕事も失った星さん。もともと建設関係の職に就いていましたが、震災後に廃業が相次いでいた漁業の世界に飛び込みました。2023年6月からは、自ら漁で獲ったタコを使って、キッチンカーで“漁師のたこ焼き”を販売。TikTokのファンが、星さんに一目会うために行列をつくっています。

星さんはなぜ未経験で漁師になり、TikTokで発信を始めるようになったのでしょうか。逆境に立ち向かう星さんの歩みを辿ります。

悲しさよりも、笑うしかなかった

——星さんは宮城県七ヶ浜町で生まれ育ったのですか。

生まれも育ちも七ヶ浜です。もともとは自宅が海沿いにあって、そこで母と祖母と3人で暮らしていました。幼少期はもっぱら海が遊び場で、時間があれば、漁師をしている友達のお父さんの漁船に乗せてもらい、一緒に沖まで行って釣りをしていましたね。七ヶ浜は漁師町なので、地元の漁師さんは皆顔見知りでした。

友達のお父さんが魚を水揚げする様子も、漁船の上でよく見ていました。網にはヒラメやワタリガニ、タコのほかに、もっと大きい魚や変わった魚も掛かっていて、「漁って楽しそうだな。漁師になれたらいいな」と思っていましたね。

——一方、震災前までは建設関係のお仕事をされていたのですよね。なぜ、最初から漁師にならなかったのですか?

中高生時代はやんちゃで遊びたい盛りで、漁師への夢より、友達関係のほうを重視するようになっていたんですよね。高校の時に友達の紹介で、建物の骨組みをつくる鉄骨工事のアルバイトを始めて、卒業後はそのまま正社員になり、鉄骨工としてずっとはたらいていました。

——2011年、星さんが29歳の時に東日本大震災に遭われたと伺いました。

3月11日は夜間工事担当で、仕事が19時前後に始まる予定でした。だから日中は祖母と自宅にいたんですよね。祖母とは別の部屋にいましたが、14時台に地震があり、揺れが大きくなったので祖母の部屋へ移動。祖母を庇いましたが、揺れに耐えるので精一杯でした。

64年前、チリ地震の影響で七ヶ浜で大津波を経験していた祖母は「この揺れはただ事ではない」と言い、その後二人で高台へ逃げました。

高台から高さ10m以上の津波が何波も押し寄せるのが見えて、自宅は、少しよそ見をしている間に一瞬で流されていました。悲しさや驚きはなく、笑うしかなかったですね。あまりの光景に、深刻な心境になれるほど頭の回転が追いつかなかったのかもしれません。

「失うものは何もない。前を向くだけ」

——その後、なぜ漁師を志したのでしょう?

ぼくの場合は幸いにも、身近に亡くした人はいません。仕事で外出していた母も無事でした。ただ住む家と仕事がなくなっただけなので、「命以外、失うものはもう何もない。ただ前を向くだけだ」という気持ちでしたね。

震災後、七ヶ浜では、高齢の方を中心に多くの漁師さんが廃業していました。震災前からすでに、温暖化の影響で以前獲れていた魚が獲れなくなったりしていたようですが、津波でさらに漁場(魚を捕獲するための水域)が変わって漁業がしにくくなった上、漁船や自宅を失った人も多いからです。

でもぼくは、幼少期からいつも身近にあった漁業が七ヶ浜からなくなってほしくないと思った。それで、震災の一年後、小さいころよく漁船に乗せてくれた友達のお父さんがまだ漁師を続けていたので、一緒に船に乗せてもらい、漁師になるための修行を始めました。

——どのくらいの期間、修行したのですか。

約6年間です。漁業と一口に言っても、漁業会社などが運航する大きな漁船に複数の従業員の漁師が乗る場合もあれば、個人事業主として一人で漁をする人もいます。ぼくは後者で、2018年に独立し、小さな船で一人で漁をするようになりました。

——一人での漁は、うまくいきましたか。

いえ、思い通りにはいきませんでしたね。たとえばぼくがやっているのは「刺し網」という漁法で、風向きや潮の流れを見て、魚たちが餌にするプランクトンが集まる位置を予測して網を投げ入れないと魚が獲れません。

「刺し網」とは、横長の四角い網を海底に投げ入れ、重石で海底に固定することで、海底付近にいる魚を引っ掛け捕獲する漁。星さんは海底20〜30mまで網を投げ入れることも多いという

一方で、風向きや潮の流れは1分ごとに変わります。独立してからは、一匹も捕獲できない日もあったし、仮に捕獲できても“売れる”魚がない日もありました。

20時間の漁で、5匹しか網に掛からない日も

——ちなみに、どのような魚がどれくらい捕獲できれば、安心して生活できるぐらいの収入になるのでしょうか。

これはあくまでもぼくの場合ですが、一回の漁で、ヒラメなら50枚、ワタリガニなら60kgほどそれぞれ捕獲したいところです。

2018年に独立したばかりのころは、普通は夜中0時ごろに漁へ出て朝10時ごろ引き上げる漁師さんが多い中、ぼくは19時ごろから翌日16時〜17時ごろまで漁に出ていました。それを週に4回。独立から2〜3年後、一人で漁をすることに慣れるまでは、ヒラメ5匹しか獲れないこともありました。

——20時間以上漁に出て、たったの5匹……!漁師としての腕が未熟だった時期、どのように生計を立てられていたのですか?

むやみに出航しても経費(燃料代など)がかさんでしまうので、漁を控えて仕掛けづくりに専念したりしていましたね。あと、冬は吹雪で海が荒れるので、そもそも漁に出られる回数が減ります。七ヶ浜は海苔の養殖が盛んなので、地元の海苔店でアルバイトをさせてもらっていました。

——なぜ、挫折せずに、逆境を乗り越えることができたのでしょうか。

やっぱり漁師の仕事が好きだからですね。「次はどんな魚が揚がってくるんだろう?」という楽しみがあります。

あとは“獲れやすい魚”を必死に狙っていました。例えば、太刀魚やトラフグ。本来は南の海にいる魚ですが、温暖化の影響で七ヶ浜でも獲れるようになったんです。独立して2〜3年目以降、ようやく、漁師として安定して魚が獲れるようになりましたね。

ある真冬の早朝、初めて船が水揚げした魚でいっぱいになった時のことはよく覚えています。タラなどが、いつもの4〜5倍近く獲れたんですよ。それを仲買人さん(市場で魚を買い取る業者)に渡した時に、控えとしてもらった伝票は、今でも記念に大事に持っています。

1箱600円の“漁師のたこ焼き”が、1日150箱以上売れるヒットに

——2022年2月から、漁師としてはたらく姿をTikTokで発信されています。なぜ、発信を始めたのですか?

温暖化や、3.11の原発の風評被害で七ヶ浜の漁業が厳しい状況にあったことと、家で魚を食べる若者が減ったことを痛感したのがきっかけです。例えば水揚げした魚を近所の若い夫婦にお裾分けしても、「自分で捌けないので要りません」と言われることが多くて。それで、少しでも多くの人に七ヶ浜の魚に興味を持って、家で食べてもらいたいと思いました。

一方でぼくは、SNSに詳しいわけじゃないしデジタルも苦手。それで、若い人たちに広く届きそうで、かつショート動画を簡単に投稿できるTikTokで、漁業に関することを発信しようと思いました。

3本目まではほとんど反応がなかったのですが、4本目の動画がバズり、そこからフォロワーが増えていきました。

——TikTokでは、町の人たちとのコラボレーション動画も配信されています。地域の方々からどのようにして、「ハマ・ヨンジャ」としての存在を認められていったのでしょうか。

最初は「いい年して何やっているんだか」「どうせ続かないべ」という反応をもらうことも多かったですが、2023年6月にキッチンカーでたこ焼き販売を始めてから、徐々に受け入れてもらえるようになった印象があります。

たこ焼き販売を始めたのは、原発の風評被害で、水揚げしたタコに、それまでの3分の1ほどしか値段がつかない時期があったからです。自分で獲ったタコで、何か別の商売をできないだろうか?と考えて思いついたのが、キッチンカーでのたこ焼き販売でした。

——食品販売の知識がない中、どうやってキッチンカー事業を始められたのですか。

2022年の冬、知人のツテを辿って、静岡で“本場大阪のたこ焼き”をキッチンカーで販売している女性の元で修行をしました。冬は吹雪で海が荒れて漁に出られる日が少ないので、約2カ月の間に複数回、3〜4日間静岡に滞在したんです。キッチンカーや機材の購入コストはかかりますが、思い切って初期投資をしないと新しい商売はできないので。

キッチンカーには星さんの顔写真と「七ヶ浜漁師×本場大阪たこ焼き」という文字が印字されている。「一目で漁師のたこ焼き屋だと分かるインパクトをつけたかった」(星さん)

七ヶ浜でキッチンカーでのたこ焼き販売を始めたところ、夏祭りの時期が重なったのもあって飛ぶように売れました。夏祭りの日は、6個入りで600円のたこ焼きが一日150個〜200個ほど売れましたね。

——星さんのキッチンカーには現在もよく行列ができるそうですが、どんなお客さんが訪れるのでしょうか?

TikTokは今、若い人はもちろんお子さんも当たり前のように見ているので、隣県の岩手から来てくれるフォロワーさんや子ども連れの方が多いです。「やっと会えた!」「食べてみたかった」と言ってもらえるのはうれしいですね。本業の漁業でも、キッチンカーは夏のみ20回ほど出していて、タコを水揚げすればするほどキッチンカー事業に回せます。挑戦してみて悪いことは一つもなかったです。

——次々と新しい挑戦をされている星さん。キャリアに悩むはたらく若者の中には、「失敗が怖い」「上手くいかなかったら恥ずかしいな」という思いで新たな一歩を踏み出せない人も多いです。そうした思いを抱いたことはありませんか。

漁師は自然相手の仕事。「前向きでなければやっていけない」というのはありますが、もともと他人の評価は気にしない性格です。

というより、一旦他人の視線を意識すると絶対に気持ちが浮き沈みしてしまうから、ぼくは最初から「なるようになる。何を言われてもいい」と思うようにしているんですよね。すべては自分の心持ち次第だと思っています。

七ヶ浜の海は今後も温暖化の影響で変わっていくと思いますが、どんな逆境にも負けていない姿を、これからも発信していきたいですね。

(文:原 由希奈 写真提供:星佳久氏)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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